44 影に潜む者 11
女はそこで初めて、明確にりんを見た。
冷たい目が、まっすぐこちらへ向く。
「……回復役のくせに、余計なことをしてくれるわね」
その低い声が、やけに耳に残った。
“面倒な回復役”。
それだけ言い捨てて去っていこうとする、その軽さが、りんにはたまらなく嫌だった。
また逃げる。
また次がある。
また、どこかで困る人が出る。
そんなの、もう嫌だ。
◇
女が踵を返した、その瞬間だった。
りんの身体が、考えるより早く前へ出る。
「待って」
呼び止めるような声だった。
でも、魔法は少しもやわらかくなかった。
りんが手を振るうと、空気が一気に裂ける。
轟音とともに、女が抜けようとした裏路地の石壁が弾け飛んだ。
砕けた石が細い通路を塞ぎ、逃げ道が一瞬で埋まる。
「――っ!?」
初めて、女の顔がはっきり歪んだ。
驚き。
苛立ち。
そして、予想の外から殴られたような戸惑い。
蓮がその隙を逃さない。
「行くぞ!」
短い声とともに踏み込む。
ガルドが正面へ回り込み、大盾で通路の反対側を塞いだ。
「これで挟んだぞ!」
ライラの矢が飛ぶ。
今度は牽制じゃない。
外套の裾ではなく、女の足元――石床そのものを狙う。
矢が刺さる。
足を置こうとした場所が崩れ、女の体勢がわずかに泳ぐ。
フィオの杖が光を帯びた。
「今度は切らせない」
床を走った術式が、女の足首へだけじゃなく、膝と、さらにその奥へ幾重にも絡みついていく。
前より速い。
前より重い。
女が舌打ちした。
「鬱陶しい……!」
◇ ◇ ◇
けれど、相手もまだ諦めてはいなかった。
拘束の上から刃を振り下ろし、絡みついた術式を無理やり裂こうとする。
その動きに迷いはない。
「フィオ!」
蓮が声を飛ばす。
「分かってるわ!」
フィオは一歩踏み込み、術式をさらに重ねた。
だが、その一瞬の空白を縫うように、女は腰の小袋から火種を二つ放る。
ひとつは藁束へ。
もうひとつは、倒れた荷車の下へ。
ネネが低く言った。
「お嬢!」
「うん!」
りんは迷わなかった。
左手を藁束へ向ける。
火種は触れる前にかき消える。
次いで右手を荷車の方へ。
魔法は、今度は消すだけじゃない。
荷車の下で散りかけた火種ごと、床板を吹き飛ばした。
乾いた木片が跳ね、火は根を持てずに散る。
ガルドが思わず笑った。
「うお、豪快!」
でも、その声のあとすぐに表情を戻す。
まだ終わっていない。
◇
痩せた手先の男が、拘束を振り払おうともがいていた。
「くそっ、離せ!」
ネネがその腕を払う。
男がよろめく。
ライラの矢が、今度は手元の短剣を弾き飛ばした。
「持たせない」
淡々とした声。
ガルドの盾がそのまま男の胸を押し、壁へ叩きつける。
「お前はそこで寝てろ」
男が息を詰まらせ、膝から崩れた。
一方、小柄な手先の女は逃げ道を探していたが、フィオの術式がすでにその先を塞いでいる。
ネネが一歩で詰める。
「終わりです」
逃げようとした首根っこを掴み、そのまま床へ押し倒した。
小柄な女が呻く。
これで手先は両方、動けない。
◇ ◇ ◇
残るは、女だけ。
女はそれを見ても、なお顔色ひとつ変えまいとした。
けれど、余裕が削れているのははっきり分かった。
拘束を斬る。
石を蹴る。
狭い隙間へ身を滑らせる。
速い。
でも、今のりんには、その動きが前よりずっとはっきり見えていた。
見える。
どこへ行きたいのか。
どこが最後の抜け道なのか。
女の視線が、一瞬だけ左奥へ流れる。
崩れた木戸の下。
人ひとりがぎりぎり潜れそうな、低い隙間。
(あそこだ)
りんは息を吸う。
止めるんじゃない。
壊す。
「そっちはだめ」
まっすぐに放った魔法が、木戸ごとその隙間を吹き飛ばした。
轟音。
砕けた木片が舞い、低い逃げ道が完全に潰れる。
女が、今度こそはっきりとりんを見た。
「……っ、なによそれ!」
その声には、もう冷たさだけじゃないものが混じっていた。
焦りだ。
◇
蓮が低く言う。
「いい」
次の瞬間、女の懐まで一気に踏み込む。
刃と柄がぶつかる。
甲高い音。
女は滑るように受け流そうとしたが、ライラの矢がその肩口をかすめた。
わずかに開いた隙へ、ガルドが盾を叩き込む。
「逃がさねぇ!」
