表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

45/56

カイルは、急がせない


塔を下りる足音は、上る時より重かった。


ただの石の階段なのに、もう別の意味がついている。

いま踏んでいるこの床も、どこかで同じ線の上に乗っているのではないか。そう思うと、靴裏の感覚まで変わった。


「止まらないでください」


とカイルが言った。


「止まってないよ」


「顔が止まっています」


「考えてるだけ」


「考えながら段差を踏み外すと、考える量が減ります」


「……それは脅し?」


「実務です」


その返しがいつも通りで、息が一枚戻る。


カイルは布箱の紐を確かめていた。急ぎの階段でも、確認を飛ばさない。それがかすかに安心する。


塔の下層へ戻る途中、フェリクスは一度も前へ出なかった。

それが逆に落ち着かなかった。


速い人は、前へ出ると分かりやすい。

だがこの人は、引いたまま速い。

必要ならすぐ入れる位置で、黙って全部を見ている。


最下の一つ手前の踊り場で、ローデリックが立ち止まった。


「こっちだ」


案内されたのは、塔の表の管理室ではなかった。係官のいる机も、通行札の棚も通り過ぎる。さらに奥。壁の灯りが一段だけ弱くなった先に、細い鉄扉があった。


イリスが顔をしかめる。


「こんなところまで国家側に開けるの」


「今日は神殿も一緒だ」


とローデリック。


「嫌なら戻れ」


「戻らないわよ」


その返しが早い。

この二人もまた、噛み合わないようでいて、進む時の順番は同じだった。


扉の向こうは、狭い部屋だった。


棚。帳面。巻いた紙。木箱。

そして、壁一面に描かれた線。


王都の地図ではない。

少なくとも、普通の人間が見る地図ではなかった。


街路ではなく、流れが描いてある。


塔から出る線。塔へ入る線。治療棟。東門。西倉。旧水路沿い。工房区画。王城下層。


文字は王都の書式だ。

だが並んでいるものは、王都の生活そのものだった。


「ここ、居心地悪いね」


とリリエルが言う。


フェリクスが初めてすぐ返した。


「私は好きです」


「知ってる」


「見ただけで?」


「こういうの好きそうな顔してる」


フェリクスはわずかに笑った。


「観察が速いですね」


「そっちほどじゃない」


カイルが一つ息をついた。

止める気はないが、あまり長引かせたくない時の間だった。


ローデリックは壁の図を見たまま言う。


「ここが塔の基部だ」


「基部?」


とリリエル。


「地面とほぼ同じ高さ。ここから下へ線を落としている」


「配線、って言うの?」


「塔の人間はそう言わない。分流室、が正式よ」


とイリス。


「でも、配線の方が近いわね」


母はもう机の帳面へ手を伸ばしていた。

開く。めくる。止まる。

今日も動きに無駄がない。


「年次整備記録。線の切り替え。支障報告。停滞域の苦情まである」


「苦情?」


とリリエル。


「人が使っているものには、だいたいあるわ」


それは嬉しかった。

世界樹だの上昇保全路だのと大きい名前が続いたあとで、苦情という言葉だけ妙に人間の背丈へ戻ってくるからだ。


フェリクスがもう一冊の帳面を開いている。


「三年前の夏に東区で一斉遅延。二年前の冬に治療棟で補助線の不安定化。昨年、王城下層で夜間の灯列落ち」


「読むの早すぎる」


とリリエル。


「これは今朝読んだ記録の裏付けです」


つまり、もう来る前に頭に入っていたのだ。

この人の速さは、その場で拾うのではなく、事前に全部済ませておく速さらしい。


カイルはそのあいだ、壁の線を見ていた。

帳面ではない。

図の方だ。


それが意外で、リリエルはそちらを見た。


「読まないの」


「先に線です」


「なんで」


「帳面は人が書きます」


カイルは壁から目を離さなかった。


「図も人が引きますが、帳面よりはまだ嘘が少ない」


その一言で、フェリクスがかすかに顔を上げる。


「技師らしいですね」


「国家側の読み方とは違うだけです」


「国家側は結果から入ります」


「だから速い」


「困りますか」


「壊れる時に困ります」


その返しは、静かだった。

静かなのに、強かった。


リリエルはその二人を見た。


フェリクスは、次に変わる場所を先に見ている。

カイルは、壊れる場所を先に見ている。


どちらも正しい。

でも、同じ速さでは進まない。


ローデリックが言う。


「話す前に、板を見る」


分流室の中央机に、小さな板が置かれていた。

上層の三枚ほど立派ではない。もっと実務用の顔だ。薄い。四角い。角の摩耗が多い。誰かが日常的に使っている形だった。


「これも拾うの?」


とリリエル。


「ここは拾う側ではない」


とイリス。


「落とす側よ」


その言い方で、背中が冷える。


上から来る線を、上層板が拾う。

そしてここで落とす。

王都の各所へ配るために。


つまり、ここは王都の中でいちばん人間に近い場所だ。


ローデリックが右手をかざす。

短い照合。昨日の上層と同じだが、もっと弱い。白い線が板の下を走り、今度は左隅だけが淡く起きた。


視界の奥に文字が落ちる。


> `LOWER DISTRIBUTION NODE`

> `CITY BRANCH CONTROL`


「配るところだ」


とリリエル。


「そう」


とローデリック。


「上で拾い、下で分ける」


「王都って、ほんとに乗ってるだけなんだ」


フェリクスがその言葉を拾う。


「乗っている、では軽いですね」


「何」


「支えられている、の方が近い」


イリスが声を落とした。


「依存、と昨日言ったはずよ」


「国家側は、その語をすぐ外へ出したくない」


フェリクスは平然と答えた。


「言葉は順番で効き方が変わります」


「厄介な人」


とリリエル。


