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前世の記憶が戻ったので婚約破棄しようとしたら、婚約者も同時に思い出したらしい。  作者:


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第十五話 誰かのそばにいるために

 翌朝。


 王宮の廊下は、いつも通りだった。


 石畳に朝の光が差し込んでいる。窓の外に中庭が見える。すれ違う侍女たちが礼をする。何も変わっていない。昨夜、晩餐会があって、毒殺疑惑が晴れて、婚約が「ただの婚約者」になって——そういうことが全部あったはずなのに、王宮の朝はいつも通りだった。


 (こういうものか)


 前世の会社でも、大きな締め切りが終わった翌日は、オフィスがいつも通りだった。昨日まで全員必死だったのに、翌朝には普通に出勤して、普通にコーヒーを飲んで、普通に次の仕事が始まる。それが少しだけ拍子抜けで、少しだけ安心する。


 特別なことが特別なまま続かないのは、良いことだと思っている。


 厨房の扉を開けると、グレンがいた。一人で、作業台の前に立っていた。こちらに背を向けたまま、何も言わなかった。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 グレンが振り返った。いつもの職人の顔だった。昨夜の、耳が赤くなっていたグレンの顔は、もうそこにはなかった。


 それでいい、と思った。


「何か作りましょうか」


 グレンが少し間を置いてから言った。


「……ああ、頼む」


 いつもと違う言い方だった。「どうぞ」でも「お好きに」でもなく、「頼む」。前世で言えば、先輩が「頼む」と言うときの——あれに似ていた。言葉は短いが、そこに重みがある。


 二人で作業台に向かった。


 昨日の夜に全部片付けてあるので、台は清潔(せいけつ)だ。材料を引き出して、何を作るか考えながら手を動かし始める。特に決めていなかった。気づいたらバターをボウルに入れていた。砂糖を加えて、卵を割って、粉を合わせる。


 薄焼き菓子(クッキー)だ。


 一番最初に、カルドア邸の夜中の厨房で作ったもの。眠れなくて、頭を空にしたくて、体が覚えている手順を繰り返した、あの夜の。


「それは」とグレンが言った。


「一番最初に作ったものです」


「……そうか」


 グレンが何も言わずに横に来て、アーモンドを刻み始めた。合わせてくれるつもりらしい。聞かずに動く。この人はいつもそうだ。言葉より先に手が動く。


 オーブンに入れて、焼き上がりを待ちながら、二人で並んで作業台に(もた)れた。


 しばらくして、厨房にクッキーの焼ける甘い匂いが広がってきた。バターと砂糖が熱で変化するときの、芳醇(ほうじゅん)で温かい香り。この匂いは、どの世界でも変わらない。前世の台所でも、今世の厨房でも、同じ匂いがした。


 (この匂いで、いつも少し落ち着いた)


 眠れない夜も、締め切り前の深夜も、婚約破棄を考えていた三日間も——この匂いがすると、少し頭が静かになった。これからも、たぶん変わらない。


「グレン」と私は言った。


「なんですか」


「これから先も、厨房を使わせてもらえますか」


 グレンが少し間を置いてから答えた。「何度でも申し上げますが——当然です」



 焼き上がったクッキーを冷ましていると、扉が勢いよく開いた。


 リリだった。


「セシル様! 大変です!」


「何がですか」と私は手を止めずに答えた。リリの「大変です」は、本当に大変なときとそうでないときがある。声のトーンで大体わかる。今日は後者だ。


「ヴァネッサ夫人のことなんですけど——社交界でかなり立場が悪くなっているみたいで! 昨日のお披露目で、あの方が毒殺疑惑を主張したことが広まって。外交使節の方が『毒ではなかった』と公言したので、逆に夫人の方が怪しい人扱いになっているそうで」


「そうですか」


「息子さんの方も、殿下への接近が難しくなったとかで。侍女の間では『自業自得だ』という声が多いみたいですよ!」


 グレンが「……自業自得、ですね」とつぶやいた。


「そうですね」と私は言った。


 (誰かに仕掛けて、跳ね返ってきた。それだけのことだ。確たる裏付けもないまま噂という不確かな情報に全力を注げば、破綻するのは自明の理だ。前世のビジネスでも、今世の貴族社会でも、そのルールは変わらない)


 夫人が次に動くかどうかはわからない。でも今は、それを考える必要はない。今日の厨房で、今日の菓子を作る。それだけだ。


「以上です!」


 リリが扉を閉めた。来るのも早かったが、引くのも早い。


 グレンが「よかったですね」と言った。「そうですね」と私は言った。それだけだった。


 二人でクッキーを食べた。アーモンドが入って、前より少し風味が増している。グレンが「悪くない」と言った。私は「そうですね」と言った。それ以上のことは、言う必要がなかった。



 午後になって、作業の一区切りがついたころ、リリがまた扉を開けた。今度は控えめに。


「セシル様、一つお伝えすることがあって」


「なんですか」


「殿下の兄上——第一王子殿下が、明日帰国されるそうですよ」


 厨房が、静まり返った。


 グレンの手が止まった。私の手も止まった。


 第一王子。王位継承順位一位。ファルク殿下の兄。めったに王宮には戻らず、北方の領地に長く滞在していると聞いていた。帰国の頻度が少ないからこそ、帰るときは何かある——王宮内でそう言われているらしい。


「……明日、ですか」と私は聞いた。


「はい。急なご帰国だそうで、理由は不明みたいなんですけど。王宮の方々がざわついているみたいです」


「そうですか」


「何か問題がありますか?」


「……いいえ」


 リリが「そうですか」と言って、扉を閉めた。


 グレンが、しばらく黙っていた。それから「……令嬢様」と言った。


「なんですか」


「第一王子殿下は——ファルク殿下とは、仲がよくないとされています。互いを尊重してはいるが、価値観が合わない。そういう話を、王宮では聞きます」


「……知っています」


 グレンが「そうですか」と言って、また手を動かし始めた。


 私は窓の外を見た。中庭が夕方の光に染まっている。朝と変わらず静かな中庭だ。


 (第一章が終わって、第二章が始まる——ということか)


 今朝、廊下を歩きながら「いつも通りだな」と思った。でも「いつも通り」は、そう長くは続かないらしい。


 前世の田中サリは、誰かのためにお菓子を作るのが好きだった。うまく言葉にできないものを、甘いものに込めてそっと渡すことが好きだった。誰かの顔が少し変わる瞬間が好きだった。


 今世のセシルは——誰かのそばにいるために、作ることが好きになった気がする。


 前世と今世でどう違うのか、うまく言えない。でも何かが確かに変わった。作ることの意味が、少し変わった。


「グレン」と私は言った。


「はい」


「明日もよろしくお願いします」


 グレンが少し間を置いた。


「——当然です」


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