39 影に潜む者 6
翌朝の空は、思っていたより明るかった。
昨日までの森の冷たさが、まだ胸の奥に残っているのに、王都の朝は何事もなかったみたいに始まっていく。
店先にはパンの匂い。
通りには荷車の音。
人の声も、笑い声も、ちゃんとある。
それが少しだけ嬉しくて、同じくらい怖い。
守りたいものは、こうして当たり前みたいにそこにあるからだ。
りんは歩きながら、そっと息を吐いた。
「……今日、行くんだよね」
隣を歩くネネが頷く。
「はい。昨日見つけた板の記号からすると、次の接点は古い水路のあたりです」
「水路……」
「王都の外れに、今は使われていない石造りの古い通路があります。人目につきにくく、受け渡しには向いています」
りんは小さく頷いた。
怖くないわけじゃない。
でも、足は止まらない。
◇ ◇ ◇
ギルドの前には、すでに《暁の空》が揃っていた。
蓮は壁にもたれたまま腕を組み、ライラは小さな地図を指先で弾いている。ガルドは大盾を立てて軽く体をほぐし、フィオは黙って杖を持ったまま足元に視線を落としていた。
りんとネネに気づくと、蓮が短く顔を上げる。
「来たな」
「うん」
りんが答えると、ライラが少しだけ笑った。
「今日は“待つ”より“押さえる”感じね」
フィオが静かに言う。
「古い水路は道が狭い。逃げ道も限られる。……やるなら今日がいいわ」
ネネが小さく続けた。
「末端が直接動くには、少し使いにくい場所です。だからこそ、手先が出る可能性があります」
ガルドが鼻を鳴らす。
「やっと顔が見える相手ってわけだな」
蓮は全員を見回して、短く言った。
「深追いはしない。押さえられるなら押さえる。無理なら、動きだけ掴んで戻る」
その言葉に、りんは少しだけ肩の力が抜けた。
全部を今日終わらせるわけじゃない。
でも、ちゃんと前には進む。
◇ ◇ ◇
古い水路は、王都の外れの林の向こうにあった。
地上に少しだけ顔を出した石造りの壁。
崩れかけた段差。
苔の生えた水路跡。
昔は水が流れていたのだろう。今は細い水が、かすかに底を濡らしているだけだ。
「……なんか、じめっとしてる」
りんが呟くと、ライラが肩越しに振り返った。
「こういう場所、好きな連中いるのよね。人に見つかりにくいし」
「趣味が悪いですね」
ネネが言う。
フィオはしゃがみ込み、石の継ぎ目に指を添えた。
「新しい傷。荷を擦った跡がある」
蓮が目を細める。
「使われてるな」
ガルドが周囲を見回した。
「張るなら、どこだ?」
蓮は少し考え、それから手短に配置を決めた。
「ライラは上。フィオは入口側を見てくれ。ガルドは逃げ道を塞げる位置。ネネはりんの側で、近づいたやつがいれば止める」
「了解」
「分かったわ」
「任せろ」
「承知しました」
りんは最後に蓮を見る。
「りんは?」
蓮は少しだけ表情を和らげた。
「無理に前には出るな。……でも、必要なら頼る」
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
水路の空気は、時間が止まったみたいに静かだった。
遠くで鳥が鳴く。
葉が擦れる。
水がぽたりと落ちる。
それだけ。
りんはネネの隣で、息を潜めていた。
「……ほんとに来るかな」
小さく言うと、ネネが耳だけをぴくりと動かした。
「来ます」
「え」
「匂いが変わりました。油と、……魔族の匂いです」
りんの胸がどくんと鳴った。
次の瞬間、フィオが低く言う。
「来た」
◇
最初に見えたのは、影だった。
水路の奥、崩れた石壁の向こうから、細い人影がひとつ滑り出る。
ゴブリンじゃない。
人の形をした魔族。
男だ。
背は高くないが、痩せた体に妙な軽さがある。黒っぽい上着の裾をひるがえし、顔には鼻先まで隠す布。目だけが細く光っていた。
その手には、小さな包みがある。
油布か、鳴子か、何かの部品か。
男は周囲を見回し、誰もいないと思ったのか、小さく鼻で笑った。
「ったく、面倒ばっか増やしやがって」
声は若い。
でも、言い方に嫌なねばりがある。
「こんなとこまで来させるなんてよ……あの女も好き勝手言ってくれる」
りんは思わず息を呑んだ。
(あの女)
ネネがわずかに目を細める。
フィオの気配も変わった。
蓮はまだ動かない。
男は包みを石の隙間に押し込み、ぶつぶつと独り言を続けた。
「どうせ俺がいなきゃ、あいつらなんて何もできねえくせに。ゴブリンも人間も、まとめて転がせばいいだけだろ」
その言い方に、りんの胸がひやっとする。
軽い。
命を数でしか見ていないみたいに軽い。
男はさらに鼻で笑った。
「ま、いいか。次で派手にやれりゃ、さすがに文句も――」
「――そこまでだ」
蓮の声が落ちた。
男がはっと顔を上げる。
次の瞬間、ライラの矢が足元に突き立った。
「うわっ!?」
飛び退いた男の前に、ガルドが盾を叩きつけて道を塞ぐ。
「逃がすかよ!」
フィオの術が地面を走り、淡い光の鎖が男の足首へ絡みつく。
「止まりなさい」
男は舌打ちした。
「ちっ……最悪だな」
鎖を振りほどこうと身をひねる。
動きは速い。
