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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第二十五話 北方と想い人とエルナの覚悟

 三日かけて、シュタイン侯爵家の領地に着いた。


 王都とは空気が違った。冷たさの質が違う。王都の冬は乾いた冷たさだが、北方のそれは湿っていて、骨に染みる種類の冷たさだった。馬車を降りた瞬間に、思わず肩が縮んだ。


 「寒いですか」と隣でエルナが言った。


「少し」


「慣れると、この方が落ち着きます」


 エルナの頬に、ほんのわずかだが色が戻っていた。三日間の道中、馬車の中では窓の外を見ていることが多かったが、今は違う目をしていた。自分の場所に帰ってきた人間の目だった。


 シュタイン侯爵家の館は、石造りで重厚だった。王都の貴族の邸宅とは設計の思想が違う。装飾より実用、華やかさより堅牢さを優先した建物だ。前世の北欧の建築に少し似ていると思った。



 クラウスに会ったのは、到着した日の夕方だった。


 館の廊下を案内されている途中、向こうから一人の男が歩いてきた。背が高く、肩幅が広く、革製の上着を着ていた。年は二十代後半ほど。顔に余分なものがない——感情を表に出すことを習慣にしていない人間の顔だった。騎士団の副団長、という話を聞いていなくても、戦場に近いところにいる人間だとわかる立ち方だった。


 その人が廊下の向こうに現れた瞬間、私の隣でエルナが止まった。


 気づいたかどうか、わからないほど小さな動きだった。でも確かに止まった。半歩だけ、息が変わった。


 クラウスも止まった。


 二人の目が合った。


 合ったまま、二人とも何も言わなかった。クラウスが「エルナ様」と言った。敬称をつけた、礼儀正しい声だった。「お帰りなさいませ」。エルナが「ただいま戻りました」と答えた。


 それだけだった。


 クラウスが私たちに礼をした。その瞬間、革の上着の横に下げていた分厚い手が、ほんの一瞬だけ——何かを掴もうとするように動きかけて、すぐに固く握り直された。本人は気づいていないかもしれない。でも私には見えた。


 クラウスが廊下を通り過ぎた。エルナが正面を向いたまま、少しの間、動かなかった。


 (……二人の間に、確かに何かがある)


 傍から見れば明らかだった。距離の取り方、声のトーン、目線の合い方——全部、「ただの主君と臣下」ではなかった。どちらも抑えていたが、抑えていること自体が、何かの証拠だった。


 「行きましょう」とエルナが言った。普通の声だった。私はそれに従った。



 その夜、私はエルナと同じ棟の隣室に泊まった。


 消灯前、エルナが「少し話せますか」と扉の向こうから言った。私は「どうぞ」と答えた。


 エルナが部屋に入ってきて、椅子に座った。毛布を肩にかけていた。窓の外に雪山の稜線が白く見えていた。


「昼間、見ていましたか」とエルナが言った。


「少し」


「変だったかもしれません」


「変ではなかったです」


 エルナが膝の上に手を置いた。「……どうせ変わらない、と思っています。何をしても。私は侯爵家の娘で、クラウスは騎士団の副団長で、それは変わらない」


「変えようとしましたか」と私は聞いた。


 エルナが少し黙った。


「……できません」


「できない、と試してみましたか」


「試すことができません。何をどう動かせばいいか——」


「私は」と私は言った。「最初から諦めていた婚約を、変えようとしました」


 エルナが私を見た。


「前世の記憶を持っていたので」と私は続けた。「前世の後悔があったので。だから——」


 そこで気づいた。


 (また言ってしまった)


 (……昨日、馬車の中でファルク殿下が「前世からの習慣らしい」と口走った瞬間、内心で突っ込んだばかりなのに。全く同じことをしてしまった)


「……前世の、記憶?」とエルナが目を丸くした。


「気にしないでください」


「気にします。前世というのは——」


「本当に、気にしないでください」


 エルナが私をしばらく見て「……セシル様は不思議な方ですね」と言った。今月に入って三回目か四回目の「不思議な方」だった。


「よく言われます」


「前世の記憶があるとして——その、婚約を変えようとした話は、本当ですか」


「本当です」


「どうして変えようと思えたんですか」


 私は少し考えた。


「後悔していたからだと思います。前世で言えなかったことがあって——このままでは同じことを繰り返すと思ったので」


 エルナが「後悔」という言葉を、静かに繰り返した。「後悔、か」


「エルナ様には、後悔がありますか」


「……あります」とエルナが言った。低い声だった。「何も言わないまま王都に来て、何も言わないまま北方に戻ってきた。今日も廊下で会って、何も言わなかった。それが——正しい選択かどうか、わからなくなってきました」


「正しいかどうかと、したいかどうかは、別の話だと思います」


 エルナが私を見た。「……難しいことを言いますね」


「難しくはないです。正しいかどうかは後から決まることが多い。でもしたいかどうかは、今決まっています」


 エルナがしばらく黙っていた。窓の外の雪山が、月の光を反射して白く光っていた。


「……今は、まだわかりません」とエルナが言った。「でも、考えます。ちゃんと」


「それで十分だと思います」


 エルナが立ち上がった。「お休みなさい、セシル様」と言って、扉に向かった。途中で振り返って「前世の記憶の話、またいつか聞かせてください」と言った。


「気にしないでください、と言いました」


「気にします」とエルナが言って、扉を閉めた。



 翌朝、私が館の廊下を歩いていると、後ろから「セシル様」と呼ばれた。


 振り返ると、クラウスが立っていた。


「少し、よろしいですか」


 人気のない廊下だった。クラウスが真剣な顔で、それでも声を落として言った。


「……エルナのことを、頼みます」


 私は少し間を置いてから言った。


「あなたがそれを言いに来る立場ですか」


 (案件を当事者が処理せずに第三者に丸投げする、前世でいえばコンプライアンス上問題のある依頼の仕方だ。しかも当事者意識が根本的に足りていない)


 クラウスが一瞬、目を細めた。反論しようとして——しなかった。


「……おっしゃる通りです」と低い声で言った。「でも、私には、これしか言えません」


「エルナ様は」と私は言った。「自分で考えています。それで十分です」


 クラウスが何か言おうとして、また黙った。


「あなたも」と私は続けた。「言えることがあるなら、私にではなくご本人に言った方がいいと思いますが」


 クラウスの顔に、かすかに何かが動いた。驚きとも、動揺とも取れない——ただ、何かが揺れた顔だった。


「……肝に銘じます」とクラウスが言った。礼をして、廊下を歩いて行った。


 私はその背中を見ながら、(それはそういうことじゃなくて、あなた自身の問題なんですが)と内心で思ったが、言わなかった。言っても仕方ない類のことだった。

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