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保守通路


保全鍵、上位許可、声。三つが揃って、根元口が開いた。


根元口の内側は、木の匂いがしなかった。


湿った樹皮も、土も、青い葉の匂いもしない。

代わりにあるのは、長く閉じられていた白い部屋の匂いだった。冷えた石、乾いた金具、眠った灯り。使われなくなった設備の匂いだ。


リリエルは、一歩入ったところで立ち止まった。


前へ伸びる通路は、まっすぐだった。


木の内側なら、こんなふうにはならない。

節も、うねりも、ねじれもない。

一定の幅。一定の高さ。一定の継ぎ目。

左右の壁には細い溝が走っている。床の端には荷重を逃がすための刻み。天井の中央には、灯列だったはずの白い線が、いまは死んだように沈んでいた。


「……木じゃないね」


とユノが言った。


「だから言ったでしょ」


とリリエル。


「少なくとも木だけじゃない」


母が後ろで言った。


その言い回しが、もう工房の合言葉みたいになっているのが可笑しかった。


シオンが短く言う。


「笑うな。足元」


「笑ってない」


「顔が笑う前だ」


「そういうの分かるの?」


「落ちる顔はだいたい同じだ」


それで終わる。

でも、そういう短い会話の方が、ここではかえって息がしやすい。


ローデリックが白い壁へ手をかざした。上位許可句は短い。音になった瞬間、死んでいた灯列の一部が、左から順に薄く起きた。


白い。

でも、神殿の灯りとは違う。祈りに応える白ではない。機能の白だ。


視界の奥に文字が浮かんだ。


> `MAINTENANCE CORRIDOR`

> `OUTER SHELL ACCESS`

> `PARTIAL LIGHT RESTORED`


保守通路。外殻アクセス。


「どうした」


とイリス。


「当たり」


「何が」


「世界樹って、木のふりしてる巨大設備だ」


「設備って言い切るのね」


「通路がもう設備だもん」


それは、言ってしまえば簡単だった。

でも、簡単に言い切れるだけの人工性が、目の前にある。


ユノはまだ壁を見ていた。

祈るような顔ではない。

読めないままでも、これは神木の内側なんかじゃないと、目で受け取っている顔だった。


---


通路は、見た目より静かだった。


足音が返る。

けれど、それが普通の石造りの建物みたいに広がらない。どこかで吸われている。


カイルが金属枠を床へ近づけた。細い針が震え、枠の中央に埋め込まれた薄板へ数字に似た刻みが走る。


「どう?」


とリリエル。


「生きています」


「何が」


「全部」


それは厄介な答えだった。

でも、たぶん正しい。


「止まってる設備の方が少ないです。眠っているだけで、死んではいません」


母がすぐ書いた。


「通路灯列、部分応答。床面振動、低。外殻流量、残存」


通路の中ほどで、ラウレンティスが一度だけ壁へ手をついた。

すぐに離したが、リリエルはそれを見ていた。三年前よりも足にかかる負荷が増えている。この先の道がさらに長くなるなら、どこかでこの人は引き返す判断をするだろう。

でも今日はまだ歩いている。


ユノが、そこで紙ではなく天井の白線を見ながら言った。


「神殿の大灯祈祷、あれに似てる」


「似てるんじゃなくて、たぶんここから落とした形だね」


とリリエル。


「いま動いてるのは祈りじゃない。でも、祈りがこれを真似て作られてきたなら、耳には似る」


ユノは頷いた。

もう「それは違う」とは言わない。違うものが似ている時の方が、たぶん人は長く考える。


---


通路の先で、壁が一度だけ開けた。


広間ではない。点検だまりだ。


床が円く広がり、その中央へ円柱が一本立っている。外殻の内側に食い込むような細い柱で、表面には輪状の継ぎ目がいくつも並んでいた。その足元へ、三方向から細い路が接いでいる。


「昇降杭」


とリリエルが言った。


誰もすぐには返さない。


視界の奥の文字がそれを補強した。


> `VERTICAL MAINTENANCE SPINE`

> `ELEVATION SUPPORT`

> `MANUAL ROUTE LOCKED`


「杭というか、背骨だな」


とローデリック。


「世界樹の中に、こういうのが何本もあるんでしょうね」


と母。


イリスが円柱の継ぎ目を見たまま言った。


「神殿記録だと“枝脈柱”に近い位置づけね」


「その名前、いま初めて見た物のこと言ってる感じしないよ」


とリリエル。


「ええ。だから厄介なのよ」


イリスのそういう返しは、だんだん分かりやすくなってきた。厄介だと言う時は、だいたい正しい時だ。


シオンが円柱ではなく、広がった床の縁を見ていた。


「割れる場所がある」


「どこ」


とカイル。


シオンは顎で示した。床の白い継ぎ目が一箇所だけ細く沈んでいた。


「乗る人数を間違えると、ここが落ちる」


「そんなの分かるの?」


とユノ。


「見る場所が違うだけだ」


短い。

でも、この人は本当にそういう人だ。


リリエルは、その沈みを見た。見た瞬間、別のことが浮かぶ。


これもまた、木じゃない。荷重を計算している床だ。


木はこういう壊れ方をしない。壊れる前から、壊れ方を予告しない。


---


さらに進む。


通路は途中から、露骨に「保守用」になった。


壁の片側が開き、そこへ細い配線のような束が走っている。配線そのものではない。もっと太く、もっと複雑だ。光を通す管と、熱を逃がす溝と、記録を落とす導路が、全部まとめて一本の幹へ沿っている感じがする。


