第二十二話 菓子が外交になる日
前日の夜、私は厨房の端の机でメモを並べ直していた。
グレンが集めてくれた情報が三枚。私が前世の記憶から整理した知識が二枚。それを合わせて組み立てた提案の骨格が一枚。合計六枚の紙が、ランプの光の下に並んでいる。
前世でも、大事なプレゼンの前夜はこうやって資料を並べ直した。画面ではなく紙に印刷して、順番を変えて、声に出して確認する。情報の密度と、話す順番と、どこで相手の顔が動くか——全部、前日に設計しておく。
グレンが遠慮がちに「令嬢様、今日はもうお休みになった方が」と言いに来た。
「あと少しです」
「……そのお顔は『あと少し』ではないお顔です」
「もう少しあと少しです」
グレンが諦めたように「では私も残ります」と言った。
「いいです。帰ってください」
「一人で夜に残るのは心配なので」
(この人は本当に、必要なときに必要なことをする)
「……ありがとうございます」
結局、グレンはランプを足して奥へ引っ込んだ。私は資料の最後の確認をした。
提案の柱は二本。一本目が「表看板」で、二本目が「本題」だ。最初に表看板を出してライオネル殿下の関心を引いてから、本題を出す。前世の商社で学んだ順番だ——相手が笑っている間に、本命を仕込め。
*
翌朝、私はライオネル殿下に「お時間をいただけますか」と伝言を送った。
返答は三十分で来た。「午後の第二刻に、昨日と同じ場所で」。
小サロンには、今日も誰もいなかった。窓から北の庭が見えた。空が低く、雲が白かった。
「一週間だったが、六日で来たな」とライオネルが言った。
「整いましたので」
「座れ」
私は座った。メモを手に持ったまま、一度深く息を吸った。
(整理してから走れ。先輩の言葉通りにやってきた。あとは走るだけだ)
「提案が二点あります」と私は言った。「まず一点目から」
ライオネルが片肘をついて、聞く姿勢になった。
「シュタイン侯爵家の菓子工房に、王室の技術と知識を提供します。宮廷で培われた菓子のレシピと製法を伝え、北方での菓子文化の普及を侯爵家と共同で進める——これが表向きの提案です」
「菓子で外交か」とライオネルが笑った。「弟の婚約者らしい発想だな」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「存じています」
(その笑いが消えるのは、今から少しあとだ)
「文化的な結びつきは政治的同盟より長持ちします」と私は続けた。「政治は代替わりで変わりますが、食文化は変わりません。北方の人間が毎日食べる菓子に王都の技術が入っていれば——世代が替わっても、王国との結びつきが日常の中に残ります」
ライオネルの笑いが、少し薄くなった。話半分から、聞く姿勢に切り替わった。
「続けろ」
(来た)
「二点目が、本題です」
私はメモを置く前に、持ってきた布包みをほどいた。小皿が一枚。昨日試作した可可の焼き菓子が二切れ、のっている。
ライオネルが「……なんだ」と言った。
「現物です」と私は言った。「北方向けの商材として試作したものです。バターと可可を主体とした焼き菓子で、水分が少なく長距離輸送に耐えます。寒冷地では油分と糖分の多いものが好まれる——つまり北方の気候と体に最初から合わせた設計です。現地では原料も製法も存在しない、完全な独占商材になります」
「……一口食べていいか」
「説明の後でお願いします」
ライオネルが口を開いて、閉じた。初めて、言葉に詰まった顔をした。
「王室御用達の称号を、シュタイン侯爵家の菓子工房にライセンスとして付与する」
ライオネルが眉を上げた。
「王室のお墨付きを得た工房が北方に存在することで、シュタイン家は王都と同格の格式を持ちます。他の有力家や隣国との縁組みより、王国との繋がりを選ぶ理由になります。格式は、婚姻証書よりも長く残ります」
「御用達の付与は、簡単な話ではないぞ」
「承知しています。ですから、それだけでは不十分です」
二枚目のメモを置いた。
「南方産可可の北方における独占販売権を、シュタイン侯爵家と王室の共同管理とする契約を締結します」
その瞬間、ライオネルの顔から表情が消えた。
「消えた」という言葉が正確だった。笑みが薄くなったのではなく、スッと——温度が下がるように、一瞬で消えた。さっきまで片肘をついていた体が、音もなく机から離れた。背筋が伸びた。目の焦点が変わった。愛想のいい第一王子の顔ではなく、国を動かす人間の顔になった。
(これだ。これが、この人の本当の顔だ)
