第三十話 いつもの厨房で
旅から戻った翌朝、私はいつもの時間に厨房に来た。
王都の冬の空気が、冷たく鼻の奥を刺した。北方の湿った冷たさとは違う。乾いて、澄んでいる。三日ぶりに嗅ぐ王宮の厨房の空気は、バターとスパイスと石の匂いが混じった、いつもの匂いだった。
「おはようございます」とグレンが言った。
「おはようございます」
「よく眠れましたか」
「北方より暖かかったので、よく眠れました」
グレンが「それはよかったです」と言いながら、鍋の準備を始めた。いつも通りだった。旅の前と、何も変わっていない朝だった。
(変わっていないのに、少し違う)
その感覚は昨日厨房に戻ってきた瞬間から続いていた。作業台も、石窯も、棚の道具も——全部同じ場所にある。でも同じ厨房が、前とは少しだけ別の場所になった気がしている。
今日から、ここに来る人が一人増える。
私は作業台にメモを広げた。今日何を作るか、まだ決めていなかった。北方のプレゼンで使った可可の焼き菓子をもう少し練り直す予定もある。エルナへの約束として、北方の気候でも作れるレシピを整理する仕事もある。晩餐会向けの新しいマカロンのフレーバーも試したかった。
やることは山ほどある。
でも今日の最初に何を作るか、手が動かなかった。
(好きなものを作れ、と——昨日、馬車の中で言われた。もしそれが今日も有効なら、何を作ろうか)
バターの香りを想像した。チョコレートの苦みを想像した。砂糖を焦がしたときの、鼻の奥を刺す甘い煙の匂いを想像した。
「令嬢様」とグレンが言った。
「なんですか」
「扉が」
私は振り返った。
厨房の扉が、開いた。
ファルク殿下が、敷居をまたいで、中に入ってきた。
「通りかかって扉の前で止まる」でも、「扉越しに声をかける」でもなかった。扉を開けて、中に入ってきた。それだけのことなのに、厨房の空気が少しだけ変わったような気がした。前世のオフィスで、いつも廊下を通り過ぎるだけだった人が、初めて自分の席のそばまで来たときの感覚に、少し似ていた。
「おはようございます」と私は言った。
「ああ」とファルクが言った。厨房の中を一度だけ見回して、壁際の椅子に目を止めた。「座っていいか」
「どうぞ」
ファルクが椅子を引いて、腰を下ろした。自然な動作だった。初めてその椅子に座る人間の動作ではなく、もう何度も座ったことがある人間のような、落ち着いた座り方だった。
「何を作るんだ」とファルクが聞いた。
「……まだ決めていません」
「そうか」
「珍しいですか」
「いや」とファルクが言った。「では好きなものを作れ」
(昨日と同じ言葉だ)
でも昨日の馬車の中で聞いたときより、今日の方が、その言葉が重く聞こえた。厨房という場所で、椅子に座ったこの人が言うと、重みが違う。
「……では」と私は言った。「可可を使ったものにします。北方のエルナ様のお宅に届けられるように、もう少し改良したくて」
「エルナへの、か」
「約束したので」
ファルクが少し間を置いてから「そうか」と言った。それだけだった。それで十分だった。
*
グレンが「殿下、お茶をどうぞ」と言って、小さなカップを持ってきた。
ファルクが「ありがとう」と言って受け取った。
グレンが、くるりと背中を向けて奥へ戻った。
(今の顔を見たか)
私はグレンの背中を見ながら内心で思った。「よかったよかった」以外の言葉では表せない顔だった。料理長歴二十年以上の職人が、心の底から安堵した人間の背中をしていた。
(グレンは、ずっとこれを望んでいたんだろうな)
私が厨房に通い始めた頃から。ファルク殿下が廊下を通りかかるようになった頃から。ずっと、この光景を待っていたんだろう。
私は可可の粉を計りながら、ちらりとファルク殿下の方を見た。
お茶を持ったまま、窓の方を見ていた。王都の冬の光が横から差して、その横顔に当たっていた。完璧な王子の立ち姿とも、深夜に差し入れを持ってきた不器用な先輩の姿とも違う——椅子に腰を下ろして、厨房の光の中にいる、今のこの人の顔だった。
(この顔を見るためだけに、菓子を作り続けてもいい気がする)
そう思ってから、少し驚いた。前世では「菓子は自分のために作る」と決めていた。今世でも、ずっとそのつもりだった。でも今、頭に浮かんだのはそれだった。
「前世で言えなかったことを、今世で言えばいい」と——あの夜、自分で言った。
(まだ、全部は言えていない)
でも、それでいい。今日じゃなくていい。この厨房に、明日もこの人が来る。明後日も来る。言葉は、ちゃんと届く場所にいる人に、届く時間に言えばいい。
前世では、機会を待ちすぎて、機会がなくなった。
今世では——機会を作れる場所に、最初からいる。
可可の粉とバターを合わせると、深い香りが立ち上がった。苦みの中に甘さが予感される、あの匂いだ。
「いい香りだな」とファルクが言った。
「可可です。慣れると、これがないと物足りなくなります」
「……そうか」
ファルクがお茶を一口飲んだ。グレンが奥で何かを刻む音がしていた。石窯が静かに温まっていた。
しばらくして、グレンが「令嬢様、一つよろしいですか」と言いながら近づいてきた。
「なんですか」
「旅の間に、少し話が来ていまして」
「話、とは」
グレンが少し間を置いた。珍しく、言いにくそうにしていた。
「……王都の菓子店から、です」
「菓子店」
「はい。令嬢様の菓子を——売ってほしい、と」
私は手を止めた。
ファルク殿下が、カップを置いた。
二人同時に、グレンの方を振り返った。
グレンが「突然の話で恐縮なのですが」と続けた。「晩餐会でお出しした菓子の評判が外まで広まったらしく、その……王都の通りにある菓子店の店主が、ぜひお話を、と」
私とファルク殿下が、今度は顔を見合わせた。




