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公開討議


討議の場は、礼拝堂ではなかった。


それだけで、少しだけ救われる気がした。


高い天井。

長い机。

白い壁。

窓は細く、光は斜めに落ちる。

祈るための部屋ではなく、決めるための部屋だった。


神殿はこういう時、最初に形を作る。

誰がどこへ座るか。

誰が先に話すか。

誰が記録を取るか。

どこまでを内側とし、どこからを外とみなすか。


その形があるだけで、人は崩れにくくなる。

ラウレンティスの言っていたことを、リリエルは部屋へ入る前から思い出していた。


机は三つの列に分かれていた。


中央。神殿本流。保全記録を預かる者、祈祷文を扱う者、現場治療を束ねる者、封書庫の鍵を持つ者。その中央寄りにラウレンティスが座る。


右。封印と秘匿を優先する側。年嵩の神官が多い。顔つきが硬い。「開けるな」より先に「残せ」と言いそうな人間たちだ。


左。現場と運用に近い側。治療棟、補助柱、灯列、連絡塔、神殿騎士。イリスはこちらへ近い位置を取った。ローデリックはさらに外。神殿の席ではないが、外しきれない位置だった。


国家側は、完全には中へ入っていない。


フェリクスは壁際。

ラウレンティスは、フェリクスの位置を一度だけ確かめて、何も言わなかった。黙認だった。


座れと言われれば座るだろう。

だが、自分から椅子を引く人ではない。

呼ばれたら入る。

呼ばれないうちは、全部を見る位置にいる。

そういう立ち方だった。


リリエルは、最初に迷った。


どこに座るのか。


神殿でもない。

国家でもない。

ただの来訪者とも、もう言い切れない。


その時、ラウレンティスが短く言った。


「中央に」


一瞬、誰に向けた言葉か分からなかった。


「君だ」


視線が来る。


「今ここで争点になっているのは、君が読めることそのものだからな」


身の蓋もない言い方だった。

でも正しい。


リリエルは小さく息を吸って、中央机の端へ座った。

ラウレンティスは何も言わなかった。端でも中央でも、机に着いたこと自体が意味を持つのだろう。


その右斜め後ろへ、母が立つ。

その左にカイルが立った。


それが、意外だった。


神殿側でも国家側でもなく、母とカイルが自然に自分の後ろへ来る。

それだけで、背中の形がひとつ決まる感じがした。


カイルが小さく言う。


「手が冷えています」


「分かるの」


「近いので」


それだけ言って、布箱を机の脚の内側へ寄せた。

討議の場で転がらない位置へ、何も言わずに置き直す。

そういうところが、やっぱりこの人らしかった。


---


記録係が座り、討議の板が机に置かれる。


最初に口を開いたのは、右列の老神官だった。


「大司教。確認します」


声は乾いていた。

怒っているというより、怒る前に順番を通す人間の声だ。


「原文断片への再接続、上層鏡の再起動、中継塔上層板への照合、治療棟補助柱の揺れ。ここ数日の件は、どれも通常手順を外れています」


「そうだ」


とラウレンティス。


「その上で?」


「その上で、ここにいる」


老神官は目を細めた。


「異議があります。少なくとも、外の人間をここまで入れる速度が早すぎる」


そこで、視線がリリエルに来る。

フェリクスにも、カイルにも、ローデリックにも来た。

だが最後に止まるのは、やはりリリエルだ。


「原文断片が“読める”という一点だけで、ここまで中枢へ入れるのは危険です」


「一点だけではない」


とイリスが言う。


「治療棟補助柱、中継塔上層板、地下封書庫記録、全部が接続してる」


「だからこそ危険だ」


老神官はすぐ返した。


「接続しているならなおさら、外へ出す前に閉じるべきだ」


今度は左列の治療棟側の神官が口を開く。


「閉じて済んだなら、治療棟は揺れていません」


右列が動く。

空気が、目に見えないくらいわずかに張る。


現場と封印。

保全と秘匿。

神殿の中だけで、もう綱引きは始まっていた。


ラウレンティスは止めない。

最初から止める気もないのだろう。

言わせるべきところまで言わせてから、線を引く人の沈黙だった。


---


次に立ったのは、中年の女神官だった。


治療棟側の衣の上に、記録官の帯色をつけている。

現場と文書の両方を渡る人間らしかった。


「私たちは、原文が祈りではないと言われること自体を恐れているのではありません」


その言い方は静かだった。

だが、静かな人の方がこういう場では怖いことがある。


「恐れているのは、“だから今の祈祷文は偽物だ”という短い理解です」


その一言で、机の上の空気が締まる。


リリエルは息を止めた。

それは、たしかに起こりうる短絡だった。


女神官は続ける。


「治療棟で人を支えている言葉は、原文の用途を知らずとも、現場で人を崩さない形として機能してきました。それを、仕様だ、誤読だ、古い運用だ、という一段低い言葉だけに落とした時、現場は何で待てばいいのですか」


