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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第二十三話 殿下が珍しく怒っている

 小サロンを出てから厨房に戻るまでの廊下を歩きながら、私はようやく息を吐いた。


 (通った。少なくとも、笑われたままでは終わらなかった)


 プレゼンというのは終わった瞬間が一番力が抜ける。前世でも、商談が終わって取引先のビルを出た瞬間に、足が一段重くなる感覚があった。緊張が解けてからようやく、自分がどれだけ力を入れていたかわかる。


 厨房に戻ると、グレンが「……いかがでしたか」と聞いた。


「通りました。たぶん」


「たぶん、ですか」


「北方視察への同行を条件にされました。そこだけまだ返答していないので」


 グレンが少し間を置いてから「北方、ですか」と言った。声のトーンが微妙に変わっていた。


「なんですか、その顔は」


「特に何も」


「グレン」


「……殿下には、もうお話になりましたか」


 私は少し止まった。


「これから行きます」


「そうですか」とグレンが言った。それだけ言って、鍋の方を向いた。


 (その「そうですか」は何種類かある「そうですか」の中で、一番含みのある「そうですか」だった)



 ファルク殿下の執務室に向かう廊下は、行きより少し遠く感じた。


 プレゼン資料のメモはまだ手に持っていた。これをそのまま見せながら説明すれば、内容は伝わる。提案の骨格、ライオネル殿下の反応、視察同行の条件——全部、順番に話せばいい。チームとして動いている以上、ここまでの全部を話す必要がある。


 それはわかっていた。


 (ただ——なぜ少しだけ、足が重いんだ)


 扉をノックして、入った。


 ファルク殿下は執務机の前に座っていた。書類を持ったまま、顔を上げた。


「報告があります」と私は言った。


「聞く」


 私は椅子を勧められる前に立ったまま話すことにした。長くなるし、座って話す内容でもない気がした。


「ライオネル殿下に、提案を持っていきました。シュタイン侯爵家との関係強化策として、二点——王室御用達の称号ライセンス付与と、南方産可可(カカオ)の北方独占販売権の共同管理契約です。現地の輸送インフラを侯爵家が担い、王室が南方との交易ルートを整備する。婚姻による一代限りの関係より、経済的利益の共有による長期的な依存関係の方が、国益として強固だという論拠で」


 ファルク殿下が書類を机に置いた。


「ライオネル殿下の反応は」


「最初は笑っていました。途中から笑わなくなりました」


「採用したか」


「条件付きで」


 一拍おいた。


「来月の北方視察に、私も同行するよう言われました。現地でシュタイン侯爵家の当主に直接、この案を説明してほしいと」


 沈黙があった。


 ファルク殿下が、何も言わなかった。


 書類も持っていない。何かを見ているわけでもない。ただ、こちらを見ていた。


 いつもの無表情だったが——何かが違った。前世の「感情を読むのが仕事」の経験がある目で見ても、何が違うのか最初は分からなかった。怒っている、とは言えない。困っている、とも違う。ただ、何か——いつもより、目の奥が動いていた。


「……なぜ私に相談せずに進めた」


 静かな声だった。責める声ではなく、確認する声だった。でもその確認の仕方が、いつもの「情報を整理する」確認とは少し違った。


「一人で動くと言いました」と私は答えた。「殿下にも、そうお伝えしました」


「ああ、言った」


「ならば」


「情報収集の話だと思っていた」


「提案まで含めての『一人で動く』です」


 ファルク殿下が、少しの間、黙った。


「北方への視察は別の話だ」


「どこが違うんですか」


 また沈黙。


 今度の沈黙は、少し長かった。窓の外で風が通り過ぎる音がした。執務室の蝋燭が、かすかに揺れた。


 ファルク殿下が、静かに言った。


「……遠い」


 私の思考が、一瞬だけ止まった。


 (今、何て言った)


 「遠い」。それだけだった。理由でも、説明でも、反論でもなく——ただ「遠い」。


 (北方が、遠い。それを——今、この人は言いたかったのか)


 前世の加藤先輩が、転勤の辞令が出た日に何を言ったか、ふと思い出した。何も言わなかった。「おめでとうございます」と言った私に「ありがとう」と返して、それで終わった。あの時も、何かが違う空気はあった。でも私はそれを読まなかった。読もうとしなかった。


 今は——読んでしまった。


「……ファルク殿下」


「私も同行する」とファルクが言った。


 「遠い」と言った数秒後の言葉が、これだった。感情の話を、行動の話に切り替えた。この人らしい切り替え方だった。


「え」


「兄の視察に弟が同行して何がおかしい」


 それは理屈だった。正確な理屈だった。


 (でも——今の「遠い」は何だったんだ。その続きが「同行する」だとしたら、それは理屈じゃない)


 私は何と返していいかわからなかった。前世でも今世でも、感情の問題を正面から扱うのは得意ではない。


「……ライオネル殿下には」


「話す」とファルクが言った。「それだけだ」


 短い。短すぎる。でもこの人の「それだけだ」はいつも、「それ以上でも以下でもない」という意味ではなく、「これ以上言うと崩れる」という意味に聞こえることがある。


「……わかりました」と私は言った。


 ファルクが書類を再び手に取った。戻った。いつもの執務の顔に戻った。


 私は部屋を出た。


 廊下に出てから、少し歩いて、止まった。


 (「遠い」)


 その一言が、頭の中から出ていかなかった。前世の加藤先輩が言わなかった言葉の代わりに、今世の人が言った一言が、じわじわと胸の中に広がっていた。


 (……この人は、不器用だ)


 (でも——前世より、少しだけ、ちゃんと聞こえる場所にいる)

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