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失われた原文


原文を読む部屋は、封書庫の地下よりさらに静かだった。


静か、というより、音を置いていけない部屋だった。


壁は白い。

机は低い。

灯りは必要な分しかない。

紙の擦れる音まで大きく聞こえる。


机の中央には、二枚の透明板に挟まれた薄片が置かれていた。


紙ではない。

石でもない。

昨日見た世界樹関連文書の薄板より、さらに古く、さらに不安な形をしている。

割れてはいない。

だが、欠けている。

端が少しずつ失われたまま、それでも残るべきところだけが、執念みたいにしがみついていた。


ラウレンティスが言う。


「写しは取らない。こすりも取らない。読むのはこの場だけ」


「記録は?」


と母。


「読後に書け」


「厳しい条件ですね」


「だからここまで残った」


即答だった。


フェリクスは部屋の外で待つはずだった。

だが、ラウレンティスが扉の前で一度だけ振り返り、「壁から動くな」とだけ言った。

条件付きの同席だった。


その声のあとで、扉がもう一度だけ開いた。


入ってきたのはユノだった。


六年前の夜が、一瞬だけ戻った。

祈りの声。

届かなかった灯り。

そのあとの、短い沈黙。

あれから六年分の顔が、いま目の前に立っている。


見習い神官の面影は、もうだいぶ薄くなっていた。

背は伸びている。

頬の線も大人になった。

神官服の帯色も、村にいた頃のものより一段深い。


けれど、部屋へ入って最初にリリエルを見た時の目だけは、あの夜と少し似ていた。


驚いて、でも声を大きくしない目だ。


「……来てたんだ」


とリリエル。


「呼ばれました」


とユノ。


その返しのあと、困ったみたいに笑う。


「僕がいちばん今の祈祷文を知っていて、なおかつ、あの村の最初の灯りも知っているからだそうです」


ラウレンティスが言う。


「信仰側の耳が必要だ」


ユノは頷いたが、その頷きは硬かった。

来たくて来たのではない。

でも、来る役目を断れない人の頷きだった。


---


イリスが透明板の留め具を外す。


完全には開かない。

片側だけ、ごくわずかに持ち上がる。

それでも、光の角度が変わるだけで、刻まれた線が一段見えやすくなった。


最初に見えるのは、文字ではなかった。


線。

点。

短い区切り。

息継ぎの印みたいなもの。

読むための文、というより、声に出すための並びだ。


リリエルの視界の奥へ、白い文字が落ちる。


> `ORIGINAL PHONETIC SEQUENCE`

> `VOICE-KEY FORMAT DETECTED`


喉が詰まる。


「また出た?」


と母。


「うん」


「今度は」


「音の並び。……声で使う形」


ユノがわずかに顔を上げた。


「祈り、ですか」


リリエルはすぐには頷かなかった。


「祈り、っていうより」


薄片を見る。


「声で動かすための文」


部屋が静まる。


カイルの筆が止まっていた。

技師として、声で設備を動かす手順は知っている。

だが、それが神殿の祈りの元だったとは、さすがに想定の外だったらしい。


ラウレンティスが低く言う。


「読めるところから読め」


リリエルは息を整えた。


刻みは崩れている。

でも、神託写しや石板より、かえって迷いが少ない。

後から足された敬語も、美しい言い換えも、ここにはまだ薄い。


「……根元口に立つ者は、上灯を背にし、輪列の静止を確かめよ」


ユノの指が、膝の上で止まる。


「それ」


と彼が言う。


「今の朝祷文の最初の句に、似ています」


「似てる、じゃなくて元だと思う」


とリリエル。


そのまま、次を追う。


「枝線の封を改むる時は、上位灯認を待て。待機輪が沈む前に、側路へ手を入れるな」


ローデリックが短く言う。


「手順だな」


「うん」


とリリエル。


「しかも、ただの記録文じゃない。声で順番を揃える文」


イリスが細く息を吐く。


「だから祈祷文に化けたのね」


その言い方には、諦めと納得が半分ずつ入っていた。


美しい祈りだから残ったのではない。

声に出して使う必要があったから、祈りの形で残ったのだ。


ユノが薄片を見ている。


さっきから、瞬きを忘れている顔だった。


「僕たちは」


と彼が言いかけて、止まる。


「……ずっと、これを唱えていた?」


ラウレンティスはすぐには答えなかった。


代わりに、リリエルが次を読む。


「輪列応答なき時は、仮位を用いて記録庫へ接げ。白灯が応じたなら、これを残せ」


そこで、声が止まる。


仮位。


視界の奥の白い文字が、一気に近くなる。


> `PROVISIONAL CLASS ACCEPTED`

> `RECORD IF WHITE BEACON RESPONDS`


背中が冷える。


あの夜の記憶が、そのまま戻ってきた。


村の結界灯。

初めて落ちてきた白い文字。

`AUTH: PARTIAL MATCH`

`USER PROFILE: INCOMPLETE`


あれと同じ匂いだった。


「どうしたの」


と母。


リリエルは薄片から目を離さないまま言った。


「ここ……仮登録の話だ」


ユノが息を呑む。


「仮位」


彼の声は、掠れていた。


