最終話 魔王の娘は、またいつか旅に出る
王都の城門をくぐったとき、夕暮れを告げる鐘が鳴った。
石畳の通りには、仕事を終えた人々が行き交い、店先からは夕食の支度をする香りが漂ってくる。
荷車を引く商人。
買い物帰りの親子。
広場で遊ぶ子どもたち。
いつもと変わらない王都の景色だった。
けれど、りんには、その何気ない賑わいがいつも以上に嬉しく感じられた。
「……帰ってきたね」
隣を歩くネネが、小さく頷いた。
「はい、お嬢。ようやく一段落ですね」
「うん!」
りんは元気よく返事をした。
少し前を歩く蓮たちのそばには、拘束された女魔族と、その手先たちがいる。
古い荷捌き場での戦いは、すでに決着していた。
りんの攻撃魔法を受けた女は、蓮たちによって完全に取り押さえられ、もはや抵抗できる状態ではなかった。
その後、周囲に残された火種や危険な仕掛けも確認し、事件に関する証拠を回収した。
あとは、騎士団へ引き渡すだけだ。
「それにしても、長かったわねぇ」
ライラが肩を回しながら言った。
「最初はゴブリンの様子を調べるだけだったのに、まさかこんな大ごとになるなんて」
「まったくだ!」
ガルドが豪快に笑う。
「ここしばらく、森だの村だの倉庫だの、ずいぶん走り回ったからな!」
「あなたは途中から楽しんでいたでしょう」
フィオが呆れたように言う。
「そりゃ、戦いが始まればな!」
「……否定しないのね」
そんなやり取りを聞きながら、りんはくすくす笑った。
この四人と一緒にいると、どんなに大変なことがあっても、最後にはなんだか楽しくなってしまう。
きっと、それが《暁の空》なのだろう。
◇ ◇ ◇
騎士団の詰所では、事件の報告を受けた隊長が待っていた。
蓮から事情を聞き、拘束された女魔族を確認すると、その表情が引き締まる。
「この者が、一連の襲撃を指揮していた魔族か」
「ああ。ゴブリンを使った村への襲撃も、街道や倉庫群での騒動も、こいつの指示によるものだ」
蓮が答える。
隊長は女へ厳しい視線を向けた。
「詳しい事情は、こちらで調べさせてもらう」
女は何も答えなかった。
先ほどまでの尊大な態度は消え、ただ不機嫌そうに顔を背けている。
騎士たちが女を連れていこうとしたとき、りんは思わず声をかけた。
「あの!」
女が振り返る。
「……何よ」
「もう、あんなことしないでね」
女の眉がぴくりと動いた。
「……何を言い出すかと思えば」
「だって、村の人たちも、宿の人たちも、みんな困ってたんだよ?」
りんはまっすぐ女を見た。
「魔族だからって、人間をいじめていいわけじゃないと思う」
女は一瞬、言葉を失った。
それから、鼻で笑う。
「……ずいぶん綺麗事を言うのね」
「綺麗事かな?」
りんは首を傾げた。
「りんは、嫌なことをされたら嫌だし、痛いのも怖いのも嫌だよ。人間だって、魔族だって、同じじゃないの?」
女は黙り込んだ。
りんは返事を待ったけれど、女はそれ以上何も言わなかった。
やがて騎士たちに連れられ、詰所の奥へ消えていく。
「……怒っちゃったかな」
りんが小さく呟く。
ネネが隣でため息をついた。
「お嬢。あの女の機嫌まで気にする必要はありませんよ」
「そう?」
「はい。それに、言うべきことは言えたのですから」
りんは少し考えてから、こくりと頷いた。
「……うん!」
◇
事件の報告を終えた六人は、その足で冒険者ギルドへ向かった。
扉を開けると、いつもの賑やかな声が迎えてくれる。
酒場から聞こえる笑い声。
依頼掲示板の前で相談する冒険者たち。
受付で報酬を受け取る人々。
りんは、その光景を見て思わず笑顔になった。
「ただいまー!」
受付にいた職員が顔を上げた。
「あっ、皆さん! お帰りなさい!」
その声に、近くの冒険者たちも振り返る。
「おい、《暁の空》が戻ったぞ!」
「例の事件、どうなったんだ?」
