世界樹の根元
朝、母は何も言わずに紙を一枚よこした。
小さく折られた紙だった。
表に、見慣れた字でリリエルの名だけがある。
父の字だった。
三年前、白い部屋で「行きます」と言ったあと、工房と領地を離れることは何度もあった。
それでも、父がこうして手紙を寄越すことはほとんどない。
開く。
短い。
> 工房は残す。
> 棚も、畑も、帰る場所も減らさん。
> 行くなら、答えを持って帰れ。
> ——エドガル
それだけだった。
長い励ましではない。
泣けるような言葉でもない。
でも、その短さが父らしかった。
工房は残す。
帰る場所は減らさない。
だから、前へ出ろということだ。
リリエルは紙をたたんで、胸の内側へしまった。
角はもう丸くなっている。折り目の字も、最初より少しかすれていた。
それでも、もう全部覚えている。
母はその動きを見て、何も聞かなかった。
聞かないまま、机の上のノートを閉じる。
「行きましょう」
それだけで十分だった。
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三年前、白い部屋で「行きます」と言った。
そこから実際に世界樹の根元へ立つまでに、三年かかった。
遠さだけが理由ではない。
行くための条件が、多すぎたのだ。
神殿側の保全手順。
国家側の補給と外周警備。
王都技術部の計測枠改修。
遠征用の念話石の短語連絡化。
原文読み順と祈祷文の照合。
入口資格者を入れる前提での現場手順の組み直し。
一つ決まれば、一つ止まる。
一つ通れば、別の一つが引っかかる。
紙に書けば数行だ。
でも実際には、その一つずつに机があり、人がいて、待つ日があり、やり直す夜があった。
母は王都と領地を何度も往復した。
父は工房と畑を守った。
カイルは測定枠と念話石を詰め、ユノは祈祷文の照合に立ち会った。
リリエルは、その真ん中で読み続けた。
そして十九歳の春、ようやくここまで来た。
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木じゃない。少なくとも木だけじゃない。
リリエルは、世界樹を見上げて最初にそう思った。
高い、では足りない。
白い、でも足りない。
空へ伸びているのに、ただ立っている感じがしない。支柱みたいな縦線。途中で輪を噛ませたような節。樹皮に見える外殻の下へ、規則正しく走る細い継ぎ目。
世界樹の光は王都まで届いている。
中継塔も、治療棟も、あの灯列も、全部この幹から枝を借りて動いていた。
でも幹そのものは、馬車で七日かかるほど遠い場所にある。
光が届く距離と、人が歩く距離は、別なのだ。
そして王都の地下で起こした根元保全口は、ここへ接続するための遠隔確認口にすぎなかったのだと、今はっきり分かった。
あの白い階段は、この幹の応答を遠くから拾っていただけだった。
本物の入口は、ここにある。
神木と呼ばれてきたものの根元に、都市が張りついていた。
世界樹基部都市。
神殿の白い棟。
国家の灰色の庁舎。
技術部の測定塔。
そのまわりに、物資庫、宿舎、臨時工房、遠征隊の詰所、騎士団の張り綱が詰め込まれている。
そして全部を見下ろすように、世界樹の根元口がある。
礼拝地というより、港に近かった。
空へ行く船なんて見たことはない。
けれど、もしあったら、きっとこういう街が足元にできるのだろうと思わせる雑多さがある。
ここにいる人間の顔は、祈る人の顔ではなかった。
作る人、運ぶ人、測る人、守る人。そういう顔ばかりだ。
長旅の馬車を降りたあとも、足の裏にはまだ揺れが残っていた。
王都を出てから七日。
途中で二度宿を変え、三度補給を受けた。
最後の一日は、もう街道というより、世界樹へ向かうための保守路だった。
地面の下に何かが通っている気配がして、荷車の車輪まで落ち着かない音を立てていた。
だから、こうして本当に根元の前へ立っても、まだ現実味が追いついてこない。
「ひどい顔ね」
と母が言った。
「誰が?」
「あなた。見た瞬間から、頭の中で分解してる顔」
リリエルは笑った。
「だって、あれ、木じゃないよ」
「ええ」
母はあっさり頷く。
「少なくとも木だけじゃない」
その返しが嬉しかった。
横でカイルが念話石の帯を確かめている。
耳の後ろに沿う細い金具。喉元の小石。遠征用に簡略化された短語連絡具だった。
もう昔みたいな試作品ではない。工房と王都技術部が揉めながら育てた、ちゃんとした現場道具だ。
小さく鳴る。
《東門、到着》
カイルが指先で石を叩く。
《受領》
たった二語。
長く話すための道具じゃない。いま必要なことだけを飛ばすための道具だ。
「ずいぶん普通に使うようになったね」
とリリエル。
「遠征で長文は邪魔です」
「昔は夢があったのに」
「夢より通る方が大事です」
その返しも、もう完全に道具屋の顔だった。
三年前なら、こんな軽口は出なかった。
冷たいですか、震えてますか、確認です。そんな距離から始まった二人が、いつの間にか道具の話で笑い合っている。
いつそうなったのかはっきりとは覚えていない。
でも、ここまで来ていた。
「白いですね」
とユノが言った。
何のことかと思ったら、カイルの顔だった。
「寝てないんでしょ」
とリリエル。
「移動中に寝ました」
「二時間くらい?」
「三時間です」
「誇る時間じゃないよ」
ユノが笑う。
昔の見習い神官の顔はもう薄い。
けれど、こういう時の笑い方だけは、最初の夜からあまり変わっていなかった。
「ここまで来たんだね」
とユノが、世界樹を見たまま言う。
誰に向けた言葉でもなかった。
でも、その中には三年分の距離がちゃんと入っていた。
リリエルは頷く。
「うん。ようやく」
遠回りではなかった。
たぶん必要な三年だった。
でも、ようやく、だ。
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神殿の外壁沿いの通路から、見慣れた人影が集まってくる。
ラウレンティス。
イリス。
ローデリック。
シオン。
三年で変わった人と、大きくは変わらない人がいる。
ラウレンティスは白髪が増えていた。
歩き方はまだ確かだが、一歩ごとの間隔がわずかに広い。
それでも目だけは三年前と同じ鋭さで、到着した全員の顔を順に見ていた。
イリスは、ぱっと見は変わらない。
疲れた顔のまま、三年分の疲れをさらに重ねているのに、それがもうその人の普通になっている顔だった。
腰の保全鍵だけが、三年前よりよく馴染んでいる。
ローデリックも、大きくは変わらない。
ただ、言葉がさらに短くなった。
もう長く説明する必要のある相手がいないからだろう。
リリエルを見て一度だけ頷く。
それが挨拶だった。
シオンは、変わったようで変わっていなかった。
三年前は扉と人の間に立っていた。
今日は世界樹の根元口と人の間に立っている。
守る対象の規模だけが変わって、やることは同じらしい。
「全員揃ったか」
とシオンが言った。
確認であって、挨拶ではない。
でも、それがこの人の挨拶だ。
長い会議は、もうない。
ここまで来たら、説明より先に歩き出した方がいい。
リリエルは世界樹をもう一度見上げた。
木じゃない。
少なくとも木だけじゃない。
なら、その中にあるものも、神話だけでは済まないはずだ。
「行こう」
と母が言う。
カイルが金属枠を持ち直す。
ユノが原文順の紙を確かめる。
リリエルは胸の内側の紙を一度だけ押さえた。
工房は残す。
帰る場所は減らさない。
だから、前へ出る。
世界樹の根元口は、もう目の前だった。




