第二十三話 殿下が珍しく怒っている
小サロンを出てから厨房に戻るまでの廊下を歩きながら、私はようやく息を吐いた。
(通った。少なくとも、笑われたままでは終わらなかった)
プレゼンというのは終わった瞬間が一番力が抜ける。前世でも、商談が終わって取引先のビルを出た瞬間に、足が一段重くなる感覚があった。緊張が解けてからようやく、自分がどれだけ力を入れていたかわかる。
厨房に戻ると、グレンが「……いかがでしたか」と聞いた。
「通りました。たぶん」
「たぶん、ですか」
「北方視察への同行を条件にされました。そこだけまだ返答していないので」
グレンが少し間を置いてから「北方、ですか」と言った。声のトーンが微妙に変わっていた。
「なんですか、その顔は」
「特に何も」
「グレン」
「……殿下には、もうお話になりましたか」
私は少し止まった。
「これから行きます」
「そうですか」とグレンが言った。それだけ言って、鍋の方を向いた。
(その「そうですか」は何種類かある「そうですか」の中で、一番含みのある「そうですか」だった)
*
ファルク殿下の執務室に向かう廊下は、行きより少し遠く感じた。
プレゼン資料のメモはまだ手に持っていた。これをそのまま見せながら説明すれば、内容は伝わる。提案の骨格、ライオネル殿下の反応、視察同行の条件——全部、順番に話せばいい。チームとして動いている以上、ここまでの全部を話す必要がある。
それはわかっていた。
(ただ——なぜ少しだけ、足が重いんだ)
扉をノックして、入った。
ファルク殿下は執務机の前に座っていた。書類を持ったまま、顔を上げた。
「報告があります」と私は言った。
「聞く」
私は椅子を勧められる前に立ったまま話すことにした。長くなるし、座って話す内容でもない気がした。
「ライオネル殿下に、提案を持っていきました。シュタイン侯爵家との関係強化策として、二点——王室御用達の称号ライセンス付与と、南方産可可の北方独占販売権の共同管理契約です。現地の輸送インフラを侯爵家が担い、王室が南方との交易ルートを整備する。婚姻による一代限りの関係より、経済的利益の共有による長期的な依存関係の方が、国益として強固だという論拠で」
ファルク殿下が書類を机に置いた。
「ライオネル殿下の反応は」
「最初は笑っていました。途中から笑わなくなりました」
「採用したか」
「条件付きで」
一拍おいた。
「来月の北方視察に、私も同行するよう言われました。現地でシュタイン侯爵家の当主に直接、この案を説明してほしいと」
沈黙があった。
ファルク殿下が、何も言わなかった。
書類も持っていない。何かを見ているわけでもない。ただ、こちらを見ていた。
いつもの無表情だったが——何かが違った。前世の「感情を読むのが仕事」の経験がある目で見ても、何が違うのか最初は分からなかった。怒っている、とは言えない。困っている、とも違う。ただ、何か——いつもより、目の奥が動いていた。
「……なぜ私に相談せずに進めた」
静かな声だった。責める声ではなく、確認する声だった。でもその確認の仕方が、いつもの「情報を整理する」確認とは少し違った。
「一人で動くと言いました」と私は答えた。「殿下にも、そうお伝えしました」
「ああ、言った」
「ならば」
「情報収集の話だと思っていた」
「提案まで含めての『一人で動く』です」
ファルク殿下が、少しの間、黙った。
「北方への視察は別の話だ」
「どこが違うんですか」
また沈黙。
今度の沈黙は、少し長かった。窓の外で風が通り過ぎる音がした。執務室の蝋燭が、かすかに揺れた。
ファルク殿下が、静かに言った。
「……遠い」
私の思考が、一瞬だけ止まった。
(今、何て言った)
「遠い」。それだけだった。理由でも、説明でも、反論でもなく——ただ「遠い」。
(北方が、遠い。それを——今、この人は言いたかったのか)
前世の加藤先輩が、転勤の辞令が出た日に何を言ったか、ふと思い出した。何も言わなかった。「おめでとうございます」と言った私に「ありがとう」と返して、それで終わった。あの時も、何かが違う空気はあった。でも私はそれを読まなかった。読もうとしなかった。
今は——読んでしまった。
「……ファルク殿下」
「私も同行する」とファルクが言った。
「遠い」と言った数秒後の言葉が、これだった。感情の話を、行動の話に切り替えた。この人らしい切り替え方だった。
「え」
「兄の視察に弟が同行して何がおかしい」
それは理屈だった。正確な理屈だった。
(でも——今の「遠い」は何だったんだ。その続きが「同行する」だとしたら、それは理屈じゃない)
私は何と返していいかわからなかった。前世でも今世でも、感情の問題を正面から扱うのは得意ではない。
「……ライオネル殿下には」
「話す」とファルクが言った。「それだけだ」
短い。短すぎる。でもこの人の「それだけだ」はいつも、「それ以上でも以下でもない」という意味ではなく、「これ以上言うと崩れる」という意味に聞こえることがある。
「……わかりました」と私は言った。
ファルクが書類を再び手に取った。戻った。いつもの執務の顔に戻った。
私は部屋を出た。
廊下に出てから、少し歩いて、止まった。
(「遠い」)
その一言が、頭の中から出ていかなかった。前世の加藤先輩が言わなかった言葉の代わりに、今世の人が言った一言が、じわじわと胸の中に広がっていた。
(……この人は、不器用だ)
(でも——前世より、少しだけ、ちゃんと聞こえる場所にいる)