「今の祈祷書だと、そこは“未だ満ちぬ者にも、灯りは慈悲を落とす”になっています」


誰もすぐには喋らなかった。


未だ満ちぬ者。

慈悲。

灯り。


神官が聞けば、そういう言葉へ直したくなる。

でも元の薄片にあるのは違う。


仮位。

白灯応答。

記録を残せ。


神ではない。

だが、ただの事務文でもない。

仕様を人に使わせるための、声の文だ。


「祈りでもない」


とリリエル。


「でも、ただの事務文でもない」


ローデリックが頷く。


「声で開く鍵だな」


「鍵であり、手順であり、現場で使う言葉だ」


とイリス。


「だから全部を祈りと言い切るのも、全部を事務文と言い切るのも違う」


ラウレンティスは黙って聞いていた。

その黙り方は、否定の黙りではない。

いまはまだ、こちらに読ませる黙りだった。


ユノが、ようやく椅子の背へ寄りかかった。


その顔色が、さっきより白い。


「僕は」


と、ゆっくり言う。


「意味があると思っていました」


誰も茶化さない。

そんな空気ではない。


「もちろん、今でも意味がないとは思いません。でも……」


視線が薄片へ落ちる。


「神に届く言葉だと思っていたものが、誰かが灯りを動かすための順番でもあったなんて」


そこで止まる。

続きが、すぐには出てこない。


信仰が壊れた、という顔ではなかった。

もっと複雑な揺れ方だ。

立っている床の下が、自分の知らない材でできていたと知った人の顔だった。


リリエルは、そこで初めてユノを見た。


「……ごめん」


とリリエルは言った。


ユノはすぐに首を振る。


「違う」


その声は弱くない。

弱くないが、揺れている。


「君が悪いんじゃない。たぶん、知らないまま唱えていた僕の方が、いま遅れてるだけだ」


ラウレンティスがそこで初めて口を開く。


「遅れているのではない」


全員がそちらを見る。


「そこへ着いたのだ」


短い。

だが、その短さで十分だった。


信仰を捨てろと言う人の声ではない。

知らなかった層へ降りた人間に対して、それでも立てと言う声だった。


ラウレンティスは薄片の中央を指す。


「続けろ」


リリエルは頷いた。


次の行は、さらに欠けていた。

でも欠けているのに、いちばん冷たいところだけが残っている。


「……上位継承なき者、昇路の奥へ入ることなかれ」


部屋が静まる。


「その先は」


とローデリック。


リリエルは目を凝らした。


白い文字が、今度はゆっくり落ちる。


> `UNAUTHORIZED ASCENT PROHIBITED`

> `EXCEPTION: PROVISIONAL RESPONSE HOLDER`


世界が一拍だけ、止まった。


「例外がある」


「何」


とイリス。


リリエルは喉を一度鳴らしてから言った。


「“仮位で白灯に応じた者に限り、入口まで可”」


その瞬間、部屋の中の全員の視線が、一度にリリエルへ集まった。


何を意味しているか、痛いくらい伝わってきた。


村の結界灯。

白灯応答。

仮位。

不完全な認証。


全部が、いま薄片の上で繋がった。


誰も、すぐには喋らなかった。


塔の設備も、封書庫の鏡も、治療棟の灯柱も、ここから見れば全部手前だった。薄片の上の言葉は、その全部を通り越して、リリエルの足元まで来ていた。


「……だから」


とラウレンティスが言う。


「君を放置できない」


その言葉は責めではなかった。

事実だった。


「神殿のためでもある。王都のためでもある。だが、それだけではない」


ラウレンティスの目が、初めて疲れを超えて、重くなる。


「この先へ入れる可能性がある人間を、知らぬ顔で外へ置いておくほど、私は甘くない」


リリエルは何も言えなかった。


読める、ではなく、入れる可能性がある。


それは昨日までの重さとは違った。

もっと具体的で、もっと逃げにくい重さだ。


ローデリックが低く言う。


「条件付き通行か」


「まだ条件にも至らん」


とラウレンティス。


「だが、入口の資格は見えた」


イリスがようやく息を吐いた。


「……厄介な断片ね」


「ええ」


とラウレンティス。


「だから、ここで止められてきた」


ユノがそこで、ゆっくり顔を上げた。


「大司教」


「何だ」


「僕も、次を見ます」


部屋が静まる。


ユノの声は震えていた。

でも、それでも前へ出る時の震えだった。


「信じていた言葉が何だったのか、最後まで見ないと、たぶん戻れません」


ラウレンティスは長くは見なかった。

一拍だけ見て、頷く。


「そうだろうな」


許可、というより確認だった。


フェリクスは壁から動かないまま、何も言わなかった。

国家の順番ではないと、もう分かっている顔だった。


母のペンが、ようやく動く。

カイルは静かに帳面へ線を一本引く。

ローデリックは窓の外を見た。

イリスは薄片の留め具へそっと手を置く。


リリエルは、まだ薄片を見ていた。


祈りでもない。

事務文でもない。

声で鍵を回し、人に手順を渡し、崩れないように使われてきた文。


その原文は、自分の足元まで来ていた。


明日は、もっと先だ。


失われた原文は、ただ古いだけではなかった。

それは、いまの自分へ繋がる入口でもあった。


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