「無事だったのか!」
たちまち人が集まってきた。
蓮が簡単に事情を説明すると、周囲から歓声が上がる。
「やったじゃねぇか!」
「これで街道も落ち着くな!」
「さすがAランクだ!」
ガルドは気分よさそうに胸を張った。
「がっはっは! まあな!」
「あなた一人で解決したみたいな顔しないの」
ライラがその脇腹を小突く。
「いてっ! 分かってるって!」
りんは二人のやり取りに笑っていた。
ところが。
「今回、一番驚かされたのはこの子だけどな」
ガルドが突然、りんの肩に手を置いた。
「……え?」
りんの笑顔が固まる。
「村では怪我人を次々治すし、最後にはあの魔族を吹っ飛ばしちまったんだからよ!」
「ちょ、ちょっとガルドさん!」
周囲の冒険者たちが、一斉にりんを見る。
「この子が?」
「そんなにすごい回復魔法を?」
「最後の戦いでも活躍したって?」
「ええっと……」
りんは困った。
ものすごく困った。
「り、りんだけじゃなくて、みんなで頑張ったんだよ!」
慌ててそう言うと、ライラが楽しそうに笑った。
「それはもちろん。でも、りんも頑張ったでしょう?」
「うぅ……」
りんはとうとうネネの背中へ隠れた。
「ネネぇ……」
「お嬢、そんなところへ隠れても目立つだけですよ」
「だってぇ!」
ギルドに、明るい笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
その後、六人はギルドの奥にある応接室へ案内された。
受付職員が書類を広げ、今回の事件について改めて説明する。
捕らえた魔族たちの身柄は騎士団が預かり、押収した資料の調査も進められることになった。
ゴブリンによる襲撃で被害を受けた村々には、復興のための人員と物資が送られるという。
「皆さんのおかげで、これ以上の被害を防ぐことができました」
職員は深々と頭を下げた。
「ギルドを代表して、お礼申し上げます」
蓮が静かに頷いた。
「被害を受けた人たちのことも、引き続き頼む」
「もちろんです」
続いて、職員は机の上に革袋を並べた。
「こちらが今回の特別報酬になります」
「わぁっ!」
りんの目が輝く。
革袋を持ち上げると、ずっしりとした重みがあった。
「……こんなに?」
「はい。依頼の内容が大きく変わったことに加え、救助活動への貢献も考慮されています」
「すごい……!」
りんはしばらく革袋を見つめていた。
冒険者になって、初めて薬草を摘みに行った日のことを思い出す。
あのときも、報酬をもらえて嬉しかった。
自分で働いて、お金を受け取る。
魔王城では経験したことのない、とても新鮮な出来事だった。
けれど、今回は少し違う。
りんは革袋を机に置くと、受付職員へ顔を向けた。
「あのね」
「はい?」
「このお金、村の人たちにも分けてもらえる?」
職員が目を瞬いた。
「復興支援に、ということでしょうか?」
「うん!」
りんは頷く。
「お家が燃えちゃった人もいるし、まだ困ってる人もいるでしょ?」
「ええ。復旧には、まだ時間がかかると思います」
「だったら、りんのお金も少し使ってほしいな」
職員は柔らかく微笑んだ。
「承知しました。責任を持ってお届けしますね」
「ありがとう!」
りんは嬉しそうに笑った。
すると、隣からネネが声をかける。
「お嬢」
「なあに?」
「帰りのお土産代は、きちんと残しておいてくださいね」
「……あっ!」
りんが慌てて革袋を見る。
ガルドが大きな声で笑った。
「がっはっは! 嬢ちゃん、全部渡すつもりだったのか!」
「ち、違うもん! ちょっと忘れてただけ!」
「お土産を楽しみにしてる人もいるでしょうしね」
ライラが笑う。
「そうなの! パパにもお菓子買わなきゃ!」
その言葉に、ネネが小さく頷いた。
「ええ。魔王様も、きっとお喜びになります」
りんはにこにこと笑いながら、革袋を大切そうに抱えた。
