王都の石畳は、なぜか知っている
王都の門をくぐった瞬間、リリエルは思わず足を止めた。
高い壁。
広い通り。
石畳。
人の波。
荷車の列。
呼び声。
金具の触れ合う音。
馬の鼻息。
遠くで鳴る鐘。
全部が多い。
音も。光も。匂いも。人の数も。
城門の外から見た時も、大きいとは思った。
だが中へ入ると、大きいでは足りなかった。王都は、最初からこちらを飲み込む気のある場所だった。
石畳を踏んだ時、足の裏がほんの一瞬だけ先に反応した。
この幅。
この継ぎ目。
この固さ。
歩いたことがある、とは思わない。
そこまではっきりしていない。
けれど、身体のどこかが、こういう場所では立ち止まると邪魔になる、と先に知っていた。
「空気で疲れるって、こういう意味か……」
リリエルが小さく言うと、荷台の横を歩いていたカイルが頷いた。
「そうです」
「まだ何もしてないのに、もうちょっと疲れた」
「それも普通です」
「王都の人って、毎日これなの?」
「毎日これです」
「大変だね」
「だから皆、だんだん顔が急ぐようになります」
それはたしかにそうだった。
道を行く人間が、全員どこかへ向かっている。
村や領内だと、人は歩きながら人を見る。でも王都では違う。人は人を避けるためにだけ見て、あとは前を見て進んでいく。
立ち止まる方が、むしろ目立つ。
「止まらないでください」
とカイルが言った。
「言われなくても分かるけど、ちょっとは止まりたいよ」
「王都は、止まる場所を間違えるとすぐ怒られます」
「やっぱり怖いね」
「怖いです」
即答だった。
その即答が少しおかしくて、リリエルは少しだけ笑った。
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ギルドの使いが迎えに来ていた。
若い事務官だった。薄茶の上着に、王都技術部の青い印。言葉も足取りも速い。急いでいるというより、急ぐ速さがもう身体に馴染んでいる人間の動きだった。
「アストラ工房の一行ですね」
「そうです」
とカイル。
カイルの返事が速い。工房では測定紙を見てから答える人が、ここでは相手より先に声を出している。王都の速さが、まだこの人の中に残っているのだ。
「案内します。先に荷を宿所へ。聴取は本日夕刻ではなく、明朝に変更されました。技術部側で予備整理が入っています」
母がすぐ聞いた。
「変更理由は」
「監査局側が先に記録を読んでいます」
事務官はそれだけ答えた。余計なことは足さない。必要なことだけを置いて、もう半歩先へ進んでいる。
「王都だね」
とリリエルが言うと、カイルが小さく返した。
「そうです」
宿所はギルド棟の裏手にあった。
宿といっても旅籠ではない。
廊下が広く、扉が同じ大きさで並び、壁の灯りが全部同じ位置についている。整いすぎていて、逆に落ち着かない。
リリエルはそこへ入った瞬間、また少しだけ足を止めた。
見覚え、ではなかった。
もっと曖昧で、もっと近い。
白い光。
まっすぐな通路。
同じ形の扉。
硬い床。
待つための椅子。
知らない。
知らないはずなのに、身体の方が先に、こういう場所では端を歩く、と知っていた。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、視界の底に別の手が重なった気がした。
小さい手じゃない。
もっと骨ばって、指が長い。
紙ではなく、薄い板みたいなものの角を押さえている手。
瞬きをした時には、もう消えていた。
「どうしました」
と母が聞く。
「……なんでもない」
リリエルはそう答えた。
答えたが、足の裏だけがまだ落ち着かなかった。
事務官が言う。
「こちらで荷を下ろしてください。明朝、三番棟東側の受付で手続きをしてください」
その言葉を聞いた瞬間だった。
受付。
待つ。
順番。
呼ばれる。
言葉そのものではない。
もっと手前の感覚だけが、胸の奥に引っかかった。
白い壁の前で座って待つ感じ。
黒い何かが切り替わる感じ。
名前ではなく、別のもので呼ばれる感じ。
石には触っていない。
布箱は荷台の中だ。
それなのに、目の奥で白いものが一度だけちらついた。
文字は読めなかった。
ただ、黒い面に白が浮く、その形だけが妙に懐かしかった。
息が止まった。
カイルがすぐ気づく。
「リリエル?」
「……今、ちょっと変だった」
「石に触っていますか」
「触ってない」
カイルの目が細くなる。
「場所の構造に反応したのかもしれませんね」
「場所に?」
「似た並びに、無意識が引っかかったのかもしれない、という意味です」
分かったような、分からないような説明だった。
でも今は、それで十分だった。
母が静かに言う。
「あとで書きなさい。今は荷を入れましょう」
それだけでよかった。
母は、こういう時に先へ進ませてくれる。
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荷を部屋へ運び込んだあと、リリエルは窓際に立って外を見た。
王都の中庭。
石畳。
行き交う人。
荷台。
制服の違う役人。
遠くの塔。
塔の上には細い輪のようなものが重なっていた。飾りではない。風見灯とも違う。高い場所にある、何かの受け口みたいに見える。
「見なくていいです」
とカイル。
「まだ何もしてない」
「その顔が、もうだいぶ危ないです」
