看板の下から、王都へ
出立の朝は、工房の音が少しだけ違った。
いつもの朝なら、最初にするのは布の音だ。棚の前で受け皿を動かし、革片を分け、返却待ちの石を並べる音が、工房の一日を始める。
今日は違う。
木箱を荷台へ載せる音。
縄を締める音。
靴裏が石を踏む音。
工房の中にあるものが、工房の外へ出ていく音だった。
リリエルは戸口のところで足を止めて、看板を見上げた。
アストラ工房。
白い字。
黒い縁。
夏の朝の光の中で、いつもより少しだけきれいに見えた。
昨日まで毎日見ていたはずなのに、今日の看板だけは少し違う。
置いていかれる側の顔をしていた。
空っぽだった棚。
最初の依頼人。
保存箱の夏。
丸と線の石。
全部が、あの看板の下に積もっている。
「ぼんやりしている時間はないわよ」
母の声で、リリエルは振り向いた。
セレナはもう窓下の机を空にしていた。
王都へ持つノート。工房へ残すノート。写し。控え。順番通りに重ねられている。
旅立ちの朝だというのに、この人だけは完全にいつもの顔だった。
いや、こういう時ほど、母はいつも以上にいつもの顔になる。平らで、速くて、抜けがない。
「丸の石は?」
「布箱の中」
「線の石は?」
「こっち」
「測定紙は?」
「カイル」
「革片の予備は?」
「入れた」
「“たぶん”ではなく?」
「入れた」
「よろしい」
それで終わる。
母の確認はいつも短いのに、抜けがない。
作業台の横では、カイルが革箱の蓋を閉めていた。
測定針。金属枠。透明板。王都標準の測定器具一式。
「それ、ほんとに全部持つの?」
とミナ。
「持ちます」
「重そう」
「重いです」
「面倒だね」
「かなり」
その返しがもう自然だったので、ミナが吹き出した。
戸口の外では、ガレスが護衛用の荷を確かめていた。もう一人の護衛は若い兵で、朝から少し顔が固い。王都行きの護衛だ。緊張しない方がおかしい。
そして、工房の中に残る側も、もう持ち場についていた。
ドルフは棚の前で腕を組んでいる。いつものように不機嫌そうだが、今朝はその不機嫌がちゃんと働いていた。
「帰ってきた時に、棚の並びが一つでも変なら怒るからな」
「三回目だよ、それ」
とミナ。
「三回で足りると思うな」
「こわい」
「覚えろ」
ノアはもう返却札の束を揃え終わっていた。留守中に使う布、受け皿、記録札。誰に言われるでもなく、明日以降の工房を今日のうちに整えている。
リリエルはそれを見て、少しだけ安心した。
自分がいなくても、工房は消えない。
それは少し寂しくて、かなり嬉しいことだった。
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父が工房へ来たのは、荷台の縄が締まりきる少し前だった。
今日も領主の顔をしている。
もう朝のうちに何人かと会ってきたのだろう。靴に土がつき、袖に紙の匂いがついていた。
でも工房の前へ立った時だけ、ほんの少しだけ父の顔になった。
「確認するぞ」
短く言う。
「持つもの」
母が即答する。
「再充填石二組。保存箱一台。改修記録写し。念話石反応記録。測定紙。最小実演用具」
「残すもの」
今度はノアが答えた。
「返却待ち棚、依頼記録、留守用札、保存箱改修の控え、見張り台運用記録」
父は頷いた。
「よし」
それから、リリエルを見た。
「面白くなっても、王都へ着くまで勝手に開くな」
「何を」
「石だ」
リリエルは少しだけ笑った。
「分かってる」
「ほんとか」
「……かなり」
「怪しいな」
でも父も少し笑った。
ミナがそこで口を尖らせる。
「父上、わたしはやっぱり留守番?」
「留守番じゃない」
父は即答した。
「工房番だ」
ミナが少し止まった。
「それ、ちょっとだけ格好いい言い方だね」
「ちょっとじゃない。かなりだ」
「父上がそう言うと、ちょっと怪しい」
「ひどいな」
でも父の声は少しだけやわらかかった。
その横で、ネリスが荷車にもたれていた。今日は見送りだけのつもりらしい。なのに最初から最後まで、完全に口を出す顔をしている。
「王都で最初に高い値段見ても顔に出さないでね」
「お前はほんとにそれだな」
とドルフ。
「だって大事だよ」
「最初に大事なのはそこじゃねえ」
「でも二番目くらいには大事でしょ」
誰もきっぱりは否定しなかった。
父はドルフとノアを一度だけ見た。
「頼んだ」
短かった。でもそれで十分だった。二人とも同じ顔で頷いた。
「出るぞ」
ガレスが手綱を握る。荷車がわずかに軋む。工房の前の石を、車輪がゆっくり越える。
アストラ工房は、初めてその名前を背負ったまま、領地の外へ出た。
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道は朝のうちは明るかった。
夏の陽は高くなるのが早い。草の匂い、土の匂い、遠くで回る風見灯の音。見慣れた領地の道を抜けるあいだは、まだ外へ出た感じが薄い。工房の続きを歩いているみたいだった。
