第十六話 兄王子は、なんでも知っている
第一王子が帰国した翌日の午後、厨房に来客があった。
グレンが先に気配に気づいて、私の袖を引いた。「令嬢様」と低い声で言う。
扉が開いた。
入ってきた人物を見て、料理人たちが一斉に礼をした。私も礼をした。
男は二十五歳ほどで、金色がかった明るい髪を持っていた。ファルク殿下とは目の色が違う——青い目だ。体格はよく、立ち方が自然に堂々としている。整った顔に笑みを浮かべて、厨房の中を軽く見回した。
「噂の令嬢に会いに来た」
ライオネル=フォン=アルカディス第一王子が、そう言って中に入ってきた。
「ライオネル殿下」と私は礼をした。「ようこそ厨房へ。……珍しいお客様ですね」
「弟も毎日来ているそうだから、そこまで珍しくもないだろう」
(もう知っているのか)
帰国翌日だ。それでもう「弟が毎日厨房の前を通りかかっている」という話を仕入れているらしい。
「通りかかっているだけだと思います」
「そうか」とライオネルが笑った。「正直だな」
(何がどう正直なのかわからないが、深く問い返すのもおかしい)
私は作業を続けながら「何かご用でしょうか」と言った。
「用がなければ来てはいけないのか」
「王宮の厨房は、一般的に貴族が立ち入る場所ではないので」
「令嬢も毎日来ているが」
「……それはその通りです」
ライオネルが笑い声を上げた。短く、くだけた笑い方だった。ファルク殿下の笑い方とはまるで違う——あの人はほとんど笑わない——が、どこか似ている部分もある。同じ目をしているときがある。
「一つ、味見させてもらえないか」
グレンが「殿下、こちらに先日の——」と動きかけた。私は手を上げてそれを止めた。
「少し待ってください」
作業台の上に、今日仕上げたばかりのサブレがあった。バターをたっぷり使って、塩を少し効かせた。ひと皿に乗せてライオネルに差し出した。
ライオネルが一枚取って、口に入れた。
止まった。
三秒間、動かなかった。
(……やはりこの家系の遺伝だ)
「……なんだ、これは」
「サブレです。バターを多く使った薄焼き菓子の応用版です」
「前にも食べたことがあるが——これは違う」
「先日の晩餐会にも出していましたが、今日のは少し配合を変えました」
ライオネルがもう一枚取った。黙って食べた。それからまた一枚。
グレンが、背中を向けて鍋を磨き始めた。
(この人も何かあると鍋を磨くな)
*
「聞いてもいいか」とライオネルが言った。皿を手に持ったまま、表情が少し変わった。さっきまでの軽い雰囲気が、少しだけ引いた。
「どうぞ」
「弟の婚約の件だが——あれは、本当に君が望んで続けているのか」
私は手を止めた。
「……どういう意味でしょうか」
「毒殺疑惑を晴らしてみせた。弟が婚約者だと公言した。その翌日から、君は引き続き厨房に通っている。外から見れば『婚約を守るために戦った令嬢』だが——」
ライオネルが皿を作業台に置いた。「実際のところ、どうなんだ」
(この人は、腹を探ってくる)
前世で言えば、上司に「本当はどう思っているんだ」と聞かれる感じに近い。表向きの答えを求めているのではなく、本音を確かめようとしている。
私は少し考えてから、答えた。
「……婚約を守るために戦ったわけではありません」
「では何のために」
「私が作るものが毒だと言われたから、毒でないと証明しました。それだけです」
ライオネルがしばらく私を見た。「……弟のためではなく?」
「結果的にそうなったかもしれませんが、最初の動機は菓子のためです」
ライオネルが、少し間を置いてから笑った。今度は短くない笑い方だった。
「——正直だな、本当に」
「困りましたか」
「いや。むしろよかった」
ライオネルが、深く満足そうに頷いた。
(……何が「よかった」んだ?)
背筋が少しだけ冷えた。
前世で、狡猾な取引先と向き合ったとき——こちらの手札を読み切って、頭の中の盤面に「使える駒」として置いた瞬間、相手はこういう顔をした。笑っているのに、笑っていない。表情が柔らかくなったときほど、相手は何かを計算し終えている。
(この人は今、私からの答えを聞いて、盤面を一手動かした)
「婚約を守るためではなく、菓子のため」——その言葉が何を意味するか。婚約に執着していないなら。弟の隣に感情的な理由で居座っているわけではないなら——
(ああ、そういうことか)
社畜センサーが、一段階上のアラートを鳴らした。この人の「よかった」は、私への好意ではない。私が「動かしやすい駒」だと確認できた、という意味だ。
私が首をかしげると、ライオネルが続けた。「来週、歓迎晩餐会がある。帰国の挨拶を兼ねた、外交筋も呼ぶ正式な場だ。君の菓子を出したい」
「……殿下にご相談してから、返答させていただきます」
「弟に許可をもらわないと動けないのか」
一拍おいて、私は言った。
「チームなので」
ライオネルが目を細めた。笑っているが、今度は何かを測っている目だった。
「……そうか。チーム、か」
しばらく沈黙があった。
「返答は明日でいい」とライオネルが言って、扉に向かった。「ああ、それから」
「はい」
「弟は昨日から顔が違う。何があったか知らないが——君が関係しているなら、それでいい」
扉が閉まった。
グレンが鍋を磨く手を止めた。
「……令嬢様」
「なんですか」
「第一王子殿下は、なんでも知っているんですね」
「そのようです」と私は言った。
(帰国翌日で、もうここまで把握している。この人は——厄介だ。悪い意味ではなく、単純に、厄介だ)
グレンが「どうなりますかね、これから」と言った。
「わかりません」と私は正直に答えた。「でも、まず殿下に話します」