◇ ◇ ◇
その夜。
星灯りの宿では、ささやかな祝宴が開かれていた。
宿の主人が、事件解決のお祝いにと食事を用意してくれたのだ。
大きなテーブルには、焼きたてのパンや肉料理、野菜の煮込み、香ばしい焼き菓子まで並んでいる。
「遠慮しないで食べてくれ!」
主人が笑顔で言った。
「お前さんたちには、うちの宿も助けてもらったからな!」
「わぁっ! ありがとう!」
りんは嬉しそうに椅子へ座った。
ガルドが大皿を引き寄せる。
「よっしゃ! 今日は食うぞ!」
「ガルド、ちゃんとみんなの分を残しなさいよ」
ライラがすかさず注意する。
「分かってるって!」
「本当に?」
「……たぶん!」
「そこは言い切りなさいよ!」
りんは思わず吹き出した。
ネネも隣で小さく笑っている。
フィオは呆れたように二人を見ていたが、その口元は少し緩んでいた。
蓮が杯を持ち上げる。
「それじゃあ、今回の事件が無事に終わったことを祝おう」
「おう!」
「お疲れさま!」
「乾杯!」
りんもジュースの入った杯を高く掲げた。
「かんぱーい!」
杯の触れ合う音が響く。
それからは、賑やかな時間が続いた。
ガルドが戦いの話を大げさに語り、ライラが横から訂正する。
蓮は苦笑しながら二人をなだめ、フィオは時折鋭い一言を挟む。
ネネはりんの皿が空になるたびに料理を取り分けてくれた。
りんは美味しい食事を楽しみながら、そんな仲間たちの顔を眺めていた。
最初にギルドで会ったときは、まさかこんなふうに一緒に食卓を囲むなんて思わなかった。
知らない人たちだった。
少し怖そうにも見えた。
でも、今は。
「……えへへ」
思わず笑みがこぼれる。
「どうしたの、お嬢?」
ネネが尋ねた。
「ううん。なんでもない!」
りんはにこっと笑った。
「楽しいなって思っただけ!」
ネネは少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
◇
食事も終わりに近づいた頃。
蓮がふと、りんに尋ねた。
「りん。これからはどうするつもりだ?」
「これから?」
「ああ。今回の件も片付いたし、また別の依頼を受けるのか?」
りんは少し考えた。
冒険者ギルドの掲示板には、まだまだ知らない依頼がたくさんある。
行ってみたい場所もいっぱいだ。
けれど、魔王城を出てから、ずいぶん時間が経っていた。
「……そろそろ、一回帰ろうかな」
その言葉に、ライラが少し驚いた顔をした。
「あら、そうなの?」
「うん! パパにも会いたいし、お土産もいっぱい買いたいし!」
りんは笑顔で答えた。
ガルドが頷く。
「そりゃいいな! 家族も心配してるだろうしな!」
「そうですね」
ネネも頷いた。
「お嬢、魔王城の皆様も、きっとお帰りをお待ちですよ」
「うん!」
りんは元気よく返事をした。
ライラが、少し寂しそうに笑う。
「じゃあ、しばらくお別れね」
「……うん」
りんも少しだけ寂しくなった。
けれど、すぐに顔を上げる。
「でも、また来るよ!」
ライラが微笑んだ。
「ええ。そのときは、また一緒に冒険しましょう」
「約束だよ!」
◇ ◇ ◇
王都で過ごす最後の数日間。
りんはネネと一緒に、街をたくさん歩いた。
市場でお土産を選び、まだ入ったことのないお店を覗き、気になっていたお菓子を買った。
魔王城の侍女たちには、香りのよい紅茶。
城の料理人には、人間の国で使われている珍しい香辛料。
そして、パパには。
「……これ!」
りんが選んだのは、綺麗な箱に入った焼き菓子だった。
店の主人によれば、王都でも評判のお菓子らしい。
「魔王様も、きっとお喜びになりますね」
ネネが言う。
「うん!」
りんは嬉しそうに箱を抱えた。
「パパ、甘いもの好きだもん!」
そのあとも、りんはあちこちの店を覗いて回った。
気づけば、両手には小さな包みがいくつも増えている。
