第二十六話 ファルクがほんの少し崩れる
視察二日目の夜は、静かだった。
侯爵家の当主への初日の挨拶は滞りなく終わった。ライオネル殿下が外交的な話をして、ファルク殿下が必要な言葉を添えて、私はまだ何も言わなかった。プレゼンは明日だ。今夜は準備の確認と、頭を休めることだけを考えるつもりだった。
夕食が終わって、ライオネル殿下とエルナがそれぞれ自室に引き上げた後、私は館の東側の廊下に出た。石造りの廊下の端に、外に面した大きな窓がある。窓枠に手をついて外を見ると、北方の夜が広がっていた。
月が出ていた。王都で見る月より大きく見えた。気のせいかもしれないが、北方の空は低いような気がする。雪をかぶった山の稜線が月の光を反射して、暗いのに白かった。
空気を吸うために来たが、窓を開けると思っていたより冷たくて、すぐに閉めた。でも離れなかった。こういう景色は、前世でも今世でも、見ていると頭の中が静かになる。
(明日のプレゼン。侯爵家の当主の顔は今日見た。話の通じそうな人だったが——)
足音が、廊下の奥から近づいてきた。
振り返ると、ファルク殿下が歩いてくるところだった。
「こんなところにいたか」とファルクが言った。
「眠れなかったので」
「明日の準備か」
「頭を休めようとしているのですが、うまくいかなくて」
ファルク殿下が隣に来て、同じように窓の外を見た。二人並んで、しばらく何も言わなかった。北方の夜が、窓ガラスの向こうにあった。
「雪が多いですね」と私は言った。
「もう少し奥に入ると、冬は閉じる村がある」
「人が移動するんですか」
「冬の間は下りてきて、春になると戻る。昔からそうらしい」
「不思議な暮らしですね」
「王都から見れば、だろうな」
会話が途切れた。途切れ方が、いつもと少し違った。話題が尽きた沈黙ではなく、何かの前の沈黙だった。
ファルク殿下が、窓の外を見たまま言った。
「前世の先輩に、また会えてよかったと思っているか」
私は少し止まった。
(いきなりだ。この人はいつも、こういう聞き方をする)
準備をしていなかった問いだった。でも考えてみると、準備をしていたとしても答えは変わらなかっただろう。
「……先輩に会えたこととは、別だと思います」
「どういう意味だ」
今度は私が窓の外を見た。月が山の上にあった。
「ファルク殿下に前世の記憶があることで、私は混乱しました。加藤先輩への気持ちと、今世での気持ちが——どこまでが前世の感情の残滓で、どこからが今世のものなのか、しばらくわからなかったです」
「今は」
「今は、わかります」
ファルク殿下が、こちらを向いた気配がした。私はまだ窓の外を見ていた。
「前世の加藤先輩が好きだったのは、本当です。あの人への気持ちは本物で、今世に持ち越してきたものだと思っています」
「……ああ」
「でも」
そこで少し止まった。
言おうとしている言葉が、頭の中にある。形はある。でも声にすると、取り消せなくなる。前世でも今世でも、言葉にした瞬間に現実になるものがある。
「でも——今のファルク殿下が好きなのも」
そこで止まった。
止まってしまった。
続きが出てこなかったのではなく——出てきたが、止まった。声が、一歩手前で固まった。
ファルク殿下が、何も言わなかった。
急かさなかった。問い返さなかった。ただ——待っていた。
(この人は本当に待つのが上手だ)
前世でも、加藤先輩は待つ人だった。こちらが言葉を探しているとき、先輩は絶対に先に話さなかった。沈黙を埋めようとしなかった。それが当時は少し怖かった。沈黙の中で自分の気持ちが丸裸になっていく感じがして。
今も、同じだった。
この沈黙の中にいると、誤魔化しが通用しない。「気にしないでください」も、「それはそういうわけでは」も、全部この人の前では意味をなさない気がする。
「……続けろ」
ファルクが、静かに言った。
声が低くて、静かで——でも確かに、そこにあった。
私は深く息を吸った。
北方の夜の空気が、冷たく、肺の中に入ってきた。




