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行くしかない


朝、母は何も言わずに紙を一枚よこした。


小さく折られた紙だった。

領地から、朝の便で届いたらしい。

表に、見慣れた字でリリエルの名だけがある。


父の字だった。


工房の書類以外で父の字を見ることは、ほとんどない。

それが今日、手のひらの中にある。


開く。


短い。


> 工房は残す。

> 棚も、畑も、帰る場所も減らさん。

> 行くなら、答えを持って帰れ。

> ——エドガル


それだけだった。


長い励ましではない。

泣けるような言葉でもない。

でも、その短さが父らしかった。


工房は残す。

帰る場所は減らさない。

だから、前へ出ろということだ。


リリエルは紙をたたんで、胸の内側へしまった。


母はその動きを見て、何も聞かなかった。

聞かないまま、机の上のノートを閉じる。


「行きましょう」


それだけで十分だった。


---


最終判断の部屋は、昨日の討議室よりひと回り小さかった。


椅子も少ない。

机も短い。

窓は同じように細いのに、今日はそこから差す光がまっすぐだった。


ここは議論の場ではない。

決める場だ。


机につくのは、六つの立場を預かる者たちだけだった。


ラウレンティス。

ローデリック。

イリス。

技術記録側として母とカイル。

現場側としてシオン。

信仰随行としてユノ。


フェリクスは壁際に立っていた。

国家は判断者ではない。

だが、外しきれない。

昨日決めた通りの位置だった。


そして、机の外にリリエルが立つ。


判断される側。

でも、ただ待つだけの位置でもない。


窓の光が机の紙を白く照らしていた。

今日は天気がいい。

それだけのことが、妙に心強かった。


ラウレンティスが最初に言った。


「確認から入る」


母が昨日の記録を開く。

そこへ、イリスが短く足していく。


「根元保全口、第三句までで反応確認。白灯応答。オルディス名の出現。起動階梯、四段まで出現。上位経路は施錠状態」


ローデリックが続ける。


「設備側の仮説は確定でいい。世界樹は上へ接続する路だ。象徴ではなく構造だ」


ユノは、そこで一度だけ目を閉じた。

だが俯きはしない。

昨日の揺れを持ったまま、今日は机についている。


ラウレンティスが最後を引く。


「以上を前提として、実地到達が不可避かを決める」


不可避。


その言葉が机の上へ置かれた瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった。


---


最初に口を開いたのはイリスだった。


「不可避です」


速かった。

だがフェリクスの速さではない。

保全側の、削ったあとの速さだった。


「根元保全口は、もう目を覚ました。上位経路は施錠されたままでも、下位の枝線と切り離されてはいない。中継塔、治療棟、封書庫。全部に同じ幹の揺れが出ている」


「放置した場合は」


とラウレンティス。


「遅れて崩れます」


イリスは即答した。


「今日明日で全部が落ちるとは言いません。でも、補助柱の揺れ、中継塔の負荷、枝線の偏りは、もう“知らないまま回す”段階を越えた」


ローデリックが頷く。


「封じ戻すことは可能だ。だが、一時的だろう」


「どれくらい」


と母。


「分からん」


ローデリックはそう言って、迷わなかった。


「分からんが、次に起きる時は、今回より制御しづらい可能性が高い」


そこへ、フェリクスが壁際から言った。


「国家側も同意します」


ラウレンティスは止めない。


「王都設備は、すでに世界樹本線の枝先として運用されている。中継塔と分流室を見た以上、原因へ行かずに先端だけ支えるのは、いずれ限界が来ます」


速い。

だが、もう昨日までみたいに場を押す速さではなかった。

今日は机に合う速度へ合わせている。


それだけでも前進だった。


---


「異論があります」


右側の席で、老神官が口を開いた。


昨日まで、ずっと「閉じる」側にいた人だ。


「不可避だとしても、それは神殿側の判断です。入口資格がその娘にあるからといって、実地到達まで直ちに認める理由にはならない」


そこまで言って、視線がリリエルへ来る。


「代替はないのですか」


ローデリックが短く答えた。


「現時点ではない。昨日の保全口で応答したのは、この子の声だけだ」


「暫定資格持ちを入れずに、上位許可だけで開けられないのか」


「無理だ」


今度はイリスが答えた。


「昨日出たのは、保全位階だけの応答じゃない。仮位で白灯に応じた者がいたから、階梯が起きた」


言い方は淡々としている。

でも、その事実の重さは部屋の全員が知っていた。


ユノが静かに言った。


「神殿の祈祷文だけでは、そこまで行けないんですね」


誰もすぐには返さない。


代わりにラウレンティスが言った。


「祈祷文は、そこへ至るために残されたものだ。だが、それだけで最後まで届くようにはできていなかった」


その言葉で、ユノはわずかに目を伏せた。

傷ついた顔ではない。

受け取った顔だった。


---


「行くかどうかは、まだ決まっていません」


カイルが言った。


全員がそちらを見る。


フェリクスが何か言いかけたが、それより先にカイルは続けた。


「不可避かどうかの判断と、本人が行くかどうかの判断は別です」


部屋が静まった。


その静けさの中で、リリエルは息を詰めた。


昨日もそうだった。

