61.母と公爵と、後悔のない道
この世界にも、夜は訪れるらしい。
部屋のバルコニーから空を見上げ、テオドアは一人、夜風を受けていた。
怒涛の一日だった。実際には、現実の世界でどれほど時間が経っているかは分からないが、テオドアの体感ではそうだ。
王弟が王宮を襲うのを目撃し、この世界に来て、母に会って、『夢と眠りの女神』に城を案内され、『知恵と魔法の女神』に真実を知らされて――と、数えきれないほどのことが起きている。
寿命が百年あると思ったら、あと一年も無かった。その事実がなにより、衝撃だったけれど。
満月の上を薄雲が流れていく。星に視線を移しても、心が安らぐことはなかった。
(確かめたいことが沢山ある。まずはそれを、ひとつひとつ潰していかないと)
どうするかを決めたり、嘆いたりするのは、その後だ。
知らず知らず溜め息をつきながら、なんとはなしにズボンのポケットに触れる。すると、何か物が入っていることに気がついた。
引っ張り出すと、それは、青い花だった。
確か――〝誓いのゆりかご〟。幼いルネリーゼからテオドアに渡ってきた、もともとリュカが持っていたらしい花。
存在を忘れかけていた。相当乱雑に扱っていたはずだが、わずかたりとも形が崩れていない。生花だというのに、まるで摘みたてのような瑞々しささえ感じられる。
テオドアは、黙ってそれを月光にかざした。
(無事に帰れるように誓う、か……)
リュカはなにを思って、これをルネリーゼに渡したのか。
しかも、「いちばん初めに会った〝お兄さま〟に渡せ」と、条件までつけて。
もし、パウロかツィロが、ルネリーゼの様子を見にきていたら、この花は彼らに渡ったことになるが……。
考えても仕方がない、か。
テオドアは首を振り、考えを打ち消した。薄暗い部屋に戻って、花を花瓶に生け、頬を叩いて気分を切り替える。
まずは、母に、ヴィンテリオ公爵の話を聞きに行こう。
女神たちに無断で会いに行って良いかは分からないが、雑談をしなければすぐに帰って来られるだろう。
見咎められる心配はそこまでしなくてもいい。
テオドアは、助走をつけてバルコニーへ飛び出し、手すりを乗り越えて地面に飛び降りた。
三階からの着地だったが、捻った足は、すぐに治った。
「母さん、起きてる?」
果たして、母は起きていた。小屋から明かりが漏れていなかったので、寝ているかと思って控えめに声を掛けたのだが、杞憂だったようだ。
「あら、眠れなかったの?」
彼女はすぐに、扉を開けて出迎えてくれた。指の一振りで部屋のランプに明かりを灯し、古ぼけた木の椅子を勧めてくれる。
「好きなだけここにいなさい。女神さまには言ってあるの?」
「いや、言ってきてない。無断で出てきたんだ。だから――急がなくちゃいけないんだけど――」
そう言って、ひと呼吸置いた。気持ちが逸り過ぎて、上手く言葉が出て来なかったら、それこそ本末転倒だからだ。
テオドアは、ぐっと表情を引き締め、母を見た。
「母さん、ヴィンテリオ公爵って、どんな人なの?」
「……公爵さま? あなたのお父さまね?」
母は、テオドアの真剣な表情を見て、なにかを感じ取ってくれたらしい。
粗末なベッドの端に座り、しばし考え込んでから、口を開いた。
「……どこから話したら良いのかしら。公爵さまは、そうね……とても、子どもっぽいお方だわ」
「子ども?」
およそ公爵位にある者に使う言葉ではなさそうだが。
確かに、言われてみると、どことなく子どもらしい振る舞いだったようにも思える。
母は頷きつつ、「どこから大人か、って聞かれると、困るけど」と、苦笑した。
「なんていうか、とても純粋なお方なのよ。公爵さまの功績は、それはもう素晴らしいわ。辺境の属国の大規模な紛争を、たったお一人で収められたとか、定められた範囲内とはいえ天候を変えられたとか、事件が起こったときに一瞬で国民全ての聞き込みを終わらせてしまったとか」
「それ、本当の話なの?」
「さあ……でも、ご本人がおっしゃったことだから、ある程度は真実だと思うわ」
常人なら、結婚相手に見栄を張ることもありそうだが、公爵は……。
……やらなさそうだな。そういう発想すらなさそうだ。
テオドアは、公爵の姿と態度を思い返し、そう結論づけた。
「結婚前に、公爵さまの噂を沢山聞いたわ。幼い時から優秀で、なんでもできて、息をするより簡単に魔法が使いこなせて……本当に手の掛からないお子だったそうだけど、その分……」
いえ、これ以上は推測にすぎないわね。と言って、母は軽く息を吐き、話を切り替えた。
「とにかく、純粋な上に、力を持っているお方だから、物事を思い通りに進めてしまえるの。でも、人間って、必ず誰かと関わるでしょう?」
「うん」
「だから、公爵さまの行いひとつで、傷つく人間も必ず出てくる」
「それは……例えば、母さんとか?」
かれこれ十年単位で放ったらかしにされていたのである。傷つきもするし、恨みもするだろう。
だが、母は首を振って否定した。
「いいえ。お可哀想なのは、ローゼルさま」
「……第一夫人が?」
「本当はね、公爵さまは妻をひとりだけ娶るつもりだったの。ご結婚にさして興味がなかったのね。だから、王の弟君の御息女と婚約なさった。身分が高い相手と結婚すれば、社交界の人間も、妻が一人でもうるさくないだろうと踏んで」
