第8章 — 契約
壊れた車の中の闇は、ただ光がないだけではない――“存在”していた。
リョクは焦げた金属の匂いと、隙間から入り込む雨の冷たさで目を覚ます。
全身が痛む。車はねじれた死骸のようだった。
だが“あの影”はまだそこにいた。
潰れたボンネットの上に腰を下ろし、まるで壊れた玉座の王のように。
「お前は死んでいるはずだった」
その声は、皮肉と飢えが混ざっていた。
「だが…お前は生きたい。走りたい。勝ちたい。俺には分かった。」
リョクは外へ出ようと身を引きずる。
痛みが彼を引き留めるが、怒りが前へ押し出す。
「おまえ…何なんだ?」
影は彼へ身を屈め、
煙が“ほとんど人間”のような形に揺らめく。
「相棒だ。代償だ。
魂の残りを失う覚悟のある者だけに開く“道”だ。」
風が吹き、過去の遺灰のように粉塵が舞う。
「力を与えよう」
その存在は続けた。
「常識を越えた反射。完璧な本能。
機械はお前の体の延長のように従う。
――いや、体より上手くなるかもしれん。」
リョクは唾を飲み込む。
「代償は?」
口のない笑みが、影の輪郭にゆがんで浮かぶ。
「ほんの欠片だ。いらない部分だけだ。
――記憶をひとつ。感情をひとつ…」
影の手がリョクの胸に触れる。
彼の心臓が逃げ出そうとするように暴れ出す。
「その代わり、お前は走る。
勝つ。
生き残る。」
リョクは目を閉じる。
遅れてきた救急車を思い出す。
カイゼンの嘲笑を思い出す。
“何もできずに失う”あの感覚を思い出す。
そして囁いた。
「…受ける。」
影は煙となってリョクの体を通り抜け、
肺に入り込むように染み込んだ。
世界が一瞬、完全に無音になる。
リョクの内側で何かが剥がれ落ちる。
熱く――そしておぞましい感覚。
細い光の糸が見えない指に引き抜かれていくようだった。
目を開けると、割れたルームミラーに一瞬だけ自分の虹彩が映る。
だがそこにはもう一つ、
彼のものではなかった“暗い光”が宿っていた。
声が響く。
新たに点火されたエンジンのように低く、強く――
「さあ、リョク… 本当の始まりだ。」