前世で、交渉のテーブルが本番になった瞬間に似ていた。笑いながら話していた相手が突然無表情になり、ペンを持ち直す——あの瞬間。ここからは遊びではない、という合図。
「可可の北方流通は現状ほぼ存在しません。輸送コストの問題で、単独では採算が取れない。ですがシュタイン侯爵家は北方の輸送インフラを持っています。王室が南方との交易ルートを整備し、侯爵家が北方での流通を担う——この役割分担なら、双方にとって利益が出る仕組みが作れます」
「他の商会が北方流通に失敗した理由を調べました」と私は続けた。「冬季の積雪で峠が閉じる。それが最大の障壁です。ですがシュタイン侯爵家は代々、冬の雪山でも物資を止めない独自の流通ルートを持っています。凍結しない低地の迂回路と、雪上でも動く専用の輸送の仕組み——これは数十年かけて蓄積した、他家には真似できない強みです。そこに乗れるのは、シュタイン家と組む相手だけです」
「……」
「南方の産品を北方で独占的に扱う権利は、商業的に非常に価値が高い。これを持つことで、シュタイン侯爵家は北方における経済的な優位を確立できます。隣国の貴族と縁組みしても、この権利は手に入りません。王国との共同でしか得られない利益です」
ライオネルがゆっくりと体を起こした。ひじをついた姿勢から、背筋を正した姿勢に変わった。
「婚姻による関係は」と私は言った。「当事者が亡くなれば、一代で終わります」
メモを二枚、静かに重ねた。
「でも経済的利益の共有は、孫の代まで続きます。シュタイン家の子も孫も、可可の交易で利益を得るたびに、王国との契約を必要とします。これは婚姻証書より強固な結びつきです」
沈黙が、小サロンに落ちた。
北の庭で、風が木を揺らす音がした。
(前世の商社では、感情で動く取引に勝てたことがない。利益で縛れ——先輩がよく言っていた。感情は一代で尽きるが、利益への執着は代を超える)
ライオネルが、長い息を吐いた。
「……君は」
「はい」
「恐ろしい人間だな」
私は一拍おいてから答えた。「菓子を作っているだけです」
「策士が言うと笑えない」
ライオネルが私を見た。先日の「盤面を動かす目」とは少し違う目だった。計算ではなく——純粋に、驚いている目だった。
(弟が毎日通いつめるわけだ)という顔だった。声には出さなかったが、その顔がそう言っていた。
私は何も言わなかった。
ライオネルが机の上の小皿に目を落とした。それから可可の焼き菓子を一つ取って、口に入れた。
三秒間、止まった。
(王宮の美食を食べ慣れているはずの舌が、この苦みと深い甘さに完全に裏切られた顔だった。政治家の無表情を保とうとして、保てなかった顔。三秒間だけ、第一王子が令嬢の焼き菓子に負けた瞬間だった)
内心でガッツポーズをしながら、私は表情を動かさなかった。
「……」
「いかがですか」
「——これを、北方の人間が初めて食べたら」
「現物でご確認いただけたかと思います」
ライオネルが、額に手を当てて、ゆっくりと天井を仰いだ。政治家の顔のまま、だが完全に一本取られた人間の動きだった。呆れとも感嘆とも取れる——いや、どちらでもあった。
「条件がある」とライオネルが言った。
「なんでしょうか」
「来月、北方視察がある。シュタイン侯爵家への挨拶を兼ねた、外交上の行程だ。——君に、同行してほしい。現地で侯爵家に直接この案を説明してくれ。書面より、君の口から聞いた方が、侯爵家の当主も動く」
(現地でプレゼン)
前世では、取引先に直接出向いてプレゼンをしたことが何度もあった。慣れた仕事だが、この世界の「北方視察」がどういうものかは少し考える必要がある。
「……ファルク殿下にご相談してから、返答させてください」
ライオネルが「また弟の許可か」と言った。
「チームなので」
ライオネルが少し笑った。今度の笑い方は、初めて会った日の計算のある笑い方とも、先日の純粋に面白がる笑い方とも違う——少し困ったような笑い方だった。
「……返答は明日でいい」
「ありがとうございます」
小サロンを出て廊下を歩きながら、私は少しだけ息を吐いた。
(通った、と思う。少なくとも、笑われたままでは終わらなかった)
ファルク殿下に報告しなければならない。北方視察のこと、提案の内容、ライオネル殿下の反応。チームとして動いている以上、ここまでの全部を話す必要がある。
そしてたぶん——ファルク殿下の反応は、「わかった」の一言ではないだろう、という予感があった。




