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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第十七話 縁談という名の爆弾

 歓迎晩餐会まで、六日あった。


 ライオネル殿下から「菓子を出してほしい」という話を受けた翌朝、私はさっそくファルク殿下に相談し、「任せる」という言葉を得た。任せる、とはつまりやれ、ということなので、私は厨房で準備を開始した。


 外交筋も呼ぶ正式な場。ライオネル殿下の帰国を祝う晩餐会。


 前世の記憶を引っ張り出せば、「外交の席に出す菓子」は単なる口直しではない。国の格を示す演出だ。見た目の完成度、味の完成度、どちらも外せない。


 私は作業台にメモを広げた。今日作るのはマカロン。昨日からメレンゲの乾燥具合を確認していて、今朝が絞り時だと判断した。


 砂糖と卵白を合わせた生地は、絞り袋の中でなめらかに動く。手の力を一定に保って、丸く、同じ大きさに絞っていく。この均一さが焼き上がりを決める。前世ではレシピ通りにやっても揃わなかったが、今世の手はこの世界で生まれた手だ。菓子を作るために育ってきた指先が、感覚を覚えている。


 グレンが横で「令嬢様、今日のメレンゲは昨日より艶がある」と静かに言った。


「昨日より湿度が低いので」と私は答えた。「明日の早朝に焼きます」


「了解しました」


 (昨日のライオネル殿下の「よかった」が、まだ頭の隅に引っかかっているが)


 作業をしながら考える、というのは前世の商社勤めで磨いた能力だ。手を動かしながら別の問題を処理できる。今も、指先はマカロンを絞りながら、頭の中では「ライオネル殿下が何を考えているか」という問題を回している。


 (盤面を動かした顔だった。私が「婚約のためではなく菓子のため」と答えた瞬間に、何かが決まった顔)


 あれが何を意味するのか、まだわからない。でも前世の経験則として、「取引相手が突然機嫌よくなったとき」は用心するべきだと知っている。


 (……まあ、今日の仕事は今日だ)



 リリが厨房に飛び込んできたのは、午後の早い時間だった。


 侍女がこの速さで来るのは、急いで伝えなければならない話があるときだ。私はすぐに手を止めた。


「令嬢様」


 リリの顔色が白かった。いつも落ち着いていて、王宮の噂話でも動じないリリが——青ざめている。


「何があった」


「ライオネル殿下が……北方から、お連れになった方がいらっしゃいます」


「客人がいるのは聞いていた。外交筋の話ではないのか」


「外交のご一行とは、別に」


 リリが息を整えた。


「シュタイン侯爵令嬢が——ファルク殿下の、縁談候補だと」


 私の手が止まった。


 絞り袋を持ったまま、五秒ほど止まった。


 (……縁談)


 (候補)


(ファルク殿下の)


 脳が情報を処理しようとして、一瞬だけ空白になった。前世で大型案件の契約が突然白紙になった朝と同じ感覚だ。全ての前提が崩れる、あの一秒間の空白。


 次の瞬間、社畜スイッチがオンになった。


 (感情は後回し。まず状況の整理)


 頭の中で箇条書きが始まる。


 ケース一:ライオネル殿下がファルク殿下に無断で縁談を進めている。ファルク殿下は知らない。

 ケース二:ファルク殿下はすでに知っている。対応を検討中。

 ケース三:この縁談自体がライオネル殿下の「試し」であり、実際には進める気がない。


 前日の「よかった」の意味が、ここで繋がった。


 (私が「婚約のためではない」と答えた。つまり「婚約にこだわっていない令嬢」だとライオネル殿下は確認した。それなら婚約を解消しても、私は大きく抵抗しない——そう計算したのか)


 (だから「よかった」だったのか)


 背中に冷たいものが走った。昨日の社畜センサーが鳴らしていたアラートの意味が、今になって全部届いてきた。


 私はゆっくり絞り袋を置いた。


「リリ」


「はい」


「令嬢の名前は」


「エルナ=フォン=シュタイン……シュタイン侯爵のご息女だと」


「北方の有力家か」


「はい。ライオネル殿下のご帰国に合わせて王都入りされたそうで……」


 グレンが、こちらを見ていた。何も言わずに見ていた。


「令嬢様」とリリが言った。声が小さかった。「……大丈夫ですか」


 私は一度深く息を吸って、整えた。


「大丈夫です」


「でも」


「リリ、私が厨房にいる理由を思い出してください」


 リリが黙った。


「菓子を作るためです。婚約のためでも、感情のためでもありません」


 (そう答えた。昨日も、ライオネル殿下に。それは本当のことだった)