ネネが呆れたように笑った。
「お嬢。そろそろ荷物がいっぱいですよ」
「えぇ? まだ見たいお店あるのに!」
「帰りの荷物のことも考えてください」
「うぅ……」
りんは名残惜しそうに店先を振り返った。
でも、すぐに笑顔になる。
「じゃあ、次に来たときのお楽しみにする!」
「それがよろしいですね」
ネネも微笑んだ。
◇ ◇ ◇
そして、旅立ちの日。
星灯りの宿の主人が、入口まで見送りに出てきてくれた。
「本当に世話になったな!」
主人が大きな声で言う。
「また王都へ来たら、いつでも泊まりに来てくれ!」
「うん! 絶対来る!」
りんは元気よく頷いた。
主人は小さな包みを差し出した。
「道中で食べてくれ。うちの焼き菓子だ」
「わぁっ! ありがとう!」
りんは嬉しそうに受け取った。
ネネが隣で小さく微笑む。
「またお菓子が増えましたね、お嬢」
「えへへ!」
宿の主人に何度も手を振ってから、二人は王都の城門へ向かった。
◇
城門の前には、四人の姿があった。
《暁の空》の仲間たちだった。
「りん! ネネ!」
ライラが手を振る。
「おはよう!」
りんは嬉しそうに駆け寄った。
「みんな、来てくれたの!?」
「当たり前じゃない」
ライラが笑う。
「ちゃんと見送らせてよ」
ガルドが腕を組んで頷いた。
「嬢ちゃんたちには世話になったからな!」
「りんも、みんなにいっぱいお世話になったよ!」
そう答えると、ガルドは豪快に笑った。
「そうかそうか!」
蓮が一歩前へ出る。
「道中は気をつけてな」
「うん!」
「また王都へ来ることがあれば、ギルドに顔を出してくれ」
「もちろん!」
りんは笑顔で頷いた。
その隣で、フィオが少し考えるように口を開いた。
「りん」
「なあに?」
「……ひとつだけ、言っておきたいことがあるの」
りんは首を傾げる。
「なに?」
フィオは少しだけ視線を落とし、それからりんを見た。
「最初に会ったとき、私はあなたのことを警戒していたわ」
りんが目を瞬いた。
「……そうだったの?」
「ええ。あなたの魔力が、どうしても理解できなかったから」
フィオは小さく苦笑した。
「今でも、分からないことばかりだけれどね」
「そうなの?」
「そうよ」
りんは不思議そうな顔をした。
フィオは、そんな少女を見つめながら続ける。
「でも、一緒に冒険して分かったこともあるわ」
「なに?」
「あなたが、困っている誰かを放っておけない子だってこと」
りんは、ぱちぱちと瞬いた。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「……えへへ」
フィオも小さく微笑んだ。
「また会いましょう、りん」
「うん!」
りんは大きく頷いた。
「フィオさんも、元気でね!」
◇
最後に、蓮が右手を差し出した。
「また一緒に冒険しよう」
りんは、その手を両手で握った。
「うん! 約束!」
しっかりと握手を交わす。
ライラも、ガルドも、フィオも。
みんな、笑っていた。
りんはネネの方を振り返る。
「ネネ!」
「はい、お嬢」
「また、ここに来ようね!」
ネネは柔らかく微笑んだ。
「ええ。ぜひ」
そして。
りんとネネは、王都を後にした。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車は、来たときよりも荷物が増えていた。
お土産の箱。
旅先で買った小物。
冒険者ギルドで受け取った報酬。
そして、星灯りの宿でもらった焼き菓子。
りんは窓際に座り、流れていく景色を眺めていた。
街道の両側には、緑の草原が広がっている。
遠くには、森と山並み。
空には白い雲がゆっくり流れていた。
「……ねえ、ネネ」
「なんですか、お嬢」
「りん、人間の国に来てよかった」
ネネが、そっと目を細めた。
「そうですか」
「うん!」
