第十四話 婚約保留という言葉が消えた日
晩餐会が終わったのは、夜の九時を過ぎたころだった。
会場の片付けが始まり、外交使節たちが帰っていき、貴族たちが連れ立って広間を出ていった。ヴァネッサ夫人は最後まで姿勢を崩さず、私にも殿下にも声をかけずに静かに退席した。扇子を持ったまま。背筋を伸ばしたまま。最後まで、その人らしかった。
(次は何を仕掛けてくるかわからないが——今夜は、ここで終わりだ)
広間の片付けが一段落してから、私はグレンと一緒に厨房に戻った。使い終わった道具を洗って、余った材料を仕舞って、作業台を拭いて。晩餐会が終わっても、料理人の仕事はすぐには終わらない。それは前世でも今世でも同じだ。大きな仕事が終わった後の後片付けは、なぜかいつも静かで、少し侘びしい。
「お疲れ様でした」と私はグレンに言った。
「令嬢様もお疲れ様です」とグレンが返した。
二人で少しの間、黙って作業を続けた。料理人たちは先に帰っていて、厨房には私とグレンだけだった。洗い物の音だけが続いている。
「グレン」
「はい」
「七日間、ありがとうございました」
「礼は要りません、と以前申し上げましたが」グレンが洗い終わった鍋を棚に戻しながら言った。「……今夜は受け取ります」
その横顔が、どこか満足そうだった。五十代の職人の顔が、今夜だけ少し違う光を持っていた。
「来週からまた厨房を使わせてもらえますか」
「当然です」とグレンが言った。「むしろ——令嬢様が来なくなる方が困ります」
(最初は「ここは王宮の厨房です」と言っていた人間が)
私は少し笑った。グレンが「なぜ笑うんですか」と言った。「気のせいです」と答えた。
*
片付けも終わりに差し掛かったとき、厨房の扉が開いた。
殿下だった。
晩餐会の衣装のままで、一人だった。グレンが「殿下」と礼をした。私も礼をした。殿下は軽く手を上げて制してから、厨房の中を見回した。
「終わったか」
「ほぼ」と私は答えた。「最後の確認が少し残っています」
「そうか」
殿下が少し間を置いた。
「……おつかれ」
厨房が、静まり返った。
グレンが洗っていた皿を持ったまま固まった。私も手が止まった。
(今、なんて言った)
「おつかれ」——この世界の貴族が使う言葉ではない。前世の日本語だ。くだけた、現代の言葉だ。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
完璧な王子の立ち姿が、深夜のオフィスで缶コーヒーを机に置いていった不器用な先輩の姿と、一瞬だけ完全に重なった。この人は今も昔も、大事なことを短い言葉一つで済ませる。言葉が少ないのに、なぜか毎回、急所だけを正確に突いてくる。
(加藤先輩も、よく言っていた。大きな締め切りが終わった夜に「おつかれ」と。それ以上でも以下でもない一言を)
殿下が自分で言ってから、少しだけ目を細めた。
「……今のは忘れてくれ」
「忘れません」と私は言った。
「忘れろ」
「覚えています」
「忘れると言え」
「覚えていると言います」
殿下が微かにため息をついた。
グレンがそっと棚の方を向いた。さっき拭き終わったはずの鍋を、また丁寧に磨き始めた。どこにも目を向けていない顔で、一生懸命に。
「……グレン」と殿下が言った。
「はい」
「今の会話は聞こえなかったことにしてくれ」
「はい。何もお聞きしておりません、殿下」
「聞こえていないな」
「はい。まったく」
三秒の間があった。
「……なぜ鍋を磨いているんだ。さっき終わっただろう」
「習慣です」
「習慣で鍋を磨くのか」
「職人とはそういうものでございます」
殿下が今度はもう少し深くため息をついた。
(前世でも今世でも、この人の表情が崩れる瞬間はこういう場面だ)
私は笑いをこらえながら待った。
殿下がもう一度、こちらを見た。今度は少し、表情が変わっていた。考えるときの顔だ——前世の先輩と同じ、何かを決めようとしているときの顔。
「一つ、言っていいか」
「どうぞ」
「婚約について」
グレンが鍋を磨く音が止まった。私も手を止めた。
殿下が私を見た。
「保留という言葉は——今日で使うのをやめる」
静かに、でも確かに言った。
「……解消ということですか」と私は聞いた。
「違う」
即答だった。一瞬の迷いもなかった。
「保留でもなく、解消でもなく——ただの婚約者だ。今日から。それでいいか」
広間での「これは我が婚約者が作ったものだ」という一言が、頭の中で蘇った。あのとき、殿下はすでに決めていたのかもしれない。あるいはもっと前から。
私は一拍、置いた。
(前世では言えなかった。今世で言えばいい——そう思っていた。「はい」と言うのは、その第一歩でいい)
「……はい」
それだけ言った。他に何も言えなかった。「ありがとうございます」でも「よかったです」でも「嬉しいです」でもなく、ただ「はい」と言った。
殿下も何も言わなかった。でも、その灰色の目が——今まで見たことのない種類の静かさを持った気がした。
「では」と殿下は言って、扉の方に向かった。
扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
「今夜の菓子は——」
一拍。
「よかった」
それだけ言って、扉が閉まった。
厨房が静まり返った。
洗い物の音が、止まっていた。
グレンがぽつりと言った。
「……よかったよかった」
小声だった。でも厨房には私しかいないので、聞こえた。
「グレン、聞こえていますよ」
「失礼しました」
グレンが鍋に向き直った。
私は洗い物の続きをしながら、窓の外の夜を見た。「ただの婚約者」という言葉が、頭の中でまだ静かに響いていた。保留でも、解消でも、正式な継続でもない。ただの婚約者。
その言葉が、一番——
(やめろ。今夜はもう十分いろいろあった)
私は洗い物を終えて、厨房を出た。




