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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第二十九話 帰り道の馬車の中で

 北方を発つ朝は、来たときより空が広く見えた。


 気のせいではないと思う。来るときは「これから何が起きるか」という密度で頭が埋まっていて、景色を見る余裕がなかった。帰るときは、少し違う。終わったことが、空間を広くする。


 エルナが館の前で私の隣に立って、山の方を見ていた。


「また来られるといいですね」と私は言った。


「……そうですね」とエルナが言った。昨日より目が少し晴れていた。昨夜、クラウスと何か話したのかどうかは聞かなかった。でも、来たときより軽い顔をしていた。


「うまくいくといいですね」と私は言った。


「何が、ですか」


「気にしないでください」


 エルナが小さく笑った。「セシル様の『気にしないでください』は、いつも気になるんですが」


 馬車の扉が開いた。



 帰りの馬車も、来たときと同じ並びだった。ライオネル殿下とエルナが向かい合わせの一方、ファルク殿下と私が反対側。


 出発してしばらくは、来たときと同じように四人それぞれが静かだった。でも今回の沈黙は、来たときの沈黙とは少し違う種類だった。来るときは「これからどうなるか」という張り詰めた静けさだった。帰りの静けさは——何かが終わった後の、落ち着いた静けさだった。


 山が、少しずつ遠くなっていった。


「セシル様」とエルナが言った。


「はい」


「……ありがとうございました」


 まっすぐな声だった。


「縁談のことも、クラウスのことも——私一人では、どうにもできないと思っていました。諦めることが正しいと、ずっと思っていたので」


「何か変わりましたか」とライオネルが横から言った。珍しく静かな声だった。


 エルナがライオネル殿下の方を見た。「……殿下が、変えてくださったんだと思っています」


「私は条件を整えただけだ。動いたのは君自身だろう」


 エルナが少し黙った。「そう言われると、そうかもしれません」


「そうだ」とライオネルが言った。短く、でも確かな声だった。


 (この人は、こういうことを言えるのか。政治家の顔だけではないらしい)


 私がそう思っていると、ライオネルが「長旅で疲れた」と言って目を閉じた。三分後には、規則正しい呼吸をしていた。


 (眠るのも早い人だ)


 エルナが小さく笑った。「殿下は、馬車が揺れると眠れるそうです。昔から」


「エルナ様はご存知なんですね」


「幼い頃から、家に来られていたので」


 そうか、と思った。ライオネル殿下にとっても、エルナは幼馴染に近い存在なのかもしれない。縁談の話が出たのも、それだけ信頼できる相手だったからということだろう。


 エルナが窓の外を見た。山が、もうずいぶん小さくなっていた。


「北方に、また来られますか」とエルナが言った。


可可(カカオ)の流通の件が動けば、来ることになると思います」


「その時はうちの厨房を使ってください。料理人に、菓子の作り方を教えてもらえると嬉しいです」


「喜んで」


 エルナが再び窓の外を向いた。しばらく山を見て——それから、静かに目を閉じた。揺れに身を任せるように、少しずつ、呼吸が穏やかになっていった。


 馬車の中が、静かになった。



 ライオネル殿下が眠り、エルナもうとうとした頃、馬車は北方の山道を抜けて、なだらかな平地に入っていた。空が広くなり、雪が少なくなり、木々の色が変わり始めていた。


 ファルク殿下が、窓の外を見ていた。


 私も窓の外を見ていた。


 向かいで二人が眠っているせいで、馬車の中が「二人だけ」に近い状態になっていた。昨夜のことが、頭の端に戻ってきた。


 (昨夜のことは今日の仕事が終わってから考えようと思っていたが——今日の仕事は終わった)


 ファルク殿下が、窓から視線を外さずに言った。


「厨房に、また来ていいか」


 私は少し固まった。


「……殿下はいつも通りかかるだけでは」


「通りかかるのをやめる」


 (第6話で「通りかかっただけ」と言っていた人が、今「通りかかるのをやめる」と言っている)


 この変化が何を意味するか、わからないほど鈍くはなかった。


「……どういう意味ですか」と私は聞いた。確認のために聞いた。わかっていたが、聞いた。


「中に入る」とファルクが言った。「毎日。グレンに茶を出してもらいながら、君が何を作るか見ている」


「それは」


「邪魔か」


「……邪魔ではないですが」


「では問題ない」


 問題があるとしたら、毎日ファルク殿下が厨房にいる状態に私の心拍数が慣れるかどうか、という問題だったが、それは言わなかった。


「グレンが喜びます」と私は言った。


「グレンが」


「殿下が中に入って椅子に座ってくれると、グレンは長年の夢が叶ったみたいな顔をすると思うので」


 ファルク殿下が、少し目元を緩めた。笑ったとは言えないが、笑いに近い何かだった。


「……グレンの夢は、それか」


「たぶん」


 馬車が、少し大きく揺れた。向かいでエルナが目を覚ました。ライオネル殿下は引き続き眠っていた。


 遠くに、王都の城壁が見え始めていた。


 「もうすぐですね」とエルナが言って、窓の外を見た。「……よい旅でした」


「そうですね」と私は答えた。


 馬車が、王都の城門をくぐった。石畳の音がした。空気が変わった。北方の湿った冷たさから、王都の乾いた冬の空気に戻った。



 厨房の前でグレンが待っていた。


「お帰りなさいませ」とグレンが言った。いつも通りの声だった。いつも通りの立ち方だった。でもよく見ると、目の端が少し笑っていた。


「ただいま戻りました」と私は言った。


「旅はいかがでしたか」


「いろいろありました」


「そうですか」


 グレンが扉を開けた。厨房の中に入った。作業台があって、石窯オーブンがあって、棚に並んだ道具があって——三日前と何も変わっていない。


 でも、少し違って見えた。


 (ここに、明日からファルク殿下が来る)


 (通りかかるのではなく、中に入って、椅子に座る)


 それだけのことのはずなのに、同じ厨房が、前とは別の場所になったような気がした。何かが変わったのか、私が変わったのか、どちらだろうと思いながら、私はエプロンを手に取った。


「グレン、明日の仕込みから始めましょう」


「はい」とグレンが答えた。「お帰りなさいませ、令嬢様」


 厨房の石窯オーブンが、まだ温かかった。


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