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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第十八話 ライバルは味方だった

 晩餐会の前日、私はマカロンの仕上げをしていた。


 焼き上がったコックを確認して、クリームを合わせて、一組ずつ並べていく。表面はなめらかで、淡いうすむらさき色。バイオレットのエッセンスを少し混ぜた。晩餐会の卓には白と紫の配色が映える。


 作業に集中しているうちに、グレンが「令嬢様」と小声で言った。


 振り返ると、厨房の入り口に人が立っていた。


 小柄な娘だった。年は私よりいくつか下に見える。薄い金色の髪を後ろで束ねて、淡い色のドレスを着ていた。礼儀正しい立ち方をしているが、どこか——迷子のような顔をしていた。


「失礼します」と娘が言った。声は落ち着いていた。「厨房を見学させていただいても、よろしいでしょうか。出過ぎた願いとわかっているのですが……ここから焼き菓子(クッキー)のいい香りがして、足が止まってしまいました」


 (……なんて正直な人だ)


「どうぞ」と私は言った。「エルナ様、でいらっしゃいますか」


 娘が少し目を丸くした。「ご存知でしたか」


「昨日から王宮においでとお聞きしました」


 エルナ=フォン=シュタインが、小さく頷いた。「あなたが、カルドア公爵家のセシル様ですね。お話は伺っています」


 (何のお話を、どこから、とは聞かないでおこう)


「よければ中へ。立ち話も何ですし」



 エルナは言われた通り中に入って、厨房の端の椅子に腰を下ろした。きょろきょろするでも、遠慮するでもなく、ただ静かに周りを見ていた。ファルク殿下が初めて厨房に入ったときのような、「なぜこんな場所に来ているんだろう」という顔ではなかった。ただ、居心地のいい場所を見つけたときの顔をしていた。


「お菓子はお好きですか」と私は聞いた。


「はい。でも、北方では種類が少なくて」


「北方は寒いですから」と私は言いながら作業を続けた。「砂糖が手に入りにくいですよね。代わりに蜂蜜を使う文化圏ですか」


「ご存知なんですか」


「前世——いいえ、本で読みました」


 エルナが少し首をかしげたが、何も言わなかった。


 グレンが視線だけで「今の誤魔化しは苦しい」と言っていた。


 私はマカロンを一枚、小皿に載せてエルナに差し出した。「よければ。明日の晩餐会に出す予定のものですが、試食がてら」


「よろしいんですか」


「正直なご感想をいただければ」


 エルナがマカロンを手に取った。小さく割って、口に入れた。


 止まった。


 三秒間、完全に止まった。


 (……この反応、やはりこの家系の遺伝だけではないらしい)


「…………なんですか、これ」


 呟くような声だった。驚いているのか、困っているのか、判断がつかない表情だった。


「マカロンです。卵白と砂糖で作る焼き菓子に、バイオレットのクリームを挟みました」


「甘いのに——」


 エルナが、もう一口食べた。それからまた少し止まった。


「どうして、こんなに甘いのに……泣きたくなるんでしょう」


 私の手が一瞬止まった。


 (——ああ。好きな人がいる子に食べさせるものじゃなかったかもしれない)


 甘いものは、鎧を外す。前世でも、残業続きの夜に誰かが差し入れた菓子を一口食べた瞬間、なぜか目の奥が熱くなった経験がある。疲れているときほど、甘さが直接心に届く。


 エルナは泣いてはいなかった。でも、目が少しだけ潤んでいた。


「……すみません」とエルナが言った。「みっともないですね」


「いいえ」と私は言った。「そういう反応が出る菓子が作れたなら、私の仕事は合格です」


 エルナが、小さく笑った。初めて笑った顔を見て——この子は悪い人間ではないと、確信した。



 少しの間、作業音だけが流れた。グレンが気を使って奥へ引っ込んでいた。


「縁談の件は」とエルナが先に言い出した。「セシル様もお聞きになっているかと思います」


「はい」


「申し訳ないとは、思っています」エルナが膝の上で手を合わせた。「私がここに来たこと自体が、ご迷惑ですよね」


「エルナ様はご自分の意思でいらっしゃいましたか」


 エルナが少し黙った。「……家の意向です」


「では迷惑とは言えません。あなたが選んだわけではない」


「でも——」


「私の婚約者の縁談候補として連れてこられた、という事実は変わらないとしても」と私は言った。「あなた自身が何か悪いことをしたわけではありません」


 エルナが私を見た。少し、探るような目だった。


「……どうして、そんな風に言えるんですか」


「事実を確認しているだけです」


「事実を確認しても、普通は怒りますよ」


 (——そうだな。前世の私だったら怒っていたかもしれない)


「少し聞いてもいいですか」と私は言った。「北方に、好きな方がいらっしゃるとか」


 エルナが固まった。


「……どこからお聞きになりましたか」


「聞いたわけではなく。『泣きたくなる』と言った顔から、そういうことかと」


 エルナが長い沈黙の後、「……います」と言った。小さな声だった。「騎士団の副団長で。身分が違うので、どうにもなりません。私はシュタイン家の娘として、家に利益をもたらす婚姻をする義務がありますから。感情は——関係ないんです」


「好きだと、伝えましたか」


「そんなこと——言えません。先方に迷惑です」


 (……「仕事の邪魔になりたくなかった」と言って、笑って送り出した前世の私と同じ言葉だ)


 私は作業台に肘をついた。


「エルナ様。一つだけ聞いてもいいですか。『言えない』と『言わない』は、同じですか」


 エルナが顔を上げた。


「……どういう意味ですか」


「できないのか、しないのか。どちらですか」


 エルナが口を開いて、閉じた。また開いて、また閉じた。答えが出てこないようだった。


 私はもう一枚、マカロンを小皿に足した。


「一緒に、解決策を考えませんか」


「……え?」


「この縁談を、別の形で落としどころを見つける方法です。あなたが望まない婚約を結ばなくていい、かつシュタイン侯爵家とファルク殿下の家の関係も保てる——そういう方法が、あるかもしれません」


 エルナが私を見つめた。しばらく何も言わなかった。それから静かに聞いた。


「……なぜ、私を助けるんですか。私はあなたの婚約者の縁談候補ですよ」


 私は少し考えてから、答えた。


「あなたが悪い人じゃないから、です」


 エルナが、また固まった。今度は菓子を食べたときとは違う種類の固まり方だった。


「……そんな理由ですか」


「十分な理由だと思っています」


 エルナが、小さく深呼吸した。それから、ゆっくりと頷いた。


「……わかりました。お話を聞かせてください」


 窓の外に夕暮れが始まっていた。明日の晩餐会の準備は、まだ残っていた。でも今夜は、もう少しだけここで話をしようと思った。

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