62.扉の奥に眠る者
母の小屋から出たテオドアは、そのまま真っ直ぐ城に帰り着いた。
しかし、与えられた寝室には戻らない。
しんと静まり返った城内を歩き、最上階まで上る。春の様相になった屋上庭園をガラス越しに眺めながら、固く閉ざされた扉の前まで行った。
立ちすくみ、物々しい雰囲気に気後れしたのも、一瞬のこと。
テオドアは迷いなく錠前に手を掛けた。すると、鍵もないのにひとりでに外れ、呆気なく床に落ちた。
それから、太く頑丈そうな鎖でさえも、待ってましたと言わんばかりにじゃらじゃらと解けていく。テオドアは、端から歓迎された存在のようだ。
「……」
取手を引くと、思ったよりも軽い感触で、開いた。
微かな軋みとともに、足を踏み入れる。部屋の中は、一見して、とても豪華な内装だった。
高価そうな骨董品、絵画、美しい壁紙、カーテン。調度品のひとつひとつに至るまで、調和の考えられた趣味の良い部屋。
その真ん中に、大きな寝台が置かれている。
天蓋付きで、周囲に布が降りているため、誰が眠っているのかは分からない。
だが、テオドアの向こう正面にある大きな窓から、強く月光が差し込んで、中に誰かの影が透けて見えた。
そっと足音を潜め、寝台に近付く。普段ならば、寝ている人間を覗くことにためらいが勝つものの、今のテオドアは無敵に近かった。眠りを妨げなければいい、という気持ちだ。
布の切れ目を探し、そっと中を覗き込む。
そして、彼女たちを見た。
思わず息を呑むのと、背後に気配を感じたのは、同時だった。
「――矢張り、見てしまったか」
振り返れば、テオドアのすぐ後ろに、『戦と正義の女神』・ティアディケが立っていた。
鎧もなく槍もない、女神らしい「古代風」の衣装だ。彼女はテオドアから目を逸らし、寝台の方へ視線を投げた。
「ああもしなければ、仮初の肉体は疾く朽ちる。決して破廉恥な目的ではない」
「……ここで喋ると、起こしてしまうのでは」
ティアディケがあまりにも通常通りの声で喋るので、テオドアは小さく問う。
女神は、「問題無い」と淡々と答えた。
「どちらも、このくらいでは起きることがない。『夢と眠り』は権能を使っている。もう片方は――魂の無い器だ」
テオドアはもう一度、寝台の中を覗き見た。
広い寝台には、裸の男女が寄り添って眠っている。男性のほうは仰向けになっていて、女性がそれに抱きつく形だ。
二人の身体には辛うじて毛布が掛かっていたが、ほとんど下半身を覆うだけに留まっていた。
女性は、まごうことなき女神。『夢と眠りの女神』、レネーヴ。
男性は、平凡だが、とても見覚えのある顔立ちをしていた。
直近に見た覚えはない。だが、例えばそう、前世のころ。毎朝、顔を洗うときに、水面に映っていたような――
「あの男性は」
テオドアは、ごくりと唾を飲み込んでから、続けた。
「皆さまがおっしゃっていた、前世の、僕……ですか?」
「そうだ。死んだ者は戻らないが、吾らは繋ぎ止める術を得た」
そう言って、ティアディケは手を伸ばし、天蓋の布をそっと直した。テオドアの手から布が外れ、寝台の上の二人の姿は、再び覆い隠される。
「吾らのことを謳った童話がある。それは、概ねが真実だが、悪意を以て脚色されている」
「『三人の女神と愚かな男』……」
「そも、吾ら三人は、伴侶となるべき男を殺してなどいない」
テオドアは、彼女に向き直った。ティアディケはテオドアよりも背が高い。自然、見上げる形となる。
「神獣に殺された、という、結末だったと思いますが」
「それは事実だ、否定しない。然し、神獣は完璧で無比な存在ではない」
ティアディケは、赤い瞳でこちらを見下ろした。
「あの時、神獣は操られていた。――愚かな人間たちの手に依って」
そもそも、三人の女神が従えていたのは、種族としての名を持たない「混ざり物」の神獣だった。
セラが従える「ペガサス」のような、種族名。それを持たない神獣は、意外と多くいるという。
なにせ、神が従えている獣は、それだけで「神獣」なのだから。
「かの獣は、吾が修行の折に退治した怪物を、神獣に召し上げたもの。元は魔獣だ」
