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帰ってこい


ノヴァ=12は、振り返らなかった。


白い保守通路の先を、音もなく進む。

足音がない。

なのに、そこにいると分かる。

人型なのに人間ではないものの歩き方だった。


背中の補助肢は畳まれたまま。

胸の板の下だけが、細く青い。


> 「上層点検路へ移動する。

> 現状確認には、高位観測窓の開放が必要」


「上層って、どのくらい上?」


とリリエル。


ノヴァ=12は一拍も置かない。


> 「現位置より三層上。

> 保守用昇降路は一部停止。徒歩移動を推奨」


「推奨、ね」


とイリス。


「厄介な言い方」


> 「落下率が低い」


「もっと厄介」


それで終わる。

でも、こういう会話がある方が、かえって歩きやすい。


点検だまりを出る手前で、ラウレンティスが足を止めた。


「ここから先は任せる」


誰も驚かなかった。

昨日の通路で壁へ手をついたのを、たぶん全員が見ていた。ここから先は足場の移動になる。この人が来る場所ではない。


「記録は戻ってから受け取る」


それだけ言って、ラウレンティスは点検だまりの壁際へ座った。

座り方は静かだったが、膝に一瞬だけ力が入るのが見えた。


リリエルは一度だけ振り返った。


ラウレンティスは、もう次の人たちを送り出す顔をしていた。


---


通路は、前の区画より露骨に人工的になっていた。


白い壁。

白い床。

折れ目の正確な足場。

途中に埋まった観測窓。

閉じたままの昇降盤。

ところどころで死んだ灯りが、ノヴァ=12の通過に合わせて短く起きる。


木の中を歩いている感じは、もうほとんどなかった。


ユノが言った。


「ここまで来ると、ほんとに神木って感じが薄いね」


「神殿でそれ言うの、前なら無理だったでしょ」


とリリエル。


「今も怖いです。かなり」


その正直さがユノらしかった。


カイルは無言で測定枠を見ている。

薄板の刻みが、進むたび細かく走る。三年前なら、歩きながらこんな安定して測ることはできなかった。念話石も、測定枠も、彼の手の中でずいぶん遠くまで来た。


シオンは最後尾ではなく、今日はリリエルの斜め後ろにいる。

落ちたら届く位置。

それが、この人なりの守り方なのだろうと思う。守ってるとは、本人は絶対に言わないだろうけど。


---


最初の昇降路は死んでいた。


ノヴァ=12が胸の板を白い柱へ向ける。

青い線が一本走る。

だが、昇降盤は下りてこない。


> 「縦移動装置、応答不良。

> 代替経路へ移行」


> 「なお、覚醒直後のため感覚域は回復途中。

> 構造状態の即時判断に遅延の可能性あり」


「そうなると思ってた」


とローデリック。


「どこだ」


ノヴァ=12は右の壁を指した。


白い板にしか見えなかった場所が、音もなくずれて開く。

中にあったのは、階段ではなかった。


薄い足場。

格子のような通路。

片側は外殻に沿い、もう片側は吹き抜けへ開いている。

下は見えない。

暗いのではない。

遠すぎて、途中から白く消えている。


シオンが一歩前に出た。


「ここから先、間隔を詰めるな」


命綱の束を腰から外す。

金具。留め具。細い杭。

それを壁の基部へ打ち込む動きが早い。迷いがない。考える前に戻る道を作る人の動きだった。


「二人ずつ通る。先行は俺、ノヴァ、リリエル。次、カイル、セレナ、ユノ。最後、イリス、ローデリック」


「なんで私が前」


とリリエル。


「呼ばれるのはお前だからだ」


それで終わる。

反論の余地がない。


ノヴァ=12は、もう足場へ出ていた。

細い白い身体が、格子の先で止まる。

胸の青が時々ひとつだけ脈打つ。


シオンが命綱をリリエルの腰へ回した。


「締める」


「きつい」


「落ちた時に文句言え」


「言いたくないな、それは」


「なら今言うな」


それで笑いそうになる。

でも、下を見たら笑えなくなった。


高い。


世界樹の内側は、ただ空洞なのではない。

昇降路。

足場。

閉じた区画。

遠い壁。

ところどころに死んだ灯り。

全部が、白い深さの中へ積み上がっている。


木の中心を見ている感じではない。

巨大施設の縦穴を見下ろしている感じだ。


「行くぞ」


とシオン。


命綱が、短く張る。


---


足場は、見た目より揺れた。


踏み込むたび、金属とも石ともつかない感触が、遅れて返る。固い。

でも、完全には死んでいない。

この通路も、まだどこかが生きている。


リリエルは足場の先ばかりを見た。

下を見ないようにするのではない。

下を見たところで意味がない高さだからだ。


前ではノヴァ=12が止まりもせず進む。

落ちるという概念が薄い歩き方だった。

その後ろを、シオンが一定の速度で行く。

速くも遅くもない。

命綱が張りすぎず、緩みすぎない速度だ。


「前」


とシオン。


「見てる」


「見えてない顔だ」


「どういう顔それ」


「遠くへ行く顔」