 (でも——なぜ今、少しだけ、手が震えているんだ)


 前世の記憶が、一瞬だけ蘇った。


 加藤先輩の転勤が決まったあの日。辞令が出たと聞いて、私は「おめでとうございます」とだけ言って、笑って送り出した。仕事の邪魔になりたくなかったから。自分の感情を最後まで隠し通すのが、正しい大人の振る舞いだと信じていたから。ずっとそう信じていた。


 でも給湯室で一人になった瞬間、気づいたら手が震えていた。コーヒーメーカーのボタンを押し間違えながら、なぜこんなに手が震えるんだろうと思った。


 (……同じだ)


 絞り袋を持ったまま、私は静止した。


 (また同じことを繰り返そうとしている。「感情のためではない」と言えば、感情がないことになると思っている。前世と同じだ。言葉で隠せば、気持ちも消えると思っている)


 前世ではそのまま隠し通した。加藤先輩は転勤して、私は何も言わないまま今世を迎えた。後悔がなかったとは言えない。あの給湯室で震えた手のことを、私は今世でも覚えている。


 (——今、また同じ選択をするのか)


 私は絞り袋を拾い直して、作業台を見た。マカロンは、あと十二個分残っている。


「まず殿下に話を聞きにいきます。グレン、午後の作業は任せてもいいですか」


「もちろんです」とグレンが言った。珍しく、すぐに返事が来た。


「ありがとうございます」



 ファルク殿下の執務室に向かう廊下は、いつもと変わらなかった。同じ石畳で、同じ窓から同じ西日が差し込んでいる。なのに、いつもより遠く感じた。


 扉の前で、私はノックした。


「入れ」


 中に入ると、ファルク殿下は執務机の前に座っていた。書類から顔を上げた。


 その顔を見た瞬間、私は少し止まった。


 「知っている」という顔だった。


 驚きも、焦りも、ない。ただ静かに待っていた顔。まるで——私がここに来ることを、最初からわかっていたかのような。


「……聞きました」


「そうか」


 ファルク殿下が書類を伏せた。椅子を引いて、こちらを向いた。


「いつからご存知でしたか」


「ライオネルが帰国した日に」


 (帰国初日から知っていた。なのに何も言わなかった)


 (——いや。言う必要がないと判断したから言わなかったのか)


 私は少し考えてから、聞いた。


「……どうするつもりですか」


 ファルク殿下が、一拍置いた。それからこちらに問い返した。


「君は」


 今度は私が一拍置く番だった。


「私は——」


 廊下から、遠くで誰かが話す声が聞こえた。西日が石畳に伸びていた。厨房からここまで歩いてきた間に整理したつもりだった言葉が、ファルク殿下の「君は」という問いの前で、全部組み直しが必要になった気がした。


 (婚約を守りたいのか、と問われたら——)


 (わからない。でも、「どうでもいい」とも言えない。昨日まで言えた気がしていたのに)


「……今は、わかりません」


 正直に言った。


 ファルク殿下が、何も言わなかった。否定もしなかった。


 ただ少し眉が動いた——それだけだったが、なぜかそれで少し、肩の力が抜けた。


「まずは相手を見てから判断しよう」とファルク殿下が言った。「縁談候補と決まったわけでも、婚約が解消されたわけでもない。今は事実だけ把握する」


「……そうですね」


「君は、晩餐会の準備を続けてくれ。それで問題ない」


「はい」


 私はもう一度頷こうとして——やめた。代わりに聞いた。


「……チームとして、ですか」


 ファルク殿下の目が、少しだけ動いた。


「ああ」


 短い返事だった。ただの一音だったが、それがなぜか今日一番、落ち着かせる音だった。


 廊下に出て、厨房へ戻る道を歩きながら、私は昨日のことを思い出していた。


 (ライオネル殿下は計算した。私を動かしやすい駒だと確認した)


 (でも——今の「ああ」は、盤面を動かす声じゃなかった)


 マカロンの残りが、作業台で待っていた。

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