第二十八話 ライオネルの意外な一面
昨夜のことは、朝になってもまだ、胸の中にあった。
北方の朝は早い。窓から見える山が、夜明けの光で薄桃色に染まっていた。王都では見ない色だった。私はしばらくその色を見てから、顔を洗って、身支度を整えた。
今日はプレゼンの後処理が残っている。シュタイン侯爵家の当主が昨日の提案に前向きな反応を示してくれたので、今日の午前中に細部を詰める予定だった。昨夜のことは——昨夜のことだ。今日の仕事は今日の仕事だ。
(そう思えているのは、前世の社畜経験のせいか、それとも今世でそういう人間になったのか)
どちらでも、今は構わなかった。
廊下に出ると、侍従が「ライオネル殿下がお呼びです」と告げた。
*
呼ばれたのは、館の西側にある小さな朝食室だった。
ライオネル殿下が一人で座っていた。テーブルの上にパンと紅茶があった。私が入ると「座れ」と言った。いつもの命令口調だったが、昨日より少し気が抜けた声だった。
「昨夜、弟と話していたな」
私は座りながら「見ていたんですか」と答えた。
「見ていない」とライオネルが言った。「今朝の弟の顔が、昨日までと違う」
(朝食の席で、もう確認したのか。この人の情報収集の速さは本当に厄介だ)
「……そうですか」
「どんな話をした」
「個人的な話です」
「そうか」
ライオネルが紅茶を一口飲んだ。それ以上、昨夜のことは聞かなかった。
(この人は、聞いても仕方ないと判断したら聞かない。それだけのことだ)
「本題に入る」とライオネルが言った。「菓子外交の案——採用する」
私は少し姿勢を正した。
「シュタイン侯爵家の当主も、昨日の話に乗り気だった。王室御用達のライセンス付与と可可の流通権については、帰国後に正式な交渉を始める。契約の下書きは私の側で用意する。君は内容の確認をしてくれ」
「わかりました」
「エルナについても話がついた」
私は少し止まった。「縁談の件ですか」
「ああ。エルナ自身と話した。シュタイン家との関係強化が菓子外交と流通権の契約で担保できるなら、婚姻による結びつきは必須ではないという結論になった」
「エルナ様は」
「望んでいないと、本人が言った」ライオネルが少し目を細めた。「珍しいことだ。あの子がそういうことを口にするのは」
(エルナが自分で言ったのか。——昨夜、クラウスと話した後で、決めたのかもしれない)
「縁談は別の形で解決します」とライオネルが続けた。「クラウスの身分を上げる方法がある。すぐにとはいかないが、道筋はある。エルナが希望するなら、邪魔はしない」
「……殿下は」と私は言った。「最初からそのつもりだったんですか」
ライオネルが私を見た。少し間を置いてから、笑った。
「君を試していた部分もある。よく動いた」
(試していた。やはり、そういうことか)
第16話で「盤面を動かした顔」をしていた理由が、ここで全部繋がった。ライオネル殿下はから最初から「婚姻以外の解決策を誰かが持ってくるか」を見ていた。セシルが「婚約のためではなく菓子のため」と答えたとき、「この令嬢なら動くかもしれない」と計算した。そして一週間の猶予を与えて——待っていた。
(この人も、待つのが上手だ。方向性は全然違うが)
私が何も言わないでいると、ライオネル殿下の声のトーンが、静かに変わった。
「一つ、教えておいてやろう」
「……なんですか」
ライオネルが、窓の外を見た。朝の山が、光の中にあった。
「実のところ、弟はあわや王位継承権を放棄してでも——エルナとの縁談を蹴る準備を進めていた」
私の思考が、止まった。
「……え」
「極秘で動いていた。私が気づいたのは、君が提案を持ってくる、三日前だ」
ライオネルの横顔は、笑っていなかった。
「あのまま君が何も動かなかったら、弟は継承権を手放していた。そうなれば——弟を支持する派と私を支持する派に、王家の内部は割れていた。それは国として最悪の状況だ」
「…………」
「君の提案は、国を一つ救ったかもしれない。それは覚えておいてくれ」
私は声が出なかった。
(ファルクが——継承権を)
頭の中で、その言葉だけが繰り返された。継承権を放棄してでも縁談を蹴る。それが意味することを、私は理解していた。王族にとって継承権は権力の根拠だ。それを手放すことは、王家の中での立場を失うことに等しい。
(私のために、そこまで——)
(それを知らないまま、私は「チームとして動いた」と思っていた)
胸の中でじわじわと、熱いものが広がり始めた。
(この人は——不器用すぎる)
前世の加藤先輩の顔が浮かんだ。転勤が決まる前から、先輩は異動の内示を受けていたと後で知った。知っていながら何も言わなかった。「心配させたくなかった」と、もし聞けたなら、きっとそう言っただろう。大事なことを、絶対に自分からは言わない人だった。
(同じだ。この人は、前世でも今世でも、同じ不器用さを持っている)
「弟を頼む」とライオネルが言った。静かな声だった。政治家の声ではなく、兄の声だった。
私はすぐには答えられなかった。喉の奥に何かが詰まっていた。
「……弟の方が、頼もしいですが」
ライオネルが、小さく笑った。
「それでいい。あいつはそういう人間が隣にいた方がいい。能力が高くて、弟を必要とせずに動けて——でも、隣にいることを選んでくれる人間が」
私は頷いた。
声が、少し、うまく出なかった。
(チームなので、と言い続けてきた。でもそれは、私が選んでいたことだったのか——それとも、この人が先に、選んでいたのか)
窓の外の山が、朝の光の中で白く静かにあった。