その言い方が、妙に刺さった。


遠くへ行く。


たぶん自分は、昔からそういう顔をしてしまう。

目の前の構造や文字を読んでいる時だけ、身体の位置が一瞬抜けるのだ。


それを、この人は見ている。


通路の中ほどで、壁がひとつ開けた。


観測窓だ。

丸い。

厚い。

その向こうに、さらに上層へ続く別の通路が見える。

白い管が幾重にも走り、中央に大きな輪が固定されていた。


視界の奥に文字が浮かぶ。


> `UPPER MAINTENANCE RING`

> `MANUAL RESET CHANNEL`

> `ACCESS ... PARTIAL`


「待って」


とリリエルが言った。


シオンが即座に止まる。


「何だ」


「いま、上層の観測窓が出た。手動再起動の経路が――」


言い終わる前に、足場がひとつ鳴った。


高く、鋭い音だった。


シオンの目が、すぐ下を見る。


「止まるな。戻れ」


「でも、今の窓――」


「戻れ」


今度は命綱が先に動いた。

シオンが手元で引いたのだ。

戻る道を作った人間の引き方だった。


だが、その瞬間だった。


リリエルの足元の格子が、縦に裂けた。


音は大きくない。

でも、身体には十分すぎる音だった。


踏んだところが消える。


息が止まる。


視界が白く滑る。


次の瞬間、腰がひどく引かれた。


命綱。


落ちきらない。

でも、完全に戻りもしない。

片足が消えた足場の外へ出て、身体が半分、吹き抜けへ投げ出された。


下が遠い。


本当に遠い。


喉が閉じる。

声が出ない。


シオンの声だけが、まっすぐ来た。


「見るな。上」


短い。

でも、それで足りる。


見たいのは下じゃない。

戻る方だ。


手を伸ばす。

だが、裂けた格子の縁が崩れて、指が滑った。


そこで、別の声が飛んだ。


「帰ってこい!」


カイルだった。


今まで聞いたことのない声だった。

低いとか高いとかではない。

本気で怖くなった時にだけ出る、余計のない声だ。


「手ぇ離すな! 戻れ!」


その一言で、身体の中のどこかが戻る。


シオンが足場の杭へ命綱を巻き直している。

一本ではない。

二本目を打っている。


最初に自分を止め、次に戻る道を太くする。

この人はそういう順番で動く。


「右!」


とシオン。


リリエルは右手を伸ばした。

裂けた格子の先、まだ残っている白い梁へ指が届く。


「掴め!」


掴む。

指先が痛い。

でも痛い方がいい。

落ちていないと分かるからだ。


シオンがさらに引く。

命綱が腰へ食い込む。

苦しい。

でも、戻っている。


その時、別の手が来た。


カイルだった。


いつの間にか足場の手前まで出てきていた。

測定枠なんて投げ捨てたのかと思ったら、背中にぶら下げたままだ。

でも両手は空いている。


「リリエル!」


その呼び方で、もう十分だった。


カイルの手が腕を掴んだ。

強い。

驚くほど強い。

普段のこの人からは想像しないくらい、乱暴に近い力だった。


シオンが支え、カイルが引く。


戻る。


足場へ、胸から落ちるみたいに戻った。


格好なんて最悪だった。

手も膝も擦った。

息も整っていない。

でも、生きている。


シオンはすぐ命綱を外さなかった。

まず裂けた格子の前に新しい線を張る。

それから、後ろの隊列へ短く言った。


「全員止まれ。前へ出るな。戻る路、組み直す」


それから、カイルの方を見た。


「カイル。次やったら命綱ごと引っ張り戻す」


「……はい」


カイルの返事は短かった。

反論はない。

隊列を破ったのは自分だと分かっている。

でも、後悔している声ではなかった。


イリスが後方から鋭く叫んだ。


「破断位置、固定できる?」


「五分」


とシオン。


「三分でやれ」


「無茶言うな」


「言うだけよ」


その応酬で、ようやく部屋じゃない現場にいると分かる。


ノヴァ=12だけが、足場の先で振り返っていた。

青い光が一度だけ明滅する。


> 「構造劣化を確認。

> 帰還路の再固定を推奨。

> 感覚域の回復遅延により事前検知が不足した。次回補正を試みる」


「次は先に言え」


とシオンが言う。


> 「了解」


そのやり取りが、妙に普通だった。


---


戻る路が張り直されるまで、誰も動かなかった。


リリエルはその場に座らされた。

座らされたというより、膝が勝手に折れた。


息がうまく入らない。

手の震えが止まらない。

頭ではもう大丈夫だと分かっているのに、身体の方が遅い。


母がすぐ傷を見た。


「深くはない」


短い。

でも、その短さが助かる。


ユノは何も言わず、すぐ横でしゃがんでいた。

祈るのではなく、ここにいるための沈黙だった。


そしてカイルが、真正面にいた。


しゃがんでいる。

でも近い。

近すぎるくらい近い。


「何で」


とリリエルが言いかけた。


その前に、カイルが言った。


「何をしてるんですか」


声は低かった。

叫んではいない。