りんは窓の外を見ながら続ける。
「最初はね、ただ見てみたかっただけなんだ」
魔王城にいた頃。
本で読んだ、人間たちの暮らし。
賑やかな街。
冒険者ギルド。
美味しそうな食べ物。
どれも、ずっと憧れていた。
「でも、実際に来てみたら、思ってたのと違うこともいっぱいあった」
「そうですね」
「怖いこともあったし、嫌な人もいたし……」
りんは少し考えた。
「でも、優しい人もいっぱいいた!」
ネネは静かに頷いた。
「ええ」
「人間も魔族も、いろんな人がいるんだね」
「はい。種族だけで、その人のすべてが決まるわけではありませんから」
「うん!」
りんは嬉しそうに笑った。
「りん、もっといろんな人に会ってみたい!」
ネネは、その横顔を見つめていた。
出発した頃と、同じ笑顔。
けれど、その瞳には今まで知らなかった世界が映っている。
魔王城の外に広がる、人間たちの暮らし。
出会った仲間たち。
旅の途中で経験した、さまざまな出来事。
それらは、きっとこれからもりんの中に残り続けるのだろう。
「……また、旅をしましょうね」
ネネが静かに言った。
りんが振り返る。
「ほんと!?」
「はい。もちろん、魔王様のお許しが出ればですが」
「うっ……」
りんは少しだけ黙った。
そして。
「……帰ったら、いっぱいお願いしよう!」
すぐに笑顔になった。
ネネは小さくため息をついた。
「……ほどほどにしてくださいね、お嬢」
◇ ◇ ◇
数日後。
遠くに、懐かしい魔王城の尖塔が見えてきた。
黒い城壁。
大きな門。
空へ伸びるいくつもの塔。
りんは馬車の窓から身を乗り出しかけた。
「ネネ! 見て見て! お城だよ!」
「はい、お嬢。見えていますから、窓から落ちないでくださいね」
「落ちないよぉ!」
そう答えながらも、りんの顔は嬉しそうだった。
帰ってきた。
自分の家へ。
大好きなパパが待つ、魔王城へ。
馬車が城門へ近づくと、門番たちが二人の姿に気づいた。
「姫様!」
「ネネ様も! お帰りなさいませ!」
大きな城門がゆっくりと開く。
りんは、笑顔で手を振った。
「ただいまー!」
◇
馬車が中庭に入ると、城の使用人たちが集まってきた。
久しぶりに見る懐かしい顔ばかりだ。
「姫様! ご無事で何よりです!」
「お帰りなさいませ!」
「お疲れではございませんか?」
りんは、次々に声をかけられながら笑った。
「みんな、ただいま!」
そのとき。
城の奥から、大きな足音が聞こえてきた。
「りん!!」
聞き慣れた声だった。
りんが振り返る。
「パパ!」
魔王が、両腕を広げて駆け寄ってきた。
「りん! よくぞ帰った!」
そして、そのまま娘をぎゅっと抱きしめる。
「ぐえっ……!」
「おお、すまんすまん!」
魔王は慌てて腕の力を緩めた。
それでも、りんの顔を見つめたまま離れようとしない。
「怪我はしておらんか? 病気などしておらんだろうな? 食事はきちんと取っていたか?」
「もう、パパってば!」
りんはくすくす笑った。
「りん、ちゃんと元気だよ!」
「そうか……!」
魔王は、心底安心したように息を吐いた。
そして、そばに立つネネへ目を向けた。
「ネネ。りんを無事に連れ帰ってくれて感謝する」
ネネは丁寧に頭を下げた。
「もったいないお言葉です、魔王様」
「旅の方はどうだった?」
その問いに、りんの目が輝いた。
「聞いて聞いて、パパ!」
魔王が微笑む。
「おお、なんだ?」
「りんね、冒険者になったんだよ!」
「ほう! それはよかったな!」
「それから薬草を摘んで、スライムにも会って!」
「うむうむ!」
「ゴブリンの巣にも行って!」
「……ん?」
魔王の笑顔が、少しだけ固まった。
「それでね、村が襲われてたから助けに行ったの!」
「……待て、りん」
「あと、宿も火事になりそうで!」
「りん?」
「それから悪い魔族がいて、みんなで戦ったんだよ!」
