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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第二十話 前世の記憶がまた役に立つ

 一週間で、案を出す。


 ライオネル殿下との会話から戻って厨房の椅子に座ったとき、私はまずそれだけを頭に確定させた。感情の問題は後でいい。エルナの縁談は後でいい。ファルク殿下との関係も、全部後だ。今は「一週間で何を作るか」だけを考える。


 前世でも、こういう仕事の入り方をしていた。


 大型案件の期限を告げられた瞬間、まず感情のスイッチを落として、次にやるべきことを箇条書きにする。焦っても案は出ない。整理してから走れ、と加藤先輩がよく言っていた。整理してから走れ。


 (……先輩の教えが、今世でも使い物になるとは)


 私はメモ用の紙を取り出した。



 問題の構造を整理する。


 ライオネル殿下の目的は、シュタイン侯爵家と王国の間に強固な関係を作ること。現状の手段は「エルナとファルク殿下の婚姻」だ。でも婚姻は当事者二人の意思を無視した形では脆い。エルナは望んでいない。ファルク殿下も——少なくとも、黙って進める顔ではなかった。


 では代替手段は何か。


 前世の商社での経験を引っ張り出す。国境を越えた関係強化の手法として、婚姻以外に何があったか。


 一つ目——経済的な利益の共有。取引関係を作る。双方が儲かる仕組みを設計すれば、感情に左右されず関係が続く。


 二つ目——文化的な結びつき。技術や知識の提供を通じて相手に「自分たちなしでは成立しない何か」を作る。依存関係の設計。


 三つ目——格式の付与。相手の地位を上げる何かを与える。婚姻でなくても、「王家のお墨付き」が得られるなら侯爵家にとっては価値がある。


 (……お墨付き)


 私の手が止まった。


 前世で似たような事例があった。商社が地方の中小企業と組んだとき、「うちの取引先です」という一言が相手の信用力を引き上げることがあった。ブランドの傘。格式の貸し出し。


 (この世界にも、それに相当するものがあるはずだ)


 王室御用達、という概念が頭に浮かんだ。王宮御用達の称号を持つ商家や職人は、それだけで格が違うと扱われる。前世の「宮内庁御用達」に近い。


 (シュタイン侯爵家に、王室のブランドを持たせる——)


 (菓子の技術を提供して、「王室御用達の菓子工房」を北方に作る。そこに王室のライセンスを付与する)


 頭の中で形が見え始めた。でもまだ輪郭だけだ。肉付けには情報が必要だった。具体的に何が動いていて、何が動いていないか。シュタイン侯爵家の経済状況、北方の産業、王国と南方の交易ルート——


 「グレン」


「はい」


「少し話を聞いてもらえますか」



 グレンは手を動かしながら聞いてくれた。鍋の火加減を調整しながら、こちらを見ずに、でも確実に聞いていた。


 私が「ライオネル殿下から一週間の猶予をもらった」「婚姻以外の手段で侯爵家との関係を強化する案を作りたい」「そのために情報が必要だ」と説明し終えると、グレンが初めてこちらを向いた。


「……菓子以外のこと、でお手伝いを」


「はい。厨房には王宮中の情報が集まると思っていて」


 グレンが少しの間、黙った。


 厨房には、毎日様々な人間が出入りする。給仕、侍従、護衛の騎士、調達担当の商人。食材の搬入経路は王都の商業地区とも繋がっている。何かを知りたければ、厨房にいると自然に耳に入ってくることが多い——それはグレンが一番わかっているはずだ。


「……令嬢様」とグレンが言った。


「なんですか」


「一体どんな場所で育ってきたんですか」


「普通の公爵家の厨房です」


「その厨房では、普通に情報戦をやっていたんですか」


 (前世の阿爾珂那アルカーナ商事では、やっていました)とは言えないので、私は黙っていた。


 グレンが長い息を吐いた。「……わかりました。何を知りたいですか」


「まず三つです」と私は言った。「北方シュタイン領で今、何が産業として動いているか。南方から王都に入る交易品の主な品目。そして——王室御用達の称号は、誰がどういう基準で出しているか」


 グレンが眉を上げた。「御用達の称号まで」


「使えるかどうかわかりませんが、調べておきたいので」


「……三日、いただけますか」


「もちろんです」


 (さすがだ。「できません」とは言わない人だ)


 グレンが鍋に視線を戻して「料理人が情報屋に、ですか」と呟くように言った。


「情報収集はグレンさんに向いていると思います」


「なぜですか」


「誰にでも話しかけられる顔をしているので」


 グレンが、少し間を置いて「……それは褒めていますか」と言った。


「もちろんです」


「…………ありがとうございます」


 返事が遅かったが、受け取ってもらえたらしい。



 その日の夕方、私はファルク殿下を訪ねた。


 執務室に入ると、ファルク殿下はいつも通り書類と向き合っていた。私が入ってきた気配に気づいて、顔を上げた。


「話があります」と私は言った。


「聞いていた」


「ライオネル殿下から、ですか」


「兄は話が早い」


 (この兄弟は互いの行動を読むのが上手すぎる)


「一週間、少し動かせてください。一人で」


 ファルク殿下の目が、少し細くなった。


「一人で、か」


「動きたいことがあります。ファルク殿下を通さない方が、早く動ける部分がある」


 正確に言えば、前世の商社知識をどこまで使うか——その判断を今は自分の中だけに留めておきたかった。情報収集の段階で根拠のない「前世の記憶から来た案」をファルク殿下に説明するのは、まだ早い。


 ファルク殿下がこちらを見た。何か聞こうとして、やめた。それから言った。


「監視はしないが——無理はするな」


 (また同じ台詞だ)


 第一章のお披露目の前も、同じことを言っていた。「無理はするな」。一言多いわけでも一言足りないわけでもない、あの言い方。


「はい」と私は答えた。


「困ったら言え」


「チームなので」


 ファルク殿下の口元が、わずかに動いた。笑ったのかどうか判断がつかないほどの、小さな動きだった。


 執務室を出て廊下を歩きながら、私は頭の中で計算を再開した。


 一週間。情報収集に三日、案の設計に二日、修正と精度上げに二日。前世ではもっと短い期限で企画書を出したことがある。この世界にプレゼンテーション資料はないが、言葉と紙と頭があれば十分だ。


 (加藤先輩。私は今世でも、あなたの「整理してから走れ」で動いています)


 冬の廊下は少し冷たかった。その冷たさが、かえって頭を澄ませてくれた。

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