フェリクスの速さ
王都の中継塔は、近くで見ると空へ伸びていなかった。
むしろ、地面へ刺さっていた。
遠くから見れば、高い塔だ。宿舎の窓から見た時は、空の下へ輪を重ねた細い影に見えた。だが足元まで来ると印象が変わる。
白くない。
王城の石みたいな飾りもない。
灰色の柱が、太く短く、何本も束ねられている。
その周りを、細い輪が何段か取り巻いていた。
上へ伸びているというより、地面に打ち込まれた杭が、そのまま空まで続いている感じだった。
「嫌な形だね」
とリリエルが言う。
「好きな人は少ないでしょうね」
とカイル。
「でも、倒れにくそう」
「そこは正しいです」
ローデリックは振り向かなかった。
イリスも、今日は外の説明をしない。
中継塔の門前は神殿ではなく、王都運用局の管轄らしかった。白衣ではなく、灰青の短衣を着た係官が札を見て、人数を数え、通路を開ける。
「上層まで」
とローデリックが言う。
係官は紙を見てから、少しだけ顔を固くした。
「上層は、本日すでに一名」
「誰だ」
「国家側補佐官」
その一語だけで、カイルの顔がほんの少し曇った。
「早いですね」
「知っているの?」
とリリエル。
「名前だけは」
「どんな人?」
「速い人です」
それは答えになっているようで、あまりなっていない。
だが、その言い方だけで少しだけ輪郭が見える。
この人が「嫌い」より先に「速い」と言う相手は、たいてい厄介だ。
---
塔の中は涼しかった。
外の王都はもう昼へ向かう明るさなのに、ここだけは光が細い。壁の灯りは控えめで、代わりに足元と壁際の線がはっきりしている。人が歩くための塔というより、流れを通すための塔だった。
階段は狭い。
だが地下封書庫みたいな閉じ方ではない。
途中で何度も踊り場があり、そのたびに小さな扉や窓がある。窓は外を見せるためではなく、風と音を逃がすための形に見えた。
上へ行くほど、音が減る。
下層では人の声がある。
中層では靴音だけになる。
上層へ近づくと、靴音すら減る。
代わりに、別のものが聞こえ始めた。
低い唸り。
風ではない。
機械とも違う。
遠くで何本もの細い音が、ずっと擦れ合っているような、薄い鳴り方だった。
「聞こえる?」
とリリエル。
「ええ」
と母。
「塔そのものね」
「設備の音です」
とカイル。
「止まっていない時の」
「設備って、ずいぶん生き物みたいに言うね」
「止まると困るものは、だいたい生き物みたいな扱いになります」
それは少し分かる気がした。
工房の保存箱も、見張り台の念話石も、止まると困るものは皆そうだった。
---
最後の踊り場を上がったところで、扉が開いていた。
最上層まではいかない。
だが上層と呼ぶには十分高い。
円い部屋だった。
床は石。
その石へ、細い線が輪になって刻まれている。
中央には低い台。
上に置かれているのは、鏡ではない。もっと薄く、平たい板が三枚。角度を変えて、どれも少しだけ上を向いている。
そして、その中央台の脇に、男が一人立っていた。
年は二十代の後半くらいか。
若く見えるのに、若いだけではない顔だ。
背は高すぎない。痩せてもいない。服は灰の上等な仕立て。王都の役人らしい綺麗さなのに、神官や宮廷術師みたいな飾りはない。
最初に目へ入るのは、笑っていない口元だった。
次に、その口元がすぐ笑える形をしていることに気づく。
「遅かったですね」
男はそう言った。
嫌味の声ではない。
本当に、時間の計算が自分の予想より少し遅れた、という言い方だった。
ローデリックが答える。
「神殿は人を通すのが遅い」
「国家はもっと速く通します」
「だから嫌われる」
「知っています」
そこで、男はようやくリリエルたちの方を向いた。
「フェリクスです」
名乗りは短い。
肩書きを足さない。だが、係官が「国家側補佐官」と呼んだ以上、少なくともそう通る人間ではあるらしい。
「リリエル・アストラ」
「知っています」
即答だった。
「保存箱、再充填石、念話石、神託文、封書庫上層鏡、治療棟補助柱」
数える。
しかも、順番に無駄がない。
「昨日までの記録は全部読みました」
「全部?」
とリリエル。
「今朝までに読める範囲は」
フェリクスはそう言って、初めて少しだけ笑った。
「国家側は遅いと困るので」
その一言だけで、カイルが小さく息を吐いた。
この人が言っていた“速い”は、たぶんこういうことだ。
理解が速い、ではなく、掴んだ瞬間に次へ回す速度が速い。