だが、そう上手くはいかなかった。
公爵は、出逢ってしまったのだ――母に。
「出会いは、本当に偶然だった。私が実家のお店で店番をしているとき、雨宿りに飛び込んできたのが彼だった。全身の水気を魔法で蒸発させるために、乾いた場所が必要だったんですって」
そうして、公爵は恋に落ちる。
それだけならば良かった。だが公爵は、生まれて初めての恋に夢中になり、ほとんど式の日取りも決まっていた婚約を、一方的に破棄しようとしたのだ。
リーザに莫大な魔力があるのを幸いに、貴族として新たに身分を作る手筈さえ、あっという間に整えてしまった。
自分の妻はただ一人だと、当然のように宣言して。
「王弟さまもローゼルさまも、ものすごくお怒りになったわ。それで、国王さまやご友人の取りなしもあって、私を第二夫人として迎えることで事なきを得たの」
「母さんは……どうして、公爵と結婚を? まさか、無理やり?」
「いいえ、結婚を承諾したのは私の意思。だって……」
と、母はここで、ちょっと困ったように眉を下げた。
それから、はにかむように笑い、
「だって、私も愛してしまったんですもの」
と言った。
まるで少女のようだ。それくらい無邪気な口調だった。
しかし、それも一瞬のこと。母は再び真面目な顔になり、「分かっていたわ。分不相応な恋だって」と続ける。
「だから、求婚は十度ほどお断りしたのよ。でも、公爵さまは諦めなかった。最後は、私の両親を人質に取ったから、押し切られてしまって」
「あの、やっぱり無理やり結婚したのでは?」
「……無理やりだけど、お父さんたちが無事だったから良いの。私も公爵さまを愛していたし」
「公爵には人の心がない……」
と言うより、そうか。自分の思い通りにならないことを、知らないのか。
幼いころからなんでもできてしまったから。遠慮を知らず、加減も知らない。限界も知らない。圧倒的な力でごり押しできるが、その力にすら無自覚だ。
無邪気で、純粋で、力を持った大きな子ども。
なるほど、母の分析も、あながち間違いではないのかもしれない。
「本当はね。条件をつけたのよ。結婚の際に」
「どんな条件?」
「……〝結婚はするけど、絶対に子どもは作りません〟って」
「えっ」
本日二度目の絶句である。
母は、固まったテオドアに向けて、「誤解しないで」と微笑んだ。
「子どもが欲しくなかったわけじゃないの。でも、やっぱり私は平民の出だし、ローゼルさまとはなにもかもが違う。家庭内の不和になる……それは、避けたかった」
例えば、ただでさえ第二夫人を優遇しているところに、公爵の才を受け継ぐ優秀な男児が生まれてしまったら?
――まず間違いなく、公爵は第二夫人の子を贔屓するだろう。
そんなことをすれば、第一夫人は面白くない。また、第一夫人の父たる王弟も良い顔をしない。家庭内も乱れ、公爵の評判も立場も危うくなる。
そこまで考えての進言だったらしい。
……実際は、生まれた子が優秀かはお構いなしに、第一夫人は迫害してきたが。
母は、つと目線を外し、天井を見上げた。
「公爵さまは、承諾してくださった。だからね、本当は私、子どもを望めない身体なのよ」
「……」
「貴族の世界には、なんでもあるのね。昔ながらの……子どもを望まない人のための薬があって。もちろん、合法ではないんだけど、こっそりと。悲しかったけど、どちらかを取るんだとしたら、結婚の方を取るって決めて……」
「……でも、僕が生まれた」
「そう。驚いたわ。薬が効いてないんじゃないかって疑った。もう子どもは産めないって、お医者さまもお墨付きだったのに。まさか、奇跡が起きるなんて」
そう言って、母は立ち上がる。椅子に座るテオドアの前にしゃがむと、そっと両手を取った。
慣れた母の手は、やはり、温かかった。
「だから、私は、あなたが生きているだけで良いの」
「……望まない子どもだったのに?」
「本当は欲しかったのよ。聞き逃しちゃった? ……なんてね。ごめんなさい。あなたに打ち明けるつもりは、なかったんだけど……」
俯くテオドアの顔を、母は無理に覗こうとはしなかった。握った手を軽く振るだけだ。
「でも、あなたが生まれて嬉しかった。それは本当。どんな神さまにだって誓えるわ。なんなら、大声で叫んであげましょうか?」
「……それは、止めてほしいかな……」
「ふふ、そうよね。テオも、もう十三歳だものね」
――だから、大切だけど、生きていてほしいけど。
私は、あなたの選んだ道を尊重するわ。
母は、静かな声で、そう言った。
「……」
「難しい顔をして訪ねてくるなんて、誰でも察するわよ。なにか悩んでいるんでしょう?」
「うん……」
「私も、この数ヶ月でいろいろ考えて、成長したの。あなたは、『私の可愛いテオ』だけど、いつかは手放さなきゃいけない日が来る。それが、今」
テオドアが顔を上げると、母は目を細めた。
慈しみ、葛藤、悲しみ、覚悟。いろいろな感情のせめぎ合う表情だった。
「いいのよ、テオ。こっちのことは気にしないで、思いっきりやりなさい」
「母さん、」
「例え、どんな結末になったとしても。あなたが後悔しなければ、それで良いのよ」
――私も、胸を張って「幸せ」とは言い切れないけれど。
後悔は、していないから。