「王都に来てから、それ多くない?」
「増えます。王都なので」
リリエルは少しだけ唇を尖らせて、それでも塔から目を離した。
「ねえ、あれ何」
「中継塔です」
「中継」
「広域灯列と、連絡系の残骸をまとめて管理しています。いま動いているのはごく一部だけですが」
その言い方で、リリエルの胸の奥が少しだけざわついた。
遠い道。
外部中継。
未登録経路。
あの朝の表示が、王都の空の下で急に生々しくなる。
ここにはある。
領内では見えなかった、もっと大きい側が、最初から景色の中に立っている。
「追いかけないでください」
とカイル。
「だからまだ何もしてないって」
「その顔は、何かする五歩前の顔です」
「分かるの?」
「最近はかなり」
リリエルは小さく笑って、それから窓枠に手を置いた。
王都は遠い。
大きい。
怖い。
でもそれだけではない。
工房で起きたことが、ここでは続きのある出来事として立っている。
それが分かる場所だ。
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夕方前、ベルトラムが来た。
灰色の上着。無駄のない姿勢。王都へ戻っても、この人は少しも王都に飲まれていない。むしろ王都の方が、この人に合わせて角を落としているように見えた。
「移動ご苦労様です」
「疲れた」
とリリエル。
ベルトラムはほんのわずかにだけ間を置いた。
「率直で助かります」
「王都の人、みんなそうやって喋るの?」
「いいえ。私はこれでも、地方向けにやわらかくしています」
カイルが横で小さく咳払いをした。たぶん笑いそうになったのだ。
ベルトラムはすぐ本題へ入った。
「明朝、技術部で予備聴取です。そのあと監査局立ち会いの実演。順番は、再充填石、保存箱、最後に念話石関連」
母が頷く。
「提示順はこちらの想定と同じですね」
「はい。いきなり特殊反応から入ると、向こうが構えます」
リリエルはそこで少しだけ笑った。
「ネリスと同じこと言ってる」
ベルトラムが初めて少しだけ眉を動かした。
「誰ですか」
「行商見習い」
「……なるほど」
なるほど、では済んでいない顔だったが、そこは深掘りしなかった。
ベルトラムは続ける。
「一点だけ確認します。リリエル嬢の知識の出どころについて、王都では自分から広げないでください。なぜ分かるのかを説明しようとすると、余計な方向へ広がります」
部屋が静かになった。
母が先に聞く。
「こちらから話さない限り、向こうは踏み込まないのですね」
「完全には」
とベルトラム。
「リリエル嬢が古い表示や構造に、時々直感的に反応すること自体は報告に含まれています。ですが、その理由までこちらから広げる必要はありません」
カイルが嫌そうな顔をした。
「広げると面倒です」
「何方向に」
とリリエル。
「面倒な方向にです」
とカイル。
それで、少しだけ空気が戻った。
リリエルは小さく聞いた。
「でも、ああいうのが出た時はどうするの」
今度は母が先に答えた。
「意味を決めようとしないこと」
その声は静かだった。
「見えたものを、見えたまま残すの。今はそれで十分よ」
リリエルは少しだけ肩の力を抜いた。
そうだ。
最初から名前をつけなくていい。
第1部だって、そうやってきた。
見えた。
引っかかった。
手が知っていた。
まずはそこまででいい。
意味はあとでつなげばいい。
それは、工房のやり方でもあった。
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夜、部屋の灯りを落としたあとも、リリエルは少しだけ眠れなかった。
丸と線の石は布箱の中で静かだ。今日は触らない。王都へ着くまで勝手に開くな、と父に言われたこともあるし、今日はそれ以前に、もう十分いろいろ見てしまった。
窓の外には王都の灯りがある。
領内の夜とは違う。数が多くて、遠くまで続いていて、空の下にもう一つ別の星座があるみたいだった。
その灯りを見ていた時だった。
ふいに、頭の奥で小さな音がした。
石の音ではない。
もっと乾いた、短い音。
次の瞬間、白い光が見えた。
白い天井。
白すぎる壁。
硬い床。
並んだ椅子。
黒い何か。
切り替わる明るさ。
そこに、ひどく大人の手があった。
自分の手なのに、自分の手ではない。
今の指より長く、節がはっきりしていて、薄い板の角を親指で押さえている。
何かを待っている。
呼ばれるのを。
順番が来るのを。
でも、何を待っているのかは分からない。
映像と呼ぶには短すぎた。
感覚だけが、喉の奥に残る。
リリエルは布団の中で目を開いたまま、小さく息を吐いた。
消えてはいない。
忘れたわけでもない。
ただ、まだ意味になっていないだけだ。
それが分かっただけで、少しだけ安心した。
工房で覚えたことがある。
分からないものほど、いきなり全部開けない方がいい。
順番に見る。
記録する。
戻れるところを残しておく。
たぶん記憶も同じだ。
王都の夜は、領地の夜よりずっと明るい。
そのくせ、明るい分だけ、奥にあるものが見えにくい。
でも見えにくいだけで、ないわけではない。
リリエルは目を閉じた。
明日は実演だ。
工房の看板の下で作ってきたものを、王都の机の上へ出す日だ。
そしてきっと、記憶もまた少しだけ、その光の中で輪郭を持ち始める。