でも、今までで一番怒っていた。


「窓が出たから」


「だからって落ちていい理由にはなりません」


「落ちたわけじゃ」


「落ちかけました」


そこだけ、はっきり言い切った。


リリエルは何も返せなかった。


カイルは続けた。


「あなたは、見えた時に身体が先から抜ける」


昨日までなら、こういう言い方はしなかった。

もっと遠回しで、もっと静かだったはずだ。


「それを分かっていて前へ出たなら、次は本当に落ちます」


「……ごめん」


「謝らなくていいです」


そう言ったくせに、次の声はもっと怒っていた。


「帰ってきてください」


その一言だけが、ほとんど痛かった。


「読めなくなるからとか、困るからとか、そういう意味じゃなくて」


そこで初めて、言葉が乱れた。


「そういう理由じゃなくて、帰ってきてください」


リリエルは、そこでようやくこの人の怒りの形が分かった。


責めているんじゃない。

怖かったのだ。


怖くて、怒っている。


帰る場所は減らさない。

父がそう書いた。

でも今、帰ってこいと言ったのは、父ではなかった。


シオンは戻る道を残す。

この人は、隣で背負おうとする。


違う。

でも、どちらも必要だ。


カイルが一度だけ目を閉じた。

それから、もっと低い声で言った。


「勝手に一人で遠くへ行かないでください」


その言い方が、胸のどこかへ真っ直ぐ入った。


リリエルは俯いた。


「……うん」


それしか言えなかった。


カイルはそれ以上は言わなかった。

代わりに、立ち上がる時に手を出した。


引っ張り上げるためではない。

立つ重さを半分持つための手だった。


リリエルはその手を取った。


強い。

さっき引いた時と同じ手だ。


立ち上がる。

膝がまだ怪しい。

でも、その手があると分かるだけで、変に意地を張らなくて済む。


シオンが戻ってきた。


「路、組み直した」


短い報告だった。


「これ以上、上層窓へは進まない。ここで打ち切る」


イリスが頷いた。


「異議なし」


ローデリックも短く言った。


「同じだ」


ノヴァ=12が、足場の先で一度だけ青を灯した。


> 「経路変更を承認。

> 帰還保全を優先する」


「そういうの、最初に言って」


とリリエル。


> 「次回改善する」


笑いそうになった。

でもほんの一瞬で、まだ息を大きく使う余裕はない。


---


戻り道は、行きより遅かった。


シオンが先。

命綱を張ったまま、全員の足を見て進む。

この人は本当に、帰る道を先に作る。


カイルはリリエルの左にいた。

触れたままではない。

でも、離れもしない。

重くなればすぐ持てる位置だ。


それが妙に安心で、妙に落ち着かない。


「見ないで」


とリリエル。


「何を」


「そういう確認の顔」


「確認は必要です」


「今日は多い」


「今日は多い方がいいので」


それで終わる。


でも、さっきと違う。

今のその言い方の中には、怒りの残りと、まだ消えていない怖さが入っていた。


ユノが後ろから静かに言った。


「怒られてるね」


「知ってる」


「ちょっと羨ましい」


「何で」


「ちゃんと帰ってこいって言ってくれる人がいるの、いいことだから」


その言葉に、すぐ返せなかった。

何か言いたかったが、今はやめた。


前ではシオンが、裂けた格子の前に張った新しい線をもう一度引いている。

戻る道が、本当に戻る道として残っているか、最後まで確かめるためだ。


戻る道を残す人。

隣で背負う人。


世界樹の中で、そんな違いを考える余裕がまだ自分にあるのかと思って、可笑しかった。


でも、あるのだ。


あるなら、まだ大丈夫だ。


---


点検だまりまで戻ると、ラウレンティスが壁際で待っていた。


座ったままだったが、全員の顔を見て立ち上がった。


「何があった」


母が短く報告した。

足場崩壊。命綱で保持。軽傷のみ。探索中断。


ラウレンティスはリリエルの手を見た。

擦り傷が赤く残っている。


「生きているな」


「はい」


「よろしい」


その三語が、この人らしかった。


白い通路の出口が見えた。

根元口の方から、死んだ灯りじゃない光が来ている。


カイルが念話石を鳴らした。


《探索中断。全員帰還。負傷軽微》


返答はすぐだった。


《了解。医療手配済み》


フェリクスの速さは、こういう時に一番ありがたい。


今日の探索はここで終わる。

上層の窓は見た。

ノヴァ=12は起きた。

そして、帰ってきた。


それだけで十分重い一日だった。


通路を出る直前、カイルが低く言った。


「次は」


「うん」


「怒る前に止めます」


リリエルは黙って、それから答えた。


「じゃあ、私も次は落ちる前に止まる」


「それでいいです」


今度のその声は、やっと少しだけいつものカイルに戻っていた。


でも、もう前と同じには戻らないことも分かっていた。


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