「見て」


とリリエルが言った。


「だから足元」


とシオン。


「一秒だけ」


「半秒」


「けち」


シオンは無言だったが、半歩だけ近づいた。落ちる前に引っ張れる位置へ来たのだと分かる。この人の譲歩は、たぶんそういう形でしか出ない。


リリエルは壁の開口を指さした。


「これ、魔力導流だけじゃない。熱と記録もまとめて流してる」


カイルがすぐ寄った。測定枠ではなく、目で見る顔だった。


「……分けてませんね」


「うん」


「古い設計です」


「分かるの?」


「分かります。新しい設計なら、整備時に切り分けしやすいよう分離します」


母が、そこで笑った。


「工房育ちと王都技師が、同じところで同じ顔するのね」


「困りますか」


とカイル。


「ううん。便利」


それで空気が緩んだ。


視界の奥に、また文字。


> `THERMAL / POWER / LOG BUNDLE LINE`

> `ORIGINAL INTEGRATED DESIGN`


「やっぱり」


とリリエル。


「まとめてる。古い設計」


ユノがその言葉を反芻するみたいに言った。


「世界樹って、神代の奇跡じゃなくて……」


「古い巨大設備」


とリリエル。


「しかも、かなり面倒なやつ」


イリスが低く息を吐いた。


「神殿にいると、その一言はなかなか出てこないのよね」


「今は出てる」


「ええ。だから困るの」


でもその顔は、困っている顔だけではなかった。ようやく本物の名前が通る場所まで来た人の顔でもあった。


---


通路の終わりで、天井が急に高くなった。


二層ぶん、いや三層ぶんはある。白い吹き抜け。中央に細い昇降路。その周囲を、螺旋ではない直角の足場が折れながら上へ伸びていく。


足場、というより、保守外殻だ。


外から見れば樹皮の内側。中から見れば、点検用の殻だった。


眠った灯り。閉じた札。壁へ埋まった観測窓。もう動かないはずの昇降盤。


なのに、死んでいない。全部が「起こせばまだ使える」顔をしている。


「……すごい」


とユノが言った。


「これはさすがに、祈りじゃないね」


その一言は、前に進んだ言い方だった。壊れた、ではない。違う名前で見られるようになった、という言い方だ。


ローデリックが昇降路の前へ立った。イリスが保全鍵を差し入れる。灯りが一段だけ起きた。


その時、カイルの測定枠が、それまでとは違う鳴り方をした。


高い。近い。


何かが、すぐそこにいる時の鳴り方だった。


すると、昇降路の足元に、閉じていたはずの細い箱が、音もなく横へ開いた。


中に入っていたのは、人だった。


いや、人型だった。


白い外殻。細い手足。肩から背へ折りたたまれた補助肢。顔の位置には滑らかな板がはまり、その下へ淡い青の線が眠っている。


立ったまま、眠っている。


誰もすぐには喋らなかった。


シオンだけが、一歩前に出た。剣へ手はかけない。代わりに、命綱の端を短く引き直す。


「動く」


とシオン。


「分かるの?」


とユノ。


「起きる前の空気がある」


物騒な言い方だった。

でも、たぶん一番正しい。


視界の奥へ、白い文字が浮かんだ。


> `MAINTENANCE UNIT`

> `NOVA=12`

> `SLEEP MODE / RECOVERY PENDING`


「ノヴァ……十二」


とリリエルは読んだ。


青い線が、その名に応えるみたいに一度だけ灯った。


カイルの測定枠が、今までで一番高く鳴った。母の筆が止まる。ユノが息を止める。イリスの視線が、その白い人型の胸部に固定された。


ローデリックが低く言った。


「起きるな」


命令みたいな短さだった。だが相手は人ではない。


白い人型の胸の中央へ、細い光が走った。顔の板の下で、青が線になって開く。


> `VOICE MATCH ... PARTIAL`

> `PROVISIONAL ROUTE HOLDER DETECTED`

> `WAKE PERMISSION ... ACCEPTED`


「リリエル、下がれ」


とシオン。


「でも」


「下がれ」


今度は逆らえなかった。言い方ではなく、現場がそう言っていた。


半歩下がる。カイルが横へ来た。ユノも動く。でも、目だけは誰も離せない。


白い人型の首が、ごくゆっくりとこちらへ向いた。


眠っていた補助肢が、背中でひとつ鳴る。顔の板の中央に細い光点が灯った。


声は、思っていたより静かだった。口からではない。胸の板の奥から、壁と同じ場所を通って響いている。


> 「……起動確認。保守個体、ノヴァ=12。

> ルート保持者、照合。

> 遠隔応答ノード、オルディスより継承確認」


オルディス。


ここで繋がるのか、とリリエルは思った。祠で返事をしてきた名前が、世界樹の中の眠った保守個体へ、確かに続いている。


ノヴァ=12の顔の光が、まっすぐリリエルを向いた。


> 「遅い」


誰も動かなかった。


次の一言で、部屋の空気が完全に変わったからだ。


> 「帰還保守、予定より二一七四年遅延。

> それでも、帰ってきたなら構わない」


ユノが息を呑んだ。母のペンが、やっともう一度動いた。ローデリックの目が細くなる。イリスは笑っていないのに、顔がわずかに緩んだ。


シオンが低く言った。


「起きたな」


「うん」


とリリエルは答えた。


二千年以上待っていた相手に、やっと来たと言われたのだ。


ノヴァ=12は、白い箱の中から一歩だけ前へ出た。


音がしない。なのに、動いたと分かる。


顔の光が、細くなった。


> 「状況確認を開始する。

> ルート保持者。同行しろ」


白い通路の奥が、そこで初めて「先」になった。


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