第二十四話 北方への道中
出発の朝は、早かった。
夜明け前から馬車の準備が始まり、私が厨房で最後の荷物を確認しているところにグレンが来て「令嬢様、これを」と小さな缶を渡してくれた。丸い蓋のついた金属の缶で、中に薄焼き菓子が詰まっている。
「道中のものです」とグレンが言った。「三日分より少し多めに入れました」
「ありがとうございます」
「……くれぐれも、無理はなさらないよう」
「グレン」
「はい」
「『無理はするな』は殿下の台詞です」
「私が言ってはいけませんか」
(言ってもいいが、二人に同じことを言われると少し困る)
缶を荷物の上に置いて、私は馬車へ向かった。
*
四人乗りの馬車は、広くはなかった。
向かい合わせの座席に二人ずつ。ライオネル殿下とエルナが一方、ファルク殿下と私が反対側に座った。この並びを決めたのは誰なのか私は知らないが、座ってから少しだけ後悔した。ファルク殿下と隣に座ると、距離が近い。前世の通勤電車ほどではないが、袖が触れそうな距離だ。
(気にしない。気にしない。北方まで三日、気にしない)
馬車が動き出した。王都の石畳を抜けると、道が少し揺れ始めた。
最初の一刻ほどは、四人とも静かだった。
ライオネル殿下が窓の外を見ていた。エルナが手元の布を整えていた。ファルク殿下が何かを考えている顔で正面を向いていた。私は膝の上に荷物を置いて、頭の中でシュタイン侯爵家に対するプレゼンの構成を復習していた。
この沈黙を最初に破ったのは、ライオネル殿下だった。
「——それにしても」とライオネルが言った。にこやかな声だった。「こういう四人で馬車に乗るのは初めてだな」
(どういう意味だ)と私は思った。
(どういう意味だ)とエルナも思ったはずだ。横顔がわずかに強張った。
「縁談候補の令嬢」と「現婚約者」が同じ馬車に乗っているという状況を、ライオネル殿下が今さら指摘した。場を和ませようとした発言だと思う。でも結果として、むしろ「それぞれが異なる事情を抱えた四人」という事実が、馬車の中に静かに広がった。
「……そうですね」とエルナが答えた。礼儀正しい声だった。
ライオネルが「エルナは北方に帰るのが久しぶりか」と続けた。今度は話題を変えようとした発言だと思う。
「二年ぶりです」とエルナが答えた。
「寂しかったか、王都は」
「いいえ。……いろいろと、勉強になりました」
その「いろいろ」の中にクラウスのことが含まれているのか、王都で初めて食べた可可の焼き菓子のことが含まれているのか、私には分からなかった。エルナの表情は穏やかだったが、窓の外を見る目が少しだけ遠かった。
ライオネルが次の話題を探すように「ファルク、北方は久しぶりだな」と弟に振った。
「五年前だ」とファルクが短く答えた。
「あの頃はまだ弓の腕が今ほどではなかったな」
「殿下の話をしているんですか」
「……そうだな」
会話が、また止まった。
ライオネルが、諦めたように窓の外を向いた。場を和ませようとして、逆に場の複雑さを一周してしまった顔だった。
(この人でも、こういうことはあるんだ)
私は少し考えてから、荷物の上に置いていた缶を取り出した。
*
金属の蓋を開けると、バターの香りが馬車の中に広がった。
エルナが「……あ」と言った。
「道中のものです。よければ」
「またこれですか」とエルナが言った。口調は呆れていたが、手が先に動いていた。一枚取って、口に入れた。もう一枚取った。三枚目に手を伸ばしながら「——やっぱりおいしいです」と言った。
「三枚食べながら言うセリフではないです」
「だって本当のことなので」
ライオネルが「私にも」と言って缶に手を伸ばした。一枚食べた。少し間を置いた。「……うまいな」と言って、もう一枚取った。
(この家系は本当に全員同じ反応をする)
ファルク殿下が缶をこちらに向けると、私は「殿下もどうぞ」と言った。ファルクが一枚取って、静かに食べた。窓の外を見たまま食べていたが、その横顔が、ほんの少しだけ、出発前より柔らかくなっていた。
「君は本当にいつも菓子を持ち歩いているんだな」とライオネルが言った。「出発前も厨房にいたと聞いたが」
「習慣です」と私は言った。
「どこで身についた習慣だ」
「……厨房で」
「厨房で育ったのか」
「そういうわけでは——」
「前世からの習慣らしい」
低い声が、横から聞こえた。
ファルク殿下が言っていた。窓の外を見たまま、それだけ言って——すぐに口をつぐんだ。気づいたように。言い過ぎたように。
馬車の中が、一瞬だけ静止した。
私はゆっくりとファルク殿下の方を見た。ファルク殿下は窓の外を向いたままだった。
(……なぜ知っているんですか)
という目線を向けたが、受け取ってもらえなかった。意図的に受け取らなかったのか、本当に気づかなかったのかは判断できなかった。
ライオネルが「前世?」と言いかけて、弟の顔を見て、何かを察したように話題を変えた。
「……まあ、美味けりゃいい」
エルナが四枚目に手を伸ばしていた。
*
昼を過ぎると、道が山の裾野に沿って続くようになった。木が多くなり、空が狭くなった。王都の乾いた冬の空気とは少し違う、湿り気のある冷たさが、窓の隙間から入り込んでくるようになった。
ライオネルがいつの間にか目を閉じていた。エルナは手元の小さな本を開いていた。
馬車が少し揺れて、エルナが本から顔を上げた。窓の外を見た。
「——景色が変わってきましたね」と小さな声で言った。
「北方が近づいているんですか」と私は聞いた。
「まだ遠いです。でも、空気が変わると……帰ってきた気がします」
エルナが窓の外を見続けていた。木々の間から、遠くに白い山の輪郭が見えていた。その横顔は、穏やかだった。でも穏やかさの奥に、なにか——言葉にならないものが混じっていた。
「北方に帰るのは、久しぶりです」とエルナが言った。「……嬉しいはずなんですが」
そこで止まった。続きは言わなかった。
私は何も聞かなかった。聞く必要はないと思った。エルナが「嬉しいはずなんですが」と言ったときの表情は、嬉しいときの顔でも悲しいときの顔でもなく——ただ、誰かのことを考えているときの顔だった。
馬車は北へ進んでいった。山が近くなり、空がさらに白くなった。




