第二十七話 二回分の好き
北方の夜の空気が、冷たく、肺の中に入ってきた。
「……続けろ」という声が、廊下の石に吸われて消えた。
私はしばらく、窓の外を見ていた。月が山の稜線の少し上にあった。雪の白さと月の白さが混じって、夜なのに遠くまで見えた。
どこから話せばいいか、考えた。
最初から話す方がいい、と判断した。途中から始めると、また途中で止まる。
「前世の記憶が戻ったとき」と私は言った。「二つが混ざって、しばらく混乱しました」
ファルク殿下が何も言わなかった。聞いていた。
「加藤先輩——前世のファルク殿下への気持ちと、今世でのファルク殿下への気持ちが、どこまでが前世の感情の残りで、どこからが今世のものなのか、区別がつかなかったです。前世の記憶がある分、余計に混ざった」
「……わかる」とファルクが言った。低い声だった。
「一週間、菓子を作りながら考えました」
「菓子を作りながら」
「考えるのに向いているんです、あの作業が。手を動かしていると、頭の中が整理されていく」
ファルクが少し黙った。「それで」
「わかりました」
「何が」
私は窓の外を見たまま、一度だけ目を閉じた。
前世で言えなかった理由を、今になって考えると——怖かったわけでも、タイミングがなかったわけでもない。ただ、「言っても何も変わらない」と最初から決めていた。言葉にする前に、結末を決めていた。それが後悔になった。
今も怖い。言葉にしたら変わってしまうものがある。でも今度は——変わることを、止める理由がない。
「前世の先輩に言えなかったことを、今世で言えばいい」と私は言った。「——ただそれだけのことでした」
そして、続けた。
「今のファルク殿下のことが、好きです」
声が思ったより落ち着いていた。震えなかった。前世では一度も言えなかった言葉が、今世では声になった。それだけのことのはずなのに、言った瞬間に胸の中で何かが解けるような感覚があった。
ファルク殿下が——止まった。
三秒間、完全に止まった。
(またその三秒だ)
初めて厨房でスポンジ菓子を食べたときと同じ三秒。深夜に差し入れた菓子を受け取ったときと同じ三秒。この人の「止まる三秒」は、毎回、何かが本物になった瞬間に起きる。
三秒が過ぎた。
ファルク殿下が、こちらを向いた。
今まで見たことのない表情をしていた。無表情とも、感情を抑えた顔とも違う——何かが、滲んでいた。前世でも今世でも、この人が誰かに対してこういう顔をするのを、私は見たことがなかった。
ファルクが、静かに言った。
「……私も、同じだ」
私は少し止まった。
「同じ、とは」
「私にも、二つある」ファルクが言った。「前世の気持ちと、今世の気持ち。君と同じように、最初は混ざっていた。今世で婚約者として会った相手が、前世で自分が好きだった人間と同じ魂を持っていると気づいたとき——どちらの感情で接すればいいのか、わからなかった」
「……いつ気づいたんですか。私が前世の記憶を持っていることに」
「君が厨房で菓子を作り始めた頃だ。作り方が、前世で知っていた作り方だった」
(そんなに早くから知っていたのか)
私が固まると、ファルクが続けた。
「言わなかった理由は——君が自分で整理するのを待った方がいいと思ったから。私が先に言えば、君の答えが変わる可能性があった」
「……この人は本当に」
「何か言ったか」
「いいえ」
(この人は本当に、ずるい待ち方をする)
でも、嫌ではなかった。前世の加藤先輩が転勤するまで何も言わなかったのとは違う。あれは「言わない」ことを選んだ。ファルク殿下の「言わない」は——「言えるときを、作ろうとしていた」待ち方だった。
「整理できたか」とファルクが言った。
「……はい」
「二つが、分かれたか」
「分かれました。前世の先輩への気持ちは、前世で完結しています。今のあなたへの気持ちは——今世のものです。混ざっていない」
ファルクが、もう一度、静かに言った。
「……私も、同じだ」
今度は同じ言葉でも、意味が違って聞こえた。最初の「同じだ」は「自分も二つある」という意味だった。今度の「同じだ」は——「私の今世の気持ちも、今のお前に向いている」という意味だった。
言葉が少ない。この人はいつも言葉が少ない。でも今夜は、少ない言葉の全部が、過不足なく届いた。
二人の間の空気が、静かに変わった。
廊下の石が冷たかった。月が北方の山の稜線にかかっていた。どこかで風が鳴った。それだけだった。それで、十分だった。