この人は、必要な時だけ一歩前に出る。

出る時は、ちゃんと止める。


ラウレンティスが目を細めた。


「その通りだ」


短い承認だった。


「ここで決めるのは、世界樹へ至る必要があるかどうかだ。行く人間をどう扱うかは、その後だ」


フェリクスは黙った。

反論しなかった。

速い人間が止まるべき場所を理解している顔だった。


母はペンを置いて、初めてリリエルを見た。


「必要はある」


それだけ言う。


押さない。

でも、逃がさない言い方だった。


「その上で、あとはあなたが決めることよ」


胸の内側の紙が、ほんの少し重くなった。

父の短い字。

工房は残す。

帰る場所は減らさない。


だから前へ出ろ、だ。


---


ラウレンティスが結論を置いた。


「世界樹への実地到達は、不可避と判断する」


誰も異議を挟まなかった。


紙に一行が足される。

インクの音が小さく響いた。


不可避。


それで、次の段階が来る。


ラウレンティスは、今度はまっすぐリリエルを見た。


「ここから先は、君の答えだ」


誰も急かさなかった。

この部屋にいる全員が、その沈黙の意味を知っていた。


誰も助けてはくれない。

助けないのではない。

ここは自分で言うしかない場所なのだ。


リリエルは一度だけ、机ではなく窓を見た。


最初の祠から昨日の白い階段まで。

全部がもう一本の線になっていた。


怖い。


本当に。


でも、昨日よりはっきり分かる。

怖いからやめる段階は、もう越えている。


「行きます」


自分の声が、思ったより静かに出た。


でも、机の端までちゃんと届いた。


「世界樹へ行きます」


それから、もう一つ息を吸った。


「神殿のものとしては行きません。国家のものとしても行きません。工房の名前も背負います。でも、それだけでも行きません」


老神官が眉をわずかに動かした。

フェリクスが目を上げた。

ユノは、息を止めている。


「保つために読む人として行きます」


あの討議の日に置いた言葉が、今日はさらに先まで届いた気がした。


「壊すためには使いません。隠すためにも使いません。戻すために、行きます」


部屋が静かになった。


静かなまま、ラウレンティスが頷いた。


「よろしい」


その一言は、許可というより確認だった。

必要な位置に、必要な言葉が置かれた、という確認だ。


イリスが息を吐いた。


ローデリックはすでに次の許可手順を頭の中へ並べている顔をしていた。


シオンは、ただ一度だけ顎を引いた。

了承ではない。

現場が引き受けた、という意味の動きだった。


ユノが小さく言った。


「僕も行きます」


「知ってる」


とリリエル。


ユノは少しだけ笑った。


「そうだろうね」


その笑いは弱くなかった。

揺れたまま、それでも自分の場所へ戻ってきた人の笑いだった。


祈りの柱の中に階段があった。

でもユノは、それを壊れたとは言わなかった。

少なくとも、逃げてはいなかった。

それで十分だった。


---


「国家側は」


とフェリクス。


今度は、速さを抑えている。


「同行はしません。条件紙の通り、次段階までは外で支えます」


「賢明ね」


とイリス。


「珍しく」


「やめてください」


でも、本気では嫌がっていなかった。


「ただし、要約記録は即日でください。こちらも準備を進めます」


「速い」


とリリエル。


「必要なので」


「知ってる」


今度は、笑って言えた。


カイルは何も言わなかった。

でも、リリエルが答えたあとに、わずかに肩の力が落ちたのが見えた。


その変化が見えるくらいには、もう近い。


---


最後に、ラウレンティスが机の紙を閉じた。


「次の段階へ移る」


声は低い。

だが、その低さの中にもう迷いはなかった。


「世界樹への条件付き通行を、正式に準備する」


それで決まった。


「行くしかない」は、もう感想ではない。

手順になった。


椅子が引かれる。

紙が束ねられる。

窓の光が角度を変えた。


リリエルは、その場ですぐには動けなかった。


世界樹へ行く。

原文の先へ。

前世の白い文字の先へ。


工房の娘として。

王都の机に名前を残した技師として。

そして、保つために読む人として。


怖い。


でも、それと同じだけ、見たい。


カイルが、横で布箱を持ち直した。


「立てますか」


「何それ」


「確認です」


「立てるよ」


「そうですか」


それだけだ。

でも、その確認が可笑しくて、助かった。


リリエルは立ち上がった。


胸の内側の紙が、まだそこにある。

父の短い字。

帰る場所は減らさない。


なら、行ける。


部屋を出る前に、リリエルは一度だけ振り返った。

部屋にいる全員の顔を、一度だけ見た。


全員が同じ方向を向いているわけではない。

でも、もう同じ段へ足をかけ始めている。


それで十分だった。


廊下へ出た。

王都の光はまだ明るい。

その下で、何本もの線が祈りの名のまま走っている。


でももう、こちらはその根元を知っている。


世界樹へ行く。


その言葉は、ようやく自分の中でも揺れなくなっていた。


窓の向こうに、鳥が一羽飛んでいた。

高い。

白い。

あの階段の上にも、きっとあんなふうに開けた場所がある。


まだ見えない。


でも、もう向かうと決めた。




第三章 完


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