「ここで何を見るの」
とリリエル。
フェリクスは中央台の板を見た。
「あなたが封書庫で見た線が、王都の上へどこまで来ているか」
「あなたも気になった?」
「国家側が気にしない理由がありません」
その返しに、余計な熱はない。
怖がりも、興奮もしない。
ただ、使う側の人間の速さだけがある。
イリスが声を落として言った。
「今日は見るだけよ」
「まずは、でしょう」
とフェリクス。
「ですが、見た瞬間に“まず”では済まなくなる可能性が高い」
少しだけ落ち着かない言い方だった。
だが、たぶん正しい。
---
ローデリックが中央台へ近づく。
「誰が触った」
「まだ誰も」
とフェリクス。
「私は待つことができます」
「そうは見えん」
「待つべきものには待ちます」
速い人の言う「待つ」は、普通の人間の待つとはたぶん違うのだろうと、リリエルは思った。
上層の板は三枚とも同じ形に見えた。
だが、近づくと違う。
ひとつは表面に細い傷が多い。
ひとつは色が少し濁っている。
真ん中の一枚だけが、何も起きていない顔をしていた。
視界の奥に、白い文字はまだ出ない。
でも出ないまま分かることもある。
塔の設備は、封書庫の鏡より起きている。
治療棟の灯柱より静かだ。
つまり、ここは眠っているのではなく、ずっと薄く動いている。
ローデリックが言う。
「昨日の灯柱を思い出せ」
「うん」
「強くは触るな。まず流れを見る」
イリスが横から加える。
「塔は治療棟より広い。揺らすと、揺れる場所も増える」
「分かった」
とリリエル。
フェリクスがそこで初めて、ほんの少しだけ興味の色を見せた。
「分かるんですか」
「たぶん」
「便利ですね」
「便利って言われるの、あんまり好きじゃない」
「危険ですね、の方がいいですか」
「もっと駄目」
フェリクスは口元だけで笑った。
「では、重要ですね」
その返しが、いちばん困った。
便利よりも、危険よりも、もっと逃がさない言葉だったからだ。
---
ローデリックが右手を台の上へかざす。
昨日みたいな長い高位詠唱ではない。
今日は短い。
起動ではなく、照合のための術らしい。
細い光が、板の下を一度だけ走る。
三枚のうち、真ん中だけが淡く白くなる。
封書庫の鏡や治療棟の灯柱とは違った。
あちらは内側から起きる白だった。
こちらは、上から落ちてくる白だ。
その瞬間、リリエルの視界の奥へ文字が落ちた。
> `CITY RELAY UPPER TIER`
> `ASCENT ROUTE TRACE DETECTED`
息が浅くなる。
「来た」
とリリエル。
「何が」
と母。
「線。塔の上まで来てる」
フェリクスの目が、一気に変わった。
さっきまでの余裕ある観察ではない。
掴んだ情報を、その場で別の棚へ入れ替える時の目だ。
「どこから」
「塔が拾ってる。……でも、ここが本体じゃない」
ローデリックが短く言う。
「続けろ」
リリエルは板を見た。
白い光は弱い。
だが、弱いのに深い。
治療棟の灯柱みたいな局所の支え方ではない。
もっと高いところから、細い糸だけを垂らしてきて、王都の塔がそれを拾っている感じだ。
「塔そのものが本体じゃない」
とリリエル。
「何を今さら」
とカイル。
「そうじゃなくて」
リリエルは板の縁を指さした。
「これ、塔が自分で光ってるんじゃない。上から来る線に、王都側が乗ってるだけ」
「乗ってる、か」
フェリクスが繰り返す。
「正確ですね」
「正確、ではないでしょう」
とイリス。
「依存している、に近い」
イリスの言い方の方が、たぶん正しい。
でもフェリクスは、リリエルの方を拾った。
「王都は枝の先で息をしている」
とフェリクス。
「そう見えますか」
その一言で、部屋の空気がまた変わった。
国家側の人間が、もうそこまで言った。
しかも、ためらわずに。
リリエルは板から目を離さないまま答えた。
「息っていうか……借りてる」
「何を」
「たぶん、上から落ちてくる流れ」
フェリクスは少しも笑わなかった。
「それを止められたら?」
「王都の塔は困る」
「どれくらい」
「全部は止まらない。でも、いまのままなら、思ってるより困る」
そこまで言った瞬間、背中が少し冷えた。
自分が言っていることの意味が、ようやく遅れて追いついてきたからだ。
王都の中継塔。
国家の連絡。
神殿の聖遺物。
治療棟の補助柱。
その全部が、世界樹の線の枝先だとしたら。