誰もすぐには答えなかった。


“何で待てばいいのか”。


それは、治療棟で見たものの核心だった。


ローデリックが低く言う。


「祈りが人を支えていること自体は否定しない」


「だが?」


と女神官。


「だが、その下で何が動いているかを見ないままでは、もう支えきれないところまで来た」


ローデリックの返しは短かった。

短いが、逃げがない。


女神官は頷かなかった。

だが、否定もしなかった。


この人の名前を、まだ知らない。

でも、たぶんまた会うことになる気がした。


---


そこへ、別の声が入った。


「だからこそ、順番がいるのです」


ラウレンティスだった。


討議が始まってから、まだ一度も長くは喋っていない。

だが、この人が声を入れると、全員が座り直す。


「いま争っているのは真偽ではない」


そう言って、机の中央を見渡す。


「原文が何であったか。神託文の下に何があるか。世界樹が何の名で残っているか。それ自体は、もはや隠しきれんところまで来ている」


右列が硬くなる。

左列は逆に、まだ黙っている。


「争っているのは、出し方だ」


その一言で、討議の形が変わった。


封印か、開示か。

善か、悪か。

そういう粗い対立から、一段細くなる。


ラウレンティスは続ける。


「未整理のまま出せば、現場が崩れる。隠したままにすれば、今度は設備と運用が先に崩れる」


そして、リリエルを見る。


「だから、読む人間の立ち位置が必要になる」


この討議の中心が自分に来たと、ようやくはっきり分かった。


背中が冷たくなる。

だが、その冷たさの外側に、母とカイルがいる。


母は何も言わない。

カイルも何も言わない。

でも、その無言が“勝手に一人で立て”ではないことだけは、分かった。


---


右列の老神官が言う。


「では問います。その娘は、どちら側で読むのですか」


どちら側。


暴く側か。

支える側か。


昨日、ラウレンティスに問われた言葉が、そのまま机の上へ出てきた。


リリエルは息を吸った。


「壊すためには読みません」


自分の声が、思ったより静かに出た。


「でも、隠すためにも読みません」


部屋が静まる。


これは、たぶん一番危ない答えだ。

どちら側にも完全には寄らない。

だからこそ、両方から疎まれやすい。


老神官の目が細くなる。


「では、何のために読む」


「保つために」


とリリエルは言った。


一拍遅れて、自分の中へその言葉が落ちる。

昨日までは“支える側として読む”だった。

今日はもう少し、自分の言葉になっていた。


「壊れないように読む。人も、設備も、今ある形も、まとめて」


左列の治療棟側が、わずかに動く。

右列はまだ硬い。


「祈りを嘘だと言って切るためには読まない。でも、祈りの下にあるものを見ないまま、上塗りだけを続けるためにも読みません」


そこまで言って、机の木目を一度だけ見た。

大丈夫だと思っても、心臓は速い。


「だから、どっちかだけ守る読み方はしない」


それが、自分にいま言えるぎりぎりだった。


右列の老神官が、初めて言葉に詰まる。

完全に納得した顔ではない。

でも、最初に想定していた“危ない子ども”だけではないと分かった顔だった。


そこで、ユノが立った。


全員の視線がそちらへ行く。


まだ若い。

帯色も、この場の中では深くない。

それでも彼は立った。


「僕も」


と言って、一度だけ喉を鳴らす。


「信仰側の耳として、言います」


声は揺れていた。

でも、揺れたまま逃げない時の声だった。


「祈祷文が元の用途を持っていたことは、もう否定できません。けれど、だから今の祈りが空だとも言えません」


ユノは、机の上ではなく、少しだけ宙を見る。


「僕たちは、知らないまま唱えてきたのかもしれない。けれど、知らないままでも、人を持たせてきたことまで消えるわけじゃない」


その言葉に、左列の数人がわずかに頷いた。


ユノは続ける。


「だから必要なのは、“偽物だった”という切り方じゃなくて、“何を支えていたのか”まで含めて読み直すことだと思います」


それは、信仰を捨てた人間の言葉ではなかった。

揺れたまま、捨てずに持ち直そうとする人間の言葉だった。


リリエルは、胸の奥の力が抜けるのを感じた。


---


フェリクスが壁際から口を開く。


「国家側としては」


またその速い切り方だ、と思う。


「王都設備と世界樹本線の接続が見えた以上、放置はできません。出し方を議論している間に、設備側の事故が進めば意味がない」


右列が動く。

だが、フェリクスは止まらない。


「ですから、神殿内の文言整理と並行して、国家側では運用上の分離手順を――」