「たまに言われます」


「たまにじゃないでしょ」


空気がわずかに緩む。

だが緩んだのは表面だけで、机の上の白はずっと細く立っていた。


カイルがようやく板のそばへ寄る。


「東区、治療棟、城下、倉区画……」


指では触らない。

目でなぞる。


「分配が均一じゃない」


「分かるの?」


とリリエル。


「帳面と合いません」


母がすぐ帳面を一冊差し出す。

もうそこを開いていたらしい。


「去年の夜間記録。東区の遅延と治療棟の揺れが同じ夜に重なってる」


カイルが頷く。


「やはり」


「何」


「王都側で均一に分けていない」


フェリクスがそこで初めて、眉をわずかに動かした。


「それは」


「優先をつけている、ということです」


カイルの声は低いままだった。


「治療棟を落とさないために、別のどこかを薄くしている」


部屋が静かになる。


王都は枝先だ。

その枝先で、人がどこへ多く流すかを決めている。

つまり、祈りや制度や善意だけではなく、配分の現実がある。


リリエルは板の左下を見た。

白い線が、そこで擦れている。

上層の綺麗さとは違う。

使っているうちに生まれた癖みたいなものだ。


「ここ」


とリリエル。


「治療棟へ落とす線、太い」


ローデリックが頷く。


「当然だ」


「じゃあ、神殿は知ってるんだ」


「知っている」


今度はイリスが答えた。


「治療棟を落とさないために、どこかが遅れることは」


「言わないけど」


「言えば揉めるもの」


否定しにくい話だった。


フェリクスが壁の図を見たまま言う。


「国家も知っています」


「どこまで?」


と母。


「記録としては、支障と調整まで」


フェリクスはそこで一瞬だけ間を置いた。


「ですが、“上から来る線を分けているだけだ”という理解では、まだ残っていません」


そこまで言うと、さすがに静かになった。

この人も、全部を一息で外へ出すわけではないらしい。


リリエルは板を見た。


上から来る。

下で分ける。

誰かが配分を決める。

治療棟は厚く。どこかは薄く。

王都はその上で何年も回ってきた。


「カイル」


とリリエル。


「はい」


「あなた、昨日からずっと急がせないね」


本人もわずかに意外そうな顔で、こちらを見た。


「急がせる理由がないので」


「フェリクスは、ずっと急いでる」


フェリクスが口を挟む。


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてない」


「知っています」


カイルは板から目を離した。


「急いでいる人が悪いわけではありません」


「悪いとは言ってない」


「ただ」


そこで言葉を選ぶ。


この人が選ぶ時は、本当に要る時だ。


「いまの段階で先に結論を出すと、王都がどこを切ればどこが止まるかまで、早く決めすぎることになる」


フェリクスが黙る。


反論しなかった。

反論できないのか、しないのかは分からない。

でも、この沈黙は重かった。


カイルは続ける。


「まだ分かっていない線がある。まだ見えていない支え方がある。その前に速さだけで押すと、壊れる方が先に来ます」


それは工房の言葉だった。

だが、治療棟を見て、塔を見て、いまこの分流室の板を見たあとなら、もう王都でも通る言葉に思えた。


リリエルは息を吐いた。


フェリクスは先に変わる先を見ている。

カイルは、変えた時に落ちるものを先に見ている。


だから、この人は急がせない。


「遅いね」


とリリエル。


カイルは間を置いた。


「ええ」


「でも、そっちの方が信用できる」


その一言で、今度はカイルの方が黙った。


フェリクスが、そこでほんの一瞬だけ笑う。


「分かりやすい評価ですね」


「あなたは速い」


とリリエル。


「カイルは急がせない」


「国家側としては複雑ですね」


母が小さく笑った。

イリスは笑わなかったが、肩の力が抜けた。


ローデリックが板の白を見たまま言う。


「今日はここで終える」


「もう?」


とリリエル。


「十分だ」


「塔の下で分けている。治療棟へ優先がある。王都は上から来る線の上で息をしている」


イリスが引き取る。


「そこまで出れば、今日の板は役目を終えた」


フェリクスはまだ何か言いたそうだった。

だが、今日は言わなかった。


その代わり、机の上の帳面へ一枚だけ紙を挟む。


「国家側の整理を一つ置いていきます」


「勝手に置くな」


とローデリック。


「必要な分だけです」


「その“必要”が多い」


「いつものことです」


そのやり取りで、また空気が戻る。


部屋を出る前に、リリエルはもう一度だけ板を見た。


鏡も灯柱も薄板も上層板も、全部が同じ線へ触っている。


祈りの下に埋まっていた名前は、もう一つではない。

王都の高さにも、地の下にも、治療の現場にも、全部食い込んでいる。


廊下へ出ると、塔の中の音がまた戻ってきた。

低い唸り。薄い擦れ。止まらない設備の、生き物みたいな息。


カイルが言う。


「明日は、もう少し面倒です」


「いまでも十分面倒だよ」


「今日は板でした。明日は記録と人が入ります」


「人、面倒だね」


「ええ」


間があった。


「ですが、急がない方がいい」


その言い方が、さっきより柔らかかった。


塔の外へ出ると、昼の王都はいつも通りだった。

荷車。声。光。人の流れ。


何も知らない顔で、全部が動いている。


でもリリエルにはもう見えてしまっている。

この街は、自分の足だけで立っているわけじゃない。


そして、そのことを一番急いで言わないのが、いま隣を歩いている人だった。


カイルは遅い。

でも、壊れる前に止まる人だ。


それがありがたかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