40 影に潜む者 7
捕まえた下位魔族の男は、最初のうちはずっとふてくされていた。
縄で縛られたまま椅子に座らされ、ギルドの奥の小部屋に押し込まれても、視線だけは妙にふてぶてしい。
「……で? 俺を捕まえて、満足かよ」
口元を歪めて、わざとらしく鼻で笑う。
りんは、その顔を見るたびに胸の奥がざわついた。
この男のせいで、村が焼かれかけた。
宿も危なかった。
たくさんの人が怖い思いをした。
それなのに、悪びれた様子がない。
でも――
その目の奥に、別の色もあるのを、りんは見てしまった。
いらだち。
強がり。
そして、少しだけ混じる怯え。
◇ ◇ ◇
部屋の中には、蓮、フィオ、ネネ、りんの四人がいた。
ガルドとライラは外で待機している。
何かあればすぐに動けるように。
フィオが机の上に、回収した板と鳴子の金具を並べた。
「もう一度聞くわ。古い水門で、誰と何を受け渡す予定だったの?」
男はそっぽを向く。
「知らねぇよ。運べって言われたから運んでただけだ」
「そう」
フィオの声は静かだった。
静かすぎて、逆に冷たい。
「じゃあ、これは?」
木板を指先で示す。
そこに刻まれた印を見て、男の眉がほんの少しだけ動いた。
ネネが小さく言う。
「動きましたね」
「……うるせぇな」
男は吐き捨てるように言ったが、その声音にはさっきほどの余裕がなかった。
蓮が短く口を開く。
「古い水門で、受け渡しがある。そこまではお前が漏らした」
「漏らしてねぇよ」
「顔に出た」
それだけで、男の口元がひきつった。
りんは思わず、ネネを見た。
ネネは表情を変えないまま、男を見下ろしている。
「末端なら、もう少し雑に開き直るでしょうね」
ネネの声はやわらかい。
でも、逃がす気がない。
「手先は、妙なところで“上”を気にします。そこが分かりやすいのです」
男が舌打ちした。
「……ほんと、気分悪ぃな」
フィオがわずかに目を細める。
「それはこっちの台詞よ」
◇
しばらく黙っていた男が、ふいに低く笑った。
乾いた、嫌な笑い方だった。
「どうせ行くんだろ、あんたら」
蓮が答えない。
男はその沈黙を、図星だと受け取ったらしい。
「なら急いだ方がいいぜ。あの人、待つの嫌いだからな」
りんの心臓がどくんと鳴る。
「あの人って……」
男は、しまった、という顔をした。
でも、もう遅い。
フィオが低く問う。
「女なのね」
男は唇を噛んだ。
そして、吐き捨てるように言う。
「……だから何だよ」
ネネの耳が、ぴくりと動く。
「今日中に行かなければ、空になる。そういうことですね」
男は何も言わない。
けれど、その沈黙が何より分かりやすかった。
蓮が一歩だけ前に出る。
「水門だな」
男は視線を逸らした。
「……行ったって無駄だ。俺が捕まった時点で、たぶんもう――」
そこまで言って、口をつぐむ。
フィオが静かに言った。
「撤収に入る」
男は答えない。
でも、その顔が答えそのものだった。
◇ ◇ ◇
古い水門へ向かう道は、王都の外れを回り込むように続いていた。
森の中とは違う冷たさがある。
石。
苔。
湿った空気。
流れているのか淀んでいるのか分からない、水の匂い。
りんは、古びた石組みを見上げた。
「……近いね」
思った以上に、王都のすぐ外だった。
人が少し足を伸ばせば来られる距離。
それなのに、人気がない。
蓮が周囲を見回す。
「使うにはちょうどいい場所だ」
「ええ」
フィオが頷いた。
「王都に近い。けれど目立たない。逃げ道もある」
ライラが崩れた石段の上から下を覗き込んだ。
「下、かなり広いよ。荷の受け渡しくらいなら余裕」
ガルドが鼻を鳴らす。
「気に入らねぇ場所だな」
ネネが小さく息を吐いた。
「手先が動くには向いています」