「急ぎすぎだ」


とカイルが切った。


意外だった。

この人が討議の途中で、人の言葉をまっすぐ切るのは珍しい。


「分離できると決めた前提で話している」


フェリクスが振り向く。


「決めてはいません。準備です」


「その準備が、現場では決定に近く見える」


カイルの声は高くない。

でも、はっきりしていた。


「まだ見えていない線がある。まだ“切ったらどう落ちるか”が分かっていない。今その段階で分離手順を先に置くと、人はそこへ寄って読む」


フェリクスは一拍黙る。


それから、目を細めた。


「あなたは本当に急がせない」


「壊したくないので」


「遅れた結果、壊れることもあります」


「早めた結果、戻せなくなることもあります」


その応酬は短かった。

だが、この部屋の中で、一番“今の綱引き”を分かりやすく見せるやり取りだった。


速いが危うい。

遅いが信用できる。

塔の分流室で見えた対比が、今度は神殿の机の上へそのまま乗っていた。


シオンは左列の最後列にいた。

一度も口を開かない。

だが、治療棟の話が出るたびに、顎がわずかに動く。

聞いていないのではない。

言う場所を選んでいるだけだった。


ラウレンティスが低く言う。


「両方必要だ」


フェリクスも、カイルも、そこで止まる。


「国家の速さがなければ、設備側の現実は遅れる。技師の遅さがなければ、壊れる順番を誤る」


その言い方には、片方だけを褒める軽さがなかった。

必要な厄介さを、両方とも引き受ける人の声だった。


---


討議は長く続いた。


封印派は、「入口資格」が見えた時点で人を遠ざけるべきだと言った。

現場側は、治療棟と灯列と中継塔を先に守る手順が要ると言った。

記録側は、読む順番と残す語を間違えるなと言った。

国家側は、運用と事故の速度を持ち出した。


その全部が、少しずつ正しかった。


完全な悪役がいない討議は、疲れる。

誰も雑に切れないからだ。


でも、その疲れ方が、この部屋には必要なのだとも思った。


最後にラウレンティスが立つ。


立っただけで、部屋の線が揃う。

そういう人だった。


「結論を出す」


全員が黙る。


「リリエル・アストラは、原文断片の読解に引き続き立ち会う」


右列が動く。

だが止めない。


「ただし、“神殿を暴く者”としてではなく、“神殿が何を残してきたかを読む者”として扱う」


イリスが頷く。

母はすぐ書く。

ユノは息を吐いた。


「国家側は次段階の討議に直接は入れない」


フェリクスが何か言いかけるより先に、ラウレンティスが続ける。


「だが記録は共有する。外に置きすぎても遅れるからだ」


それで、フェリクスは黙った。

不満はある。

だが、完全に外されてはいない。

その線引きを、この人は理解する。


「現場側は、治療棟と補助柱と灯列の揺れを継続監視。技術側は切り分けより先に、連動域の確認を優先」


ローデリックとカイルが、それぞれ短く頷く。


「信仰側の随行として、ユノを引き続きつける」


ユノが一瞬だけ目を伏せた。

それから、静かに頷いた。


「そして」


ラウレンティスの目が、もう一度リリエルへ来る。


「次段階で、世界樹へ行かねばならぬ可能性を前提に動く」


その一言で、机の上の空気が静かに変わった。


まだ決定ではない。

だが、もう候補ではない。

“行くしかないかもしれない”が、神殿の中枢の言葉として、初めて机の上へ置かれた。


リリエルは、その重さを遅れて受け取った。


世界樹へ行く。

神話の中心へ。

原文の先へ。

そしてたぶん、自分の前世の文字の先へ。


でもその瞬間、後ろに立つカイルの気配が、昨日より近く感じた。


急がせない人が、逃がさない位置にいる。


振り返らなかった。

でも分かった。


それで今は、十分だった。


ラウレンティスが最後に言う。


「今日はここまでだ」


討議板が閉じられる。

椅子が引かれる。

記録係が紙を束ねる。


部屋を出る直前、ユノが小さく言った。


「……怖いね」


誰にともなく聞こえる声だった。


リリエルは考えてから答えた。


「うん」


それから、もう一言足した。


「でも、ここまで来たなら、最後まで見ないともっと怖い」


ユノは、それに笑った。

弱い笑いではなかった。


廊下へ出る。

夕方の光は、もう細くなっていた。

王都の屋根の下で、何本もの線がまだ祈りの名のまま走っている。


でももう、次の段階は決まった。


世界樹へ行くしかない。

その言葉が、まだ決定ではない形で、それでも神殿の机の上へ置かれたのだ。


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