「ねえ」
とリリエルが荷台の中で聞く。
「王都って、何日くらい?」
「急げば二日、荷があるので今回は三日弱です」
とカイル。
「急がないんだ」
「急がない方がいいです」
「なんで」
「荷があるからです」
「つまんない」
「旅は、つまらない方が正しいです」
その返しに、母が小さく頷いた。
「今回はとくにね」
王都行きは冒険ではない。呼び出しだ。そこを間違えると、道の上で浮く。
リリエルは布箱の中の丸と線の石を見た。今は静かだ。でも完全に何もない静けさではない。遠い返りの名残だけが、底の方に薄く残っている。
開きたいとは思わなかった。
でも、気になるのは止められない。
カイルがその視線に気づいた。
「我慢してください」
「まだ何もしてないよ」
「その顔がもう危ないです」
「分かるの?」
「最近は少し」
「工房っぽいね」
「やめてください」
でも、その言い方は少しだけ嬉しそうだった。
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一日目の昼には、領の外れを越えた。
そこで初めて、工房は本当に後ろへ回った気がした。
見慣れない道。
見慣れない畑。
見慣れない宿場の看板。
途中の宿場で昼を取った時、カイルが何気なく言った。
「王都へ着いたら、最初に空気で疲れます」
「空気?」
とリリエル。
「人が多いと、音も多い。音が多いと、考えるのに余計な力が要るんです」
「カイル、そういうとこちょっと繊細だね」
「普通です」
「王都の人、みんなそうなの?」
「みんなではありません」
「じゃあカイルがそうなんだ」
「……否定しづらいですね」
母がそこで口を挟んだ。
「いいことよ。余計な音に気づく人は、余計な違和感にも気づけるもの」
カイルは少しだけ黙って、それから小さく言った。
「それは、かなり褒めていますか」
「かなりね」
母は平然としていた。
カイルは不本意そうな顔をしたが、反論はしなかった。
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二日目は、道の上ですれ違う荷車が増えた。
行商の旗。
商隊の荷印。
見たことのない紋の入った布。
ネリスがいたら、全部に値段をつけていただろうな、とリリエルは思った。
カイルは朝から少し無口だった。王都が近づくと、この人は少しだけ顔が硬くなる。帰る場所へ向かう人の顔ではない。失敗も正解も、全部きちんと数えられる場所へ戻る人の顔だった。
リリエルはそれに気づいたが、何も言わなかった。代わりに、荷台の上で布箱の蓋を確かめ直した。丸と線の石は静かだ。まだ大丈夫。
母は道中でもノートを開いていた。王都提示順の最終確認。再充填石の実演手順。保存箱の改修記録の要点抜き。揺れる荷台の上でも字が乱れないのは、もう才能だと思う。
夕方、宿場に着いた時にカイルが言った。
「明日の昼前には着きます」
「思ったより早いね」
「道が良かったからです。荷があるのに、少し早い」
「いいことじゃん」
「いいことです。ただ、早く着くと、考える時間が減ります」
「カイルは考えすぎだよ」
「技師なので」
「それ、最近便利に使ってない?」
「……少しだけ」
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三日目の昼前、王都の外壁が見えた。
最初に見えた時、それは建物というより景色の線だった。
遠くにまっすぐな灰色。
空の下に不自然なくらい整った横線。
近づくにつれて、それが壁だと分かる。
高い。
大きい。
そして、ちょっと偉そうだった。
「うわ」
リリエルはそれだけ言った。
ミナがいたら、もっと大きな声を出しただろう。ドルフなら「壁だけは立派だな」と言うかもしれない。
でも今ここにいるのは、リリエル、母、カイル、護衛二人だ。だから「うわ」で、だいたい足りた。
カイルが荷台の横から言う。
「その反応は正しいです」
「王都の人も最初はそうなるの?」
「最初だけは」
「今はならない?」
「壁を見ている場合じゃないことが多いので」
それは王都の人らしい返答で、少しだけおかしかった。
城門前は混んでいた。荷車。旅人。商隊。使い走り。兵。札。声。工房の朝よりずっと騒がしいのに、誰もそれを騒がしいとは思っていない顔で動いている。
「ほんとに空気で疲れそう」
とリリエル。
「言ったでしょう」
とカイル。
「でも」
リリエルは荷台の上から、城門の上の旗を見た。高い壁。人の流れ。遠くの塔。その向こうにまだ見ていない机がある。まだ見ていない規格がある。
「ちょっと面白い」
カイルが少しだけ笑った。
「それなら大丈夫です」
「何が」
「王都は、怖いだけの人間から先に疲れるので」
荷車がゆっくり進む。
荷札の先に、もう王都がある。
アストラ工房の夏は、ここから一段だけ速くなる。