「…………」
魔王は、ゆっくりとネネを見た。
ネネは姿勢を正したまま、静かに答えた。
「すべて事実でございます」
しばらくの沈黙。
そして。
「な、なんだとぉぉぉ!?」
魔王城の中庭に、魔王の叫び声が響き渡った。
「えぇ!? パパ、声大きいよ!」
「村が襲われただと!? 火事だと!? 魔族と戦っただと!?」
「でも、もう全部終わったよ!」
「そういう問題ではない!」
魔王は頭を抱えた。
「りん! 父は、父はな……!」
「う、うん?」
「おまえに人間の国を楽しんできてほしかったのであって、危険な事件に巻き込まれてほしかったわけではないのだ!」
「それは、りんもそうだったよぉ!」
ネネが小さく咳払いした。
「魔王様。お嬢は危険な状況でも、誰かを助けるために行動されておりました」
「分かっておる! それがりんの良いところだということも分かっておる!」
魔王は、りんをぎゅっと抱きしめ直した。
「だが、心配するものは心配するのだ!」
りんは少しだけ目を丸くした。
それから、そっと笑う。
「……心配かけて、ごめんね」
魔王の表情が和らいだ。
「……ああ」
大きな手が、りんの頭を優しく撫でる。
「無事に帰ってきてくれて、何よりだ」
りんは、嬉しそうに頷いた。
「うん! ただいま、パパ!」
◇ ◇ ◇
その日の夕食は、いつも以上に賑やかだった。
りんは王都で買ってきたお土産を広げ、旅先での出来事を次々に話した。
初めて入った冒険者ギルド。
星灯りの宿の美味しいご飯。
薬草摘みの依頼。
《暁の空》の仲間たち。
話したいことは、いくらでもあった。
魔王は最初こそ心配そうにしていたものの、娘の楽しそうな様子を見ているうちに、少しずつ表情を和らげていった。
「……そうか。良い仲間に恵まれたのだな」
「うん!」
りんは大きく頷いた。
「蓮さんも、ライラさんも、ガルドさんも、フィオさんも、みんな優しかった!」
「そうか、そうか」
魔王は嬉しそうに微笑んだ。
「ならば、その者たちにも感謝せねばならんな」
「うん! また会いたいなぁ!」
その言葉に、魔王の手がぴたりと止まった。
「……また?」
「うん!」
りんは、にこにこと笑う。
「だからね、パパ!」
「……なんだ?」
「また人間の国へ行ってもいい?」
沈黙。
ネネは、そっと紅茶のカップを持ち上げた。
魔王は、しばらく娘を見つめていた。
そして。
「……りん」
「なあに?」
「帰ってきたばかりではないか」
「そうだけど!」
「もう少し、父と一緒にいてくれてもよいのではないか?」
その声が少し寂しそうだったので、りんは目を瞬いた。
そして、にこっと笑った。
「もちろん! りん、しばらくパパと一緒にいるよ!」
「おお……!」
魔王の顔が、一気に明るくなる。
「そうか! そうか!」
「でも、そのあとまた旅に行きたい!」
「…………」
ネネは静かにカップを置いた。
魔王は、深く息を吸い込んだ。
「……その話は、また今度にしよう」
「えぇぇ!?」
りんの声が、食堂に響き渡った。
◇ ◇ ◇
夜。
魔王城の自室へ戻ったりんは、窓辺に腰かけていた。
空には、たくさんの星が輝いている。
魔王城から見る夜空。
王都で見上げた夜空。
どちらも、同じ星が瞬いている。
りんは、しばらく黙ってその景色を眺めていた。
人間の国で過ごした日々が、次々と思い出される。
賑やかな王都の通り。
星灯りの宿。
冒険者ギルド。
森の中で出会ったゴブリンたち。
傷ついた村人たち。
そして、一緒に戦った仲間たち。
楽しいことばかりではなかった。
怖いこともあった。
悲しいこともあった。
嫌なこともあった。
それでも。
「……また、行きたいなぁ」
りんは小さく呟いた。
そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「お嬢、まだ起きていらっしゃいますか?」
