43 影に潜む者 10
古い荷捌き場は、倉庫群のさらに奥まった場所にあった。
今も使われている大きな搬入口からは少し外れ、崩れかけた木の桟橋と、半ば放置された石造りの荷台だけが残っている。
昔は、きっとここにも人の出入りが絶えなかったのだろう。
けれど今は、風が吹けば乾いた藁が転がり、打ち捨てられた荷車の軋む音だけが、時々かすかに鳴るだけだ。
「……思ったより、広いね」
りんが小さく呟くと、隣を歩くネネが頷いた。
「はい。しかも、燃えやすいものが多い」
視線の先には、乾いた木材。
古い縄。
藁束。
そして、少し離れた場所には、水場へ続く細い通路。
りんは胸の奥がざわつくのを感じた。
(ここ、燃えたら嫌だ)
嫌、という感情が、もう以前よりずっとはっきりしている。
誰かの家じゃなくても。
誰かの暮らしの一部じゃなくても。
ここが崩れれば、どこかで困る人がいる。
それが分かるようになってしまった。
◇ ◇ ◇
「時間はかけない」
荷捌き場の手前、崩れた石壁の陰で、蓮が低く言った。
「水路で拾った板の通りなら、あいつはここに来る。仕込みか、確認か。どっちにしても、今日ここを押さえれば、次の手はかなり削れる」
ライラが半壊した屋根を見上げる。
「上、取れる。見張るならここが一番ね」
ガルドが正面の出入口を見て、盾を軽く叩いた。
「逃げ道は多くねぇ。正面と、奥の木戸、その横の細道くらいか」
フィオが杖の先で地面を軽く突き、目を細めた。
「魔力の残り方が濃い。……一度や二度じゃないわ。ここ、もう何度か使ってる」
ネネが静かに続ける。
「荷を置いて、印を分けて、火種を渡す。そういう役目の場所ですね」
蓮は最後に、りんを見た。
「りん」
「うん」
「今日は後ろには置かない」
りんは小さく息を呑んだ。
でも、驚きよりも先に、胸の奥で何かがすとんと落ちた。
やっぱり、と思った。
蓮は続ける。
「相手は、火と崩しでこちらの手を分けるつもりで来る。お前には、それを止めてほしい」
ネネが、ほんの少しだけりんの前へ出ながら言った。
「お嬢は、お嬢の見えたものに集中してください。燃えてほしくないもの、崩れてほしくないもの。それだけ見ていれば大丈夫です」
「……うん」
りんは頷いた。
怖くないわけじゃない。
でも今は、“怖いから下がりたい”よりも、“嫌だから止めたい”の方が少しだけ強かった。
◇
配置は、すぐに決まった。
ライラは高所。
ガルドは正面。
フィオは奥の細道を封じる位置。
蓮は中央。
ネネはりんの一歩前。
そしてりんは、蓮の少し斜め後ろに立った。
今までより、ずっと前だ。
蓮が短く言う。
「無理に追わなくていい。崩しと火種、あとは巻き込まれる人間が出たらそっちを優先しろ」
「分かった」
「あと」
蓮はそこで一瞬だけ言葉を切った。
「ためらうな」
その一言に、りんは小さく目を見開いた。
でも、すぐに頷く。
「……うん」
◇ ◇ ◇
待つ時間は、長いようで短かった。
風が一度、藁束を揺らした。
次に、古い木箱がきしむ。
その次に――匂いが変わる。
油。
焦げ。
そして、あの嫌な、ねっとりした魔族の気配。
ネネの耳がぴくりと動いた。
「来ます」
その声に続くように、屋根の上のライラから小さな合図が落ちる。
蓮がわずかに腰を落とす。
ガルドが盾を構える。
フィオの術式が、床の下で静かに張られる気配がした。
りんは、手のひらを握って、ゆっくり開いた。
◇
最初に姿を見せたのは、例の女だった。
背の高い体。
長い外套。
薄く顔を隠した布。