りんは喉が乾くのを感じた。
ここまで来てる。
敵はもう、遠くない。
◇ ◇ ◇
水門の下は、ひんやりとしていた。
崩れた足場。
湿った石壁。
古い水路の溝。
足音が反響する。
蓮が手で合図を出し、全員が散る。
ライラは高い足場へ。
ガルドは正面の退路を潰せる位置。
フィオは入口側で術式の準備。
ネネは、りんの一歩前。
「お嬢、見失わないでくださいね」
「うん」
りんは頷く。
緊張で指先が冷たい。
でも、足は震えていない。
前より、ちゃんと立てている。
◇
しばらくすると、遠くで水音とは違う音がした。
石を踏む、軽い音。
それから、誰かが舌打ちする気配。
「……遅いのよ」
女の声だった。
高くはない。
でも、妙に耳に残る声。
ぞくり、と背中が冷える。
りんは思わず息を止めた。
ネネの耳がぴんと立つ。
「来ました」
次の瞬間、石柱の向こうから影が二つ現れた。
一つは、小柄な人影。
もう一つは、その半歩後ろを歩く、背の低い女。
女は長い外套を羽織っていて、顔の上半分を薄い布で隠していた。
それでも分かる。
口元が、笑っていない。
目も、笑っていない。
冷たい、というより、悪意が整っている顔だった。
りんは直感で思った。
(この人、嫌だ)
理由はうまく言えない。
でも、見た瞬間に分かる種類の嫌な感じだった。
◇
女は、水門の影に立ったまま、苛立ったように周囲を見回した。
「まだ来ないの?」
隣の小柄な影が、怯えるように答える。
「……その、まだで」
「使えないわね」
声は大きくない。
でも、それだけで空気が冷える。
「一人捕まったくらいで動きが鈍るなんて、笑えないわ。おまえたちの失敗なんだから、おまえたちで片付けなさい」
その言い方に、りんの胸の奥がひゅっとした。
人のことも、ゴブリンのことも、仲間のことすら、ただの道具みたいに言う。
ネネが小さく呟く。
「……あれですね」
フィオも低く言う。
「ええ。質が違う」
蓮の視線が鋭くなる。
◇ ◇ ◇
女は足元の石を軽く蹴った。
「王都の連中も、少しは面白い動きをしてくれると思ったのだけれど」
唇の端だけで笑う。
「宿一つ守ったくらいで、図に乗られても困るのよ」
ライラの眉がぴくりと動く。
ガルドが低く唸った。
りんは、その言葉に胸が熱くなるのを感じた。
守れたことを、こんなふうに踏みにじるみたいに言うなんて。
でも、怒鳴ったりはしない。
ただ、嫌だと思った。
◇
女が小柄な影に手を差し出す。
「荷は?」
「こ、ここに……」
包みを受け取ろうとした、その瞬間。
蓮が動いた。
「今だ!」
ライラの矢が石柱に当たり、甲高い音を立てる。
ガルドが正面へ飛び出し、退路を塞ぐ。
フィオの術式が水路の床に走る。
女はすぐに反応した。
「……へぇ」
小さく笑う。
驚いているのに、楽しんでいるようでもある。
その余裕が、また嫌だった。
小柄な影――手先の男は、慌てて包みを抱えたまま後退する。
ネネが一歩で間合いを詰めた。
「行かせません」
男が短剣を抜く。
ネネの爪がそれを払う。
金属音。
女はその横で、わざとらしくため息をついた。
「本当に使えない」
◇ ◇ ◇
戦いは、一気に始まって、一気に散った。
女は本気で戦わない。
それがすぐに分かる。
様子を見て、道具を回収して、逃げる気だ。
フィオの拘束が床を這う。
女はそれを軽く避ける。
ライラの矢が飛ぶ。
女は身をひねってかわす。
蓮が距離を詰める。
だが、女は正面から受けない。
「……面倒ね」
その一言だけ残して、石壁の影へ滑るように下がる。
りんは一瞬だけ目を見開いた。
速い。――でも、追えないほどじゃなかった。
ただ、“嫌なやり方”に慣れている。
◇
一方で、小柄な手先の男は逃げ切れなかった。