鈍い衝撃。
女の体が大きく揺れる。
フィオの拘束が、今度は腰まで一気に絡みついた。
ネネが背後へ回り込む。
「動かないでください」
静かな声だった。
でも、その位置は完全に“終わり”の位置だ。
◇ ◇ ◇
それでも女は、なお抵抗した。
「ふざけないで!」
初めて声が荒くなる。
腰をひねり、拘束ごと強引に抜けようとする。
石床がきしむ。
術式が軋む。
フィオが眉を寄せた。
「しぶとい……!」
蓮が踏み込み直す。
でも、その一瞬で女が腕を振り上げるのが見えた。
狙いは蓮じゃない。
りんだった。
小さな刃が、まっすぐ飛ぶ。
ネネが動くより、蓮が振り向くより、りんの方が早かった。
手を伸ばす。
刃のすぐ脇へ、衝撃を叩き込む。
刃は軌道を変え、石壁へ突き刺さった。
その勢いのまま、余った魔法が女の肩口へぶつかる。
「――っ!!」
今度は直撃だった。
女の体が大きく吹き飛ぶ。
壁へ叩きつけられ、息が詰まる。
その一瞬、全員の動きが揃った。
蓮が押さえる。
ガルドが盾で挟む。
フィオが術式を締める。
ネネが腕をねじり、完全に地面へ伏せさせる。
もう、起き上がれない。
◇
静かになった。
荒い息だけが残る。
女は石床に押さえつけられたまま、悔しげにりんを睨み上げた。
「……回復役のくせに」
その言葉に、りんはもう揺れなかった。
少しだけ首をかしげて、それから言う。
「回復もするし、攻撃もするよ」
自分でも少し驚くくらい、自然な声だった。
女が言葉を失う。
ネネの口元が、ほんの少しだけ和らぐ。
「はい。お嬢はそういう方です」
ライラがふっと息を吐いた。
「やっと本人も認めた感じ?」
ガルドが笑う。
「いいじゃねぇか、それで」
フィオは静かに、でもはっきりと言った。
「もう、“回復役”なんて見方は誰にもできないわね」
◇ ◇ ◇
蓮が女を見下ろす。
「終わりだ」
その一言に、女はようやく視線を逸らした。
悔しさ。
苛立ち。
見下す余裕を失った顔。
でも、りんの胸の中は不思議なくらい静かだった。
怒鳴り返したいわけじゃない。
見下したいわけでもない。
ただ、もう好きにさせないだけ。
それで十分だった。
◇
フィオが落ちた板と地図を拾い集める。
「……これで全部繋がる」
そこには、村、水路、荷捌き場、倉庫群、外周の補給路まで、今までの流れがきちんと刻まれていた。
蓮が短く頷く。
「ここまでだな」
ガルドが大きく息を吐く。
「長かったぜ、ほんと」
ライラが笑う。
「でも、最後はちゃんと気持ちよく決まったわね」
ネネは拘束された女を見下ろしながら、静かに言った。
「楽しそうに荒らしていましたが、もう終わりです」
女は舌打ちする。
でも、もうその先へは届かない。
◇ ◇ ◇
帰り道、夕暮れの王都が見えた。
壁の向こうには、いつもの灯りがある。
いつもの声がある。
壊れていない景色がある。
りんはそれを見て、ようやく深く息を吐いた。
終わった。
少なくとも、この一連の嫌な火の流れは、ここでちゃんと止められた。
ネネが隣を歩きながら聞く。
「お嬢、疲れましたか」
「うん。すごく」
正直に答えると、ネネが頷く。
「でも、ちゃんと立っていました」
りんは少しだけ笑った。
「今回は、ほんとに戦った感じする」
「はい」
ネネの声は穏やかだった。
「お嬢がこらしめました」
◇
蓮が前を向いたまま言う。
「今日の決め手は、りんだった」
「え、でも……」
「でもじゃない」
短く、はっきりした声。
ライラが肩をすくめる。
「火消して、道潰して、最後にぶっ飛ばしてたからね」
ガルドが笑う。
「ありゃ文句なしだろ」
フィオは静かに言った。
「最初から強かったんでしょうね。ただ、今日やっとそれが表に出ただけ」
りんは少しだけ照れくさくなって、それから夕陽を見た。
守りたい。
止めたい。
増やしたくない。
そのために撃つことを、今日はもう迷わなかった。
りんは、そっと手を握った。
この手は治せる。
そして壊せる。
どっちも、守るために使える。
そんな実感が、夕焼けの中で静かに残っていた。
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