そして、その下からでも分かる、不機嫌そうな口元。
その後ろに、手先が二人。
一人は痩せた男。
もう一人は、小柄な女。
どちらも荷を持っている。
女は荷捌き場の中を一瞥すると、心底うんざりしたようにため息をついた。
「……本当に、しつこいわね」
その声音には、前に会ったときよりも明確な苛立ちが混ざっていた。
りんは、その顔を見た瞬間に、胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。
また来た。
また、ここを崩そうとしてる。
女は手先に向き直った。
「見なさい。ここが使えるかどうか、今のうちに見極めておきなさい」
痩せた男が、帳簿台の方へ視線を向ける。
「水場までの距離は十分です。人の流れも、ここなら……」
「ええ。騒がせるにはちょうどいい」
女は薄く笑った。
「大火なんていらないのよ。困る場所だけ、少しずつ崩していけばいい。人間はその方が勝手に騒ぐでしょう?」
その言葉に、りんの喉の奥がひやりとする。
この女は、最初からそういう見方で全部を見ている。
どこを壊せば、一番困るか。
どこを乱せば、一番人が振り回されるか。
楽しくもなさそうな顔で、それを当然みたいに口にする。
ネネが低く呟いた。
「……やはり、嫌な女ですね」
フィオも小さく息を吐く。
「ええ。本当に」
◇ ◇ ◇
蓮が一歩前へ出た。
「十分だ」
その声と同時に、戦いが始まった。
ライラの矢が、帳簿台の上の板を撃ち抜く。
板が跳ね、木片が散る。
ガルドが正面へ回り込んで、盾を叩きつけた。
「そっちは通さねぇ!」
フィオの術が床を走る。
淡い鎖のような光が、奥の細道へ伸びた。
「抜け道は封じる」
女は、ほんの少しだけ目を細めた。
驚きではない。
面倒が増えた、という顔。
「またそれ」
嫌そうな声。
でも、すぐに切り替える。
痩せた男へ軽く顎をしゃくった。
「行きなさい」
男は短剣を抜き、ガルドの横を抜けようとする。
ライラの矢が足元に刺さる。
「っと!」
体勢が乱れたところを、ガルドが盾で押し返した。
「甘い!」
一方、小柄な手先の女は、藁束の方へ火種を投げようとしていた。
ネネが一気に距離を詰める。
「させません」
小柄な女は慌てて身を引き、火種を取り落としかける。
りんの手が、反射みたいに前へ出た。
「だめ」
火種が、地面に落ちる前に消える。
燃え移るはずだった熱だけが、ふっと空気に溶けて消えた。
小柄な手先が、ぎょっとした顔でりんを見る。
りんも、そこで少しだけ息をついた。
(よかった)
でも、ほっとする暇はなかった。
◇
女が動く。
真正面からは来ない。
でも真正面から戦う気もない。
蓮と刃を合わせるふりをして、半歩だけ横へ流れる。
そのまま、崩れた支柱へ小さな刃を打ち込んだ。
嫌な音が響く。
「蓮!」
りんが声を上げるより早く、石と木が崩れ始めた。
蓮は飛び退く。
でも、その崩れ方は普通じゃない。
支柱一本だけじゃない。
その奥に積まれていた木箱まで連鎖して倒れてくる。
女は最初から、そうなるように見ていたのだ。
りんの胸がぎゅっと痛む。
まただ。
また、崩して、乱して、隙を作る。
「っ……!」
りんは手を振り抜いた。
見えない衝撃が横から走り、倒れてくる木箱の軌道が変わる。
石と木は真下へは落ちず、壁際へ弾かれて砕けた。
轟音。
埃。
でも、蓮のいた場所は空いたままだ。
蓮が低く言う。
「助かった!」
その一言に、りんは胸の奥で少しだけ息をつけた。
◇ ◇ ◇




