第二十一話 エルナの本音とセシルの提案
グレンからの最初の報告が来たのは、情報収集を頼んで三日目の夕方だった。
「北方シュタイン領の主産業は木材と毛皮です。農業は寒冷地ゆえ限られています。南方からの交易品は香辛料と可可——北方にはほとんど流通していません。御用達の称号については、王室内の調達担当の部署が管理しているようで、詳細はもう数日かかります」
メモを渡しながらグレンが「令嬢様、可可については一つ興味深い話がありまして」と言った。
「なんですか」
「南方から王都に入る可可の流通ルートは、現状ほぼ一つの商会が握っているそうです。他の商会が北方への流通を試みたこともあったそうですが、輸送コストの問題で採算が取れず撤退した、と」
(採算が取れなかった、か)
私の頭の中で、何かがかみ合った。
独占的に流通させる仕組みを最初から作ればいい。輸送コストが問題なら、そのコストをシュタイン侯爵家と分担する構造にする。彼らは北方の輸送インフラを持っている。王室は格式を提供する。南方産の可可の北方流通権を、最初から侯爵家と組む形で設計すれば——
「グレン」
「はい」
「御用達の件、急がなくて大丈夫です。むしろ可可の流通ルートについて、もう少し詳しく調べてもらえますか。その商会はどこで、どういう取り引きをしているか」
「……わかりました」グレンが短く答えた。「令嬢様」
「なんですか」
「私はいつから商人を調べる仕事をするようになったんでしょうか」
「グレンさんの情報収集の才能が、菓子作りの陰に隠れていたんだと思います」
「……なぜそれが褒め言葉に聞こえてしまうんですか」
グレンが困惑した顔のまま奥へ引っ込んだ。私はメモを見返した。
可可。北方流通なし。輸送コスト。シュタイン家の持つ北方インフラ。王室のブランド。
(形が、見えてきた)
*
エルナが二度目に厨房を訪ねてきたのは、その翌日の午後だった。
今日は誘ったわけではなく、自分から来た。入り口で「先日はありがとうございました」と礼儀正しく言ってから、「また来てもよいですか」と聞いた。
「どうぞ」と私は言った。「今日は試作中なので、出来のよくないものが出ますが」
「かまいません。むしろ見てみたいです」
エルナは椅子に腰を下ろして、静かに作業を見ていた。私は可可の粉末を使った焼き菓子を試していた。北方に可可を持ち込む計画を立てているなら、北方の気候に合う可可菓子の形を先に考えておく必要がある。寒い土地では、冷えても美味しいものが強い。
バターを溶かして可可の粉と合わせ、砂糖と卵を足してよく混ぜる。生地は重くなめらかで、可可特有の深い苦みの香りが厨房に広がった。焼く前から、もう何かが変わる予感がする匂いだ。
(バターたっぷりの高カロリー。水分が少なく、日持ちがする。寒冷地では油分と糖分の多い食べ物が好まれる——つまりこれは、北方への長距離輸送に耐えられる上に、現地の気候と体に合う。美味しいだけでなく、商材として完璧な条件が揃っている)
計算が口元まで来たが、今はエルナの前なので仕舞っておいた。
「いい香りですね」とエルナが言った。
「可可です。北方ではあまり見かけないですか」
「ほとんど見たことがないです。王都に来て初めて食べました」
「どうでしたか」
「最初は苦くて驚きましたが……あとから甘さが来て、不思議な気持ちになりました」
(最初は苦くて、あとから甘い。人の感情みたいだ、と思ったが口には出さなかった)
焼き上がりを待つ間、エルナがぽつりと言った。
「——殿下とは、最初からああいう感じなんですか」
「どういう感じですか」
「距離が、お互い同じ位置にある感じ。どちらが上でも下でもなく」
(鋭い観察だ)
「最初はそうでもありませんでした」と私は言った。「いろいろあって、今の距離になりました」
「いろいろ」
「お互い、前世の——」
私は止まった。
「前世?」
「……気にしないでください。いろいろです」
エルナが「不思議な人ですね」と言った。嫌味ではなく、純粋に不思議がっている声だった。
しばらく沈黙があった。可可の香りが深くなってきた。あと少しで焼ける。
「クラウスに」とエルナが言った。「昨日、会いました」
(……例の騎士団の副団長か)
私は手を止めなかった。黙って続きを待った。
「たまたま廊下で。……何も話せませんでした。向こうも何も言わなくて、お互いに礼をして、それで終わりです」
「そうですか」
「好きでもない人と結婚するより、好きな人と一緒にいたいと思います」エルナが膝の上で手を合わせた。「でも、そんなことを言える立場ではないとも思っています。シュタイン家の娘として、感情より義務を優先するべきだということは、わかっています。頭では」
「頭では、ということは」
「心は、また別のことを言っています」
(正直な人だ。本当に)
「私にも」と私は言った。「二回分の気持ちが整理できなくて、困った時期がありました」
エルナが顔を上げた。
「二回分?」
(しまった)
「……気にしないでください。とにかく、感情は整理できます。時間がかかりますが」
「二回分というのは、どういう意味ですか。気になります」
「本当に、気にしないでください」
エルナがじっと私を見た。少し考えるような顔をした。それから言った。
「あなたは——殿下のことが、好きなんですね」
私の手が止まった。
止まったまま、石窯から可可の香りが漂い続けた。厨房の奥でグレンが何かを刻む音がしていた。遠くで、風が窓を揺らした。
「……どうしてそう思うんですか」
「二回分の気持ちが、という言い方をした人が、『好きではない』顔はしていませんでした」
(この子は、目がいい)
私は何か答えようとした。「違います」とか、「そういうわけでは」とか。前世でも今世でも、自分の感情に蓋をする言葉なら在庫がある。
でも今日は——出てこなかった。
口を開いて、閉じた。
エルナが静かに待っていた。責めるでも急かすでもなく、ただ待っていた。
「……今は、答えられません」
それだけ言った。
エルナが小さく頷いた。「答えなくていいです。ただ、私には見えました、ということだけ」
石窯の中で、可可の焼き菓子が仕上がっていた。私は布でつかんで取り出した。ほんの少しだけ、手が震えていた。
(好き、か)
小皿に載せてエルナに出しながら、私は内心で繰り返した。
(前世と今世が混ざっているのかもしれない。加藤先輩への気持ちが残っているのかもしれない。でも今日、この人に「違います」とは言えなかった)
(——それはたぶん、答えの一部だ)
「熱いので気をつけてください」と私は言った。
「はい」とエルナが言って、可可の焼き菓子を一口食べた。
三秒、止まった。
「……また泣きたくなりました」
「今日のは苦みが強いので」
「そういう問題じゃない気がしますが」
私は少しだけ笑った。エルナも笑った。厨房に、短い笑い声が広がって、消えた。