「ネネ!」
りんが振り返る。
扉を開けて入ってきたネネは、いつものように穏やかな表情をしていた。
「そろそろお休みの時間ですよ」
「うん。でも、もうちょっとだけ」
りんは窓の外を指さした。
「星、見てたの!」
ネネも窓辺へ歩み寄った。
「綺麗ですね」
「うん!」
二人は並んで夜空を見上げた。
しばらくの間、静かな時間が流れる。
やがて、りんがぽつりと呟いた。
「ねえ、ネネ」
「なんですか、お嬢」
「りんね、人間の国に行く前より、もっと外の世界が好きになったよ」
ネネが、そっと目を細めた。
「そうですか」
「うん!」
りんは嬉しそうに笑った。
「知らないこと、まだまだいっぱいあるんだね!」
「ええ。世界は広いですから」
「じゃあ、また一緒に行こうね!」
ネネは少しだけ笑った。
「魔王様のお許しが出ましたら、喜んでお供いたします」
「えへへ。約束だよ!」
「はい。約束です」
りんは、もう一度夜空を見上げた。
魔王城に帰ってきた。
大好きなパパにも会えた。
ネネも隣にいる。
そして、遠い人間の国には、また会いたい仲間たちがいる。
帰る場所も、旅に出たい場所もある。
それが、なんだかとても嬉しかった。
◇ ◇ ◇
魔王の娘。
それは、魔族の世界では特別な存在。
強大な魔力を持ち、誰もが一目置く魔王の愛娘。
けれど、本人はそんなことをあまり気にしていない。
美味しいものが大好きで。
知らないものを見つけると、すぐに目を輝かせて。
困っている人がいれば、放っておけない。
そんな、少しだけ変わった女の子。
人間の国への初めての旅は、思いがけない事件と、たくさんの出会いに満ちていた。
知らなかった世界を知り、仲間と力を合わせ、誰かを助ける喜びを覚えた。
そして、ようやく帰ってきた魔王城。
きっと明日からは、またいつもの日常が始まる。
過保護な魔王パパ。
しっかり者のネネ。
そして、今日も新しいことを見つけたくて仕方がない、魔王の娘。
そんな日々は、これからも続いていく。
◇
「……ねえ、ネネ!」
ベッドに入ったりんが、突然声を上げた。
「なんですか、お嬢」
「次は、どこの国に行こうかな!」
ネネは、ぴたりと動きを止めた。
「……お嬢」
「なあに?」
「まずは、魔王様にお許しをいただいてから考えましょう」
「えぇ〜! 考えるだけならいいじゃん!」
「……それもそうですね」
ネネは小さく笑った。
「では、どこへ行きたいのですか?」
りんは嬉しそうに身体を起こした。
「えっとね!」
目を輝かせながら、指を折って数え始める。
「海も見たいし、大きな山にも行きたいし、雪がいっぱい降る国にも行ってみたい!」
「……ずいぶんたくさんありますね」
「だって、世界って広いんでしょ?」
その言葉に、ネネは少しだけ目を丸くした。
そして、優しく微笑んだ。
「……はい。とても広いですよ」
りんは、満足そうに笑った。
「じゃあ、全部行きたい!」
ネネは、とうとう声を出して笑ってしまった。
「ふふっ……本当に、お嬢らしいですね」
りんもつられて笑った。
窓の外では、星が静かに瞬いている。
まだ見ぬ世界。
まだ出会っていない人たち。
きっと、これからもたくさんの冒険が待っている。
でも、今夜は。
大好きな家で、ゆっくり眠ろう。
そして明日になったら、また新しい夢を見つけよう。
りんは布団を胸元まで引き上げ、にこっと笑った。
「おやすみ、ネネ!」
「おやすみなさい、お嬢」
静かに扉が閉まる。
星明かりが、部屋を優しく照らしていた。
こうして、ちょっとだけ最強な魔王の娘の、初めての人間の国への冒険は、ひとつの終わりを迎えた。
けれど、少女の好奇心に終わりはない。
きっといつか、また新しい世界へ。
大好きな仲間と一緒に。
笑顔いっぱいで、旅に出るのだろう。
『魔王の娘』 完