確かに――思い返せば。鋭い牙を持ち、あらゆる動物の継ぎ接ぎのような四足の姿は、神聖な獣というよりも魔獣に近かったように思う。
もちろん、魔獣に慣れた前世のテオドアは、かの獣から聖なる何かを感じ取っていた。つまり、魔獣とは一線を画す存在であったことは間違いない。
「吾らと男は、百日通いの誓約を交わした。城に辿り着くまで、様々な難題を敷いた。一日だけでも辿り着けなければ、結婚は不意になる。否――」
ティアディケは、軽く首を振って、付け加えた。
「吾らは、もし男が試練を達せなければ、彼を殺すつもりでいた。……女神の貞操を狙う不義の輩だ。それくらいは当然のことだと」
「……それって、男には言ってあったんですか?」
今、必死で過去の記憶を掘り返したが、そのようなことを言われた覚えがない。
だが、女神は頷いた。
「初めの、誓約を交わす時に。だが、舞い上がっていた男が、どこまで聞いていたかは定かではない」
「あー……」
舞い上がっていたか? うん、舞い上がってたな。「女神さまたちと一緒に生活できるかもしれない!」と、大いに高揚していた気がする。
そのときになにを言われていても、左から右へ受け流していただろう。
これはテオドアが悪い。仮に百日を経ずに終わり、即座に殺されていたとして、文句は言えない。
だが――
「童話では、百日目の試練も達成していたと言われていましたが……」
「ああ。ここで、件の人間たちが問題となる」
「件の……?」
「それらは、吾らと男の距離が縮まることを、良く思わなかった」
話は、男の求婚の前に遡る。
――地上に興味を持った女神たちが降臨した際、その噂を聞きつけた各国の男性たちが、我先にと集った。
どれも、それぞれの国で地位を得ていた男たち。王侯貴族に連なる若者。中には、妻子もあるのに女神を娶りに来た、鼻息の荒い青年もちらほらいた。
彼らは女神たちに媚びへつらい、数多の贈り物をし、美を誉めそやし、なんとか関心を得ようとしていた。あわよくば、を期待してのことだ。
女神たちも、そのような男たちのいなし方は既に天界で心得ていたため、一線を守りつつも拒絶せず、楽しく交流していた。
そこへ、ある日、みすぼらしい男が現れる。
あろうことか、男は自らの身分も弁えず、女神たちに求婚をした。
文字通り、神をも恐れぬ所業。取り巻きの者たちは嘲笑した。どうせ一日と保たずに根を上げる、と、馬鹿にする者ばかりだった。
「然し、男は十日経っても二十日経っても諦めずにいた。彼らは焦りを抱いたらしい。九十日を過ぎたころ、或る国の王子が一計を案じた」
あの男を殺そう。
だが、ただ殺したのでは角が立つ。なにより、あんな『森の門番』ごときに手を煩わされたなど、知られたくはない。
ゆえに。神獣を操って殺そう。
「その者は協力者を募り、手分けをして実行に移した。吾らの目を盗み、警戒する神獣を大勢で痛めつけた。前後不覚に陥らせた挙げ句に、二種の幻覚を掛ける」
「もしかして、男を襲わせるために?」
「それもひとつ。目の前の全てが敵に見えるように、認識を狂わせたとか。もうひとつは、男が警戒しないため、傷だらけの獣を元の姿に見せかけるものだ」
そうして、それにまんまと引っ掛かった男は、死んだ。
百日目を越えた安心から、気が緩んでいたために、最後の死の罠を避けきれなかった。
「その人間たちは、意気揚々と報告をしに来た。此方が喜ぶと信じきっていたのだろう」
女神たちも、あのみすぼらしい男に辟易していたに違いない。だから、報告をすれば、きっと喜ぶだろう。「あの男と結婚させられなくて良かった」と泣き、褒美を与えてくれる。
もしかしたら、その「褒美」とは、女神たち自身の身体かもしれない。――と。
ティアディケは、ここで初めて、表情を崩した。
わずかに眉根を寄せただけだが、嫌悪の念が存分に表れていた。
それから両手をぎゅっと握り込み、吐き捨てるように言う。
「そのような輩は、全て吾が殺した。絶望を味わせ、何処までも追い詰め、『正義』に悖るほど残虐に――」




