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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第十九話 兄王子の本音

 歓迎晩餐会は、おおむね成功だった。


 「おおむね」というのは、一つ想定外のことがあったからだ。デザートのマカロンが卓に出た瞬間、外交筋の一人——北方からの来賓だった——が、一口食べて三秒間止まり、その後「これは何か」と通訳を呼んで私の名前を聞き出したらしい。ライオネル殿下の帰国を祝う場で、菓子の作り手が話題になるのは少し目立ちすぎた。


 だが終わったことは終わりだ。


 晩餐会の翌朝、厨房の片付けをしていると、リリが「ライオネル殿下からお呼びです」と告げに来た。


「場所は」


「北の回廊の小サロンだそうです」


 グレンが視線だけでこちらを見た。私は作業台を拭いていた手を止めて「行ってきます」とだけ言った。



 小サロンは、王宮の中でも来客用ではない部屋だった。正式な謁見の間でも、華やかな応接室でもない。小さな窓から北側の庭が見える、こぢんまりした部屋だ。


 ライオネル殿下はすでに椅子に座っていた。お茶が二人分用意されている。


「座れ」


 呼びかけではなく命令だった。昨日の晩餐会で見せた愛想のよい顔とは少し違う。これが素に近い話し方らしい。


 私は座った。


「昨日の菓子はよかった」とライオネルが言った。「外交筋の評判も悪くない」


「ありがとうございます」


「……儀礼的な挨拶はいい。時間を無駄にしたくない」


 私はお茶を一口飲んだ。よく蒸らされた茶だった。この小サロンには誰も立っていない。いつもなら侍従の一人や二人がいる距離に、今は誰もいない。


 (本音で話す場を作った、ということか)


「弟の婚約を解消させたい、と思っている」


 単刀直入だった。前置きも、言い訳もなかった。


「存じています」


「わかっているなら話が早い」ライオネルがカップを置いた。「理由を説明する。聞いてくれ」


 (この人は「聞け」と言うのではなく「聞いてくれ」と言う。計算か、素か)


「北方のシュタイン侯爵家のことは、どの程度知っているか」


「北方の有力貴族で、侯爵家の当主が高齢とお聞きしています。ご息女がエルナ様おひとりで」


「その通りだ」ライオネルが頷いた。「現当主はあと数年で執務を退く。跡継ぎはエルナ一人だ。彼女が誰と婚姻するかで、北方の盤面が変わる」


 (盤面——またその言葉だ。この人はすべてを盤面で考えている)


「現在、エルナへの縁組みの打診は三件来ている。一件は隣国の貴族、一件は王国内の東方の家、そして弟だ。隣国の貴族はシュタイン家の北方における地理的な利権を目当てにしている可能性が高い。そちらに流れれば、王国の北部防衛に支障が出る」


「シュタイン侯爵家が押さえている地域は、北方への関門(かんもん)になっているんですか」


「山脈の西端だ。そこを誰が抑えるかで、北からの侵入経路が変わる。今は友好的な状態だが、当主が変われば方針も変わる。エルナを王家と繋いでおけば、少なくとも一代は安定する」


 ライオネルが、私を見た。


「君も頭のいい人間だ。わかるだろう」


 わかった。わかりすぎるほどわかった。


 前世で商社に勤めていた頃、取引先との関係維持のために個人の感情を切り捨てる判断を何度も見てきた。「この案件はAさんでは難しい、Bさんに担当を変えろ」。「個人の事情より組織の利益を優先しろ」。そういう判断が、時として正しく、時として誰かを傷つける。


 ライオネル殿下の論理は、正しい。国全体を見れば、正しい。


「……殿下の判断は正しいと思います」


 ライオネルが少し眉を上げた。肯定が返ってくるとは思っていなかった顔だった。


「だが?」


「でも——」


 私は少し考えた。頭の中にあるものを、どう言葉にするか考えた。前世の商社での経験が、いくつかの事例を提示してくる。「関係強化」の手段が婚姻だけだと思っている交渉がいかに多く、そしてそれより長続きする関係の作り方が別にあることを、私は知っている。


「一つだけ、考えていないことがあります」


「言え」


「婚姻は手段であって、目的ではありません」と私は言った。「殿下の目的は、シュタイン侯爵家と王国の間に強固な関係を作ることです。エルナ様とファルク殿下の婚約はその手段の一つですが——唯一の手段ではないはずです」


 ライオネルが黙った。


 否定しなかった。


「婚姻以外の手段があると言っているのか」


「あるかもしれません。一週間、待っていただけますか」


「……根拠はあるのか」


「前世——いいえ」私は言い直した。「本で読んだ知識と、少し考える時間があれば、具体的な案を出せます」


 ライオネルがじっと私を見た。目の奥で何かが動いた。計算しているのか、値踏みをしているのか、どちらともつかない目だった。


「一週間だ」とライオネルが言った。「それまでは、縁談の話を動かさないと約束しよう」


「ありがとうございます」


「ただし」


 私が立ち上がりかけると、ライオネルが続けた。


「根拠のない案は聞かない。私を納得させられなければ、予定通りに進める。それでいいか」


「はい」


 (前世でも、上司に「案を出せ」と言われてコケたことはない。一週間あれば十分だ)


「一つ聞いていいか」とライオネルが言った。「弟のことは——どうするつもりだ」


 私は少し止まった。


「それは今、答えられません」


「正直だな」


「事実を確認してから判断します。感情で動くのは後回しです」


 ライオネルが、小さく笑った。今度の笑いは計算の匂いがしなかった。純粋に、面白がっている笑い方だった。


「——本当に、弟が毎日通いつめるわけだ」


 私はそれには答えなかった。扉に向かいながら「失礼します」と言って、小サロンを後にした。


 廊下に出ると、北側の窓から冬の光が差し込んでいた。


 (一週間。前世の商社で三日で出した企画書が何本あったか。一週間あれば十分だ)


 (……でも、まず厨房に戻って、グレンに話を聞いてもらおう。あの人は情報の量が多い)


 歩きながら、頭の中で計算が始まっていた。


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