困る、では済まない。
フェリクスはそこで初めて、はっきりとリリエルを見た。
「君は発明家ではないですね」
「何」
「前提を変える人です」
淡々と言う。
だが、言われる側の方が怖くなる言い方だった。
「保存箱で保管を変えた。再充填で消耗を変えた。念話石で連絡を変えた。そして今度は、王都が何の線の上に立っているかまで見つけた」
「変えたいわけじゃない」
とリリエル。
「知っています」
フェリクスは即答した。
「でも、変わるでしょうね」
その言い方で、カイルが低く言う。
「速すぎます」
「遅い方が良かったですか」
「少なくとも、いまそれを本人に言う必要はない」
「あります」
フェリクスは今度はカイルを見た。
「必要な言葉を先に知っている方が、後で選べます」
そのやり取りを、ローデリックが切る。
「国家の口は後でいい」
短い。
だが十分だった。
「いまは塔だ」
フェリクスはすぐ引いた。
引き方まで速い。
「失礼しました」
口ではそう言いながら、目はまだ板の白を見ている。
この人はたぶん、謝っても止まらない。
---
リリエルは板へ意識を戻した。
白い光の筋が、中央から上へ向かって細く立つ。
塔の上へ抜けるのではない。
もっと向こうへ、見えない高みへ繋がっている。
視界の奥にまた文字。
> `UPPER RELAY NOT LOCAL`
> `SOURCE: WORLD TREE MAIN LINE`
「これ、王都の塔じゃない」
とリリエル。
ローデリックが頷く。
「塔は端だな」
「うん」
「本体はもっと向こう」
「世界樹か」
とイリス。
「世界樹の本線のどこか」
リリエルはそう言ってから、少しだけ迷う。
どこか、では足りない気がしたからだ。
でも、まだ“どこ”までは見えない。
板の白が、ふっと弱くなる。
終わる、というより、今日はここまで、という退き方だった。
ローデリックが手を下ろす。
「十分だ」
「もう?」
とリリエル。
「十分見た」
とイリス。
「塔が拾っている。上がある。王都の上層設備も枝先だ。そこまで出れば、今日は足りる」
「今日は、ね」
とフェリクス。
「明日には足りなくなるでしょう」
カイルが小さく息を吐いた。
「本当に速い」
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「知っています」
そのやり取りに、母が小さく笑う。
高い塔の上で笑うのは変な感じだった。
でも、その変さのおかげで、息が少しだけ楽になる。
母がそのとき口を開く。
「記録の順番を変える必要があるわね」
誰もすぐには返さなかった。カイルだけが、小さく頷いた。
「神託から世界樹、では遅い。塔から下へ落とし直した方が早い」
「上から、ですか」
とカイル。
「ええ」
と母。
「神殿の紙で説明するより、王都の設備に出ている現物の方が、人は早く理解するでしょう」
フェリクスが、そこで初めて少しだけ本気で感心した顔をした。
「……なるほど」
「言いたいことがあるなら後にして」
と母。
その返しだけで、少しだけ空気が戻る。
ローデリックが言う。
「明日は、塔の下へ戻る」
「下?」
とリリエル。
「上を見たら、次は下だ」
イリスが続ける。
「塔の線がどこで地に入るかを見る。神殿の紙と、王都の設備と、世界樹の路を、今度は下で繋ぐ」
フェリクスが窓の外を見たまま言う。
「国家側の記録も出します」
「出しすぎるな」
とローデリック。
「必要な分だけです」
「その“必要”が多い」
「いつものことです」
それで終わる。
塔の上層の空気は薄かった。
風があるわけではない。
ただ、王都の下の方にある生活の匂いが少ない。
リリエルは最後にもう一度、中央台の板を見た。
鏡、灯柱、薄板、そして今日の板。
全部が、違う顔で同じ線へ触っている。
祈りの下に埋められていた名前は、もう一つではなかった。
王都そのものが、知らないままその線の上で息をしていた。
リリエルは布箱を抱え直した。
世界樹は遠い。
でも、もう遠いだけではない。
王都のいちばん高い場所で、その線に手が触れてしまった。
塔を下りる階段で、薄く、白い灯りがまた一度だけ脈打った。
今度は誰も驚かない。
フェリクスだけが、その脈をちらりと見て、歩く速度を変えなかった。
この人は、驚かないのではない。
驚く前に、もう次を見ている。
それが少しだけ頼もしくて、少しだけ怖かった。