ガルドの盾が道を塞ぎ、ライラの矢が足元を止め、フィオの術が絡みつく。
ネネが肩を掴んで引き倒す。
「離せ……!」
「離しません」
そのまま石床に押さえつけられ、男はもがく。
りんがそちらへ気を取られた、その隙に――
女が小さな刃を投げた。
狙いは、拘束された男。
りんの背筋が凍る。
「だめっ!」
声と一緒に身体が動く。
何をどうしたのか、自分でも分からない。
でも、刃は男の喉元に届く前に、石床へ落ちた。
女が、初めてほんの少しだけ目を細めた。
「……なに今の」
低い声。
りんは答えられない。
自分でも分かっていないからだ。
ただ、“死なせたくない”と思った。
◇
女は小さく舌打ちした。
「面倒なのがいるわね」
その視線が、初めてちゃんとりんに向く。
冷たい。
薄く笑っている。
でも、その奥で、少しだけ“覚えた”顔をした。
ネネがすぐにりんの前へ出る。
「お嬢に近づかないでください」
女は肩をすくめた。
「別に。今日はここまででいいわ」
そう言って、踵を返す。
蓮が踏み込む。
でも、女はその前に水路の影へ滑り込んだ。
石の向こう、細い抜け道。
最初から用意していた逃げ道だ。
ライラの矢が一本、外套の裾を裂く。
それだけ。
女の姿は、すぐに闇へ消えた。
◇ ◇ ◇
残されたのは、拘束された男と、包み、それから散らばった荷の一部だった。
フィオがそれを拾い上げる。
「印板。鳴子の予備。……それと、水門の奥の印」
蓮が男を見下ろす。
「逃げなかったな」
男は青ざめた顔で、荒い息をしている。
さっきまでの強がりは、もうどこにもない。
「お、俺を置いていきやがった……」
かすれた声だった。
ネネが冷たく言う。
「切り捨てられる側だったのですね」
男は何も言い返せない。
りんは、その顔を見て胸の奥が少しだけ痛くなった。
性格は悪い。
でも、それでも。
使われて、捨てられるのは、やっぱり嫌だ。
◇
蓮が包みの中身を改めて確認する。
その中に、小さな板が一枚混じっていた。
他より上質な木。
印も、少し細かい。
フィオがそれを受け取り、目を細める。
「……次の場所ね」
「どこ?」
りんが聞くと、フィオは短く答えた。
「王都外周の倉庫群。その手前」
ネネが小さく言う。
「本当に近いですね」
蓮は板を地図に重ねた。
「次はここだ」
ガルドが低く唸る。
「いよいよって感じだな」
ライラが、女の消えた方向をちらりと見た。
「あれ、絶対また出るよね」
「出ます」
ネネの声には迷いがなかった。
「末端を切り捨てても、自分は残るつもりです。そういう女です」
りんは、胸の奥に残る嫌な感じを思い出す。
あの女は、壊すことを楽しんでいる。
少なくとも、傷つくことをなんとも思っていない。
それが、今までの“見えない影”とは違った。
ちゃんと、嫌な相手だ。
◇ ◇ ◇
帰り道。
空は夕方の色に変わり始めていた。
王都の壁が、やわらかな光を受けている。
守りたい色だ、とりんは思う。
ネネが隣で言った。
「お嬢、大丈夫ですか」
「……うん」
少し考えてから、りんは続けた。
「でも、あの女は嫌」
ネネがわずかに目を細める。
「ええ。りんの感覚は正しいと思います」
蓮が前を見たまま言う。
「次は倉庫群だ。そこで、もっと近づく」
フィオが静かに続ける。
「逃がしてもいい。でも、今度は道具も場所も、もっと削れる」
ライラが息を吐く。
「顔が見えたのは大きいね」
ガルドが盾を軽く叩いた。
「ぶん殴りがいのある相手ってことだ」
りんは指先を握った。
助けたい。
止めたい。
増やしたくない。
その気持ちは、今度こそはっきりしていた。
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