でも、余裕があるわけじゃない。
ネネがりんの前に半歩出る。
「お嬢、下がって」
「う、うん」
りんは頷きながらも、目を逸らさなかった。
◇ ◇ ◇
男は小さな刃を抜いた。
正面から勝つ気はない。
逃げるための刃だ。
蓮が距離を詰める。
男は即座に後ろへ跳び、水路の壁を蹴って横へ流れた。
「はっ、捕まえられるかよ!」
その瞬間、ライラの二射目が飛ぶ。
肩口をかすめ、布が裂ける。
男が顔をしかめる。
「っ……!」
ガルドが前へ出る。
だが男は盾のぶつかる寸前で体を沈め、水路の低い石壁の向こうへ滑り込もうとした。
「ネネ!」
蓮が呼ぶより早く、ネネが動く。
猫みたいに軽く、真横へ。
男の手首を払う。
刃が落ちる。
「本当に、行儀の悪い手先ですね」
ネネの声音は静かだったが、ちっとも優しくない。
男は歯を剥いた。
「うるせぇな、猫もどき!」
その瞬間、ネネの目がわずかに冷えた。
「今のは、聞き捨てなりませんね」
りんは、あ、と思った。
ちょっと怒ってる。
◇
男はネネを振りほどこうと無理に腕をひねり、その拍子に自分で自分の肩を変な角度にぶつけた。
鈍い音。
「いっ……!」
ネネはすぐに手を離し、逆にその隙を蓮が拾う。
柄で腹に一撃。
男が膝をつく。
フィオの拘束が重なる。
「もう動かないで」
地面から伸びた術式が、今度は両足と片腕をきっちり縛った。
ガルドが盾を下ろして鼻を鳴らす。
「はい、一丁上がりだ」
男は荒い息をつきながら、睨み上げる。
「……くそっ」
りんは、その肩のずれた感じと、擦りむいた腕が気になってしまった。
気になると、もうだめだ。
身体が勝手に前へ出る。
「ちょ、ちょっと見せて」
男が目を剥く。
「はぁ!?」
ネネがちらりとりんを見たが、止めない。
りんの手が男の肩に触れる。
「いった……そうだから」
そう言った瞬間には、ずれていた位置が戻っていた。
男が固まる。
「……は?」
擦りむいた腕も、ついでみたいに塞がっている。
ライラが小さく吹き出した。
「敵まで治すんだ」
「だって、痛そうだったし……」
りんは困ったように笑った。
男はまだ呆然としている。
たぶん、一番混乱しているのは本人だ。
◇ ◇ ◇
「で?」
蓮が淡々と言った。
「誰の命令で動いてる」
男はすぐに顔をしかめ、強がるように笑った。
「命令ぃ? 別に、好きでやってるだけだよ」
フィオが冷たく言う。
「嘘ね」
男の視線が、一瞬だけ揺れた。
それだけで十分だった。
ネネが静かに続ける。
「末端を使って、火を回し、道を作り、印で縛る。手先が単独で思いつくには、少し整いすぎています」
男は舌打ちする。
「……知ったようなこと言うなよ」
「図星ですか?」
ネネの言葉は柔らかいのに、逃がしてくれない。
男は視線をそらした。
「俺は、言われた通り運んでるだけだ。面倒な火種とか、印とか、そういうのをな」
りんが思わず聞く。
「誰に?」
男は黙った。
でも、口を閉ざすより先に表情が動く。
嫌そうに。
少し怯えるように。
ライラがそれを見て、低く言った。
「……女?」
男がぴくっと反応した。
分かりやすい。
ガルドが肩をすくめる。
「おいおい、顔に出すぎだろ」
男は睨み返した。
「うるせぇよ。あんたらには関係ないだろ」
蓮が一歩だけ近づく。
「関係ある。村も宿も燃やされかけた」
男は鼻で笑おうとして、でもうまくいかなかった。
さっきより明らかに余裕がない。
◇
フィオが、石の隙間に押し込まれていた包みを拾い上げる。
中を開いて、目を細めた。
「……鳴子の金具。油布。それと印の板」
ネネがそれを見て、静かに言った。
「受け渡しですね」
男は目をそらす。
「別に珍しくもねぇだろ」
「ええ。だからこそ、次の場所もあるのでしょう」
その一言に、男の肩がわずかに跳ねた。
りんでも分かった。
今のは、当たりだ。
蓮が低く聞く。
「どこだ」
男は唇を噛む。
すぐには言わない。
でも、隠し通せるほど強くもない。
「……古い水門の先だよ」
絞り出すような声。
「王都に近い方の、閉じた水路。あそこに寄せろって言われてる」
フィオが顔を上げる。
「王都近郊ね」
ネネが小さく息を吐いた。
「近づいています」
りんの胸が、どくんと鳴った。
◇ ◇ ◇
帰る頃には、空が少し赤くなっていた。
水路の湿った匂いを背に、六人と拘束された男は王都への道を戻る。
男は黙っていた。
強がる気力も、少し薄れている。
りんはその背中を見ながら思う。
性格は悪い。
やってることも嫌だ。
でも、それでも――
(この人も、使われてる側なんだ)
そう思うと、少しだけ胸の奥が重くなった。
ネネが隣で、小さく言った。
「お嬢、あまり抱え込みすぎないでください」
「……分かってる」
りんは小さく頷いた。
ほんとは、あまり分かってない。
でも、助けたいと思う気持ちは止まらない。
蓮が前を見たまま言う。
「次は古い水門だ。……そこでもう一段近づく」
ライラが細く息を吐く。
「ようやく、顔の見えない相手じゃなくなってきたわね」
フィオが静かに答える。
「まだ“手”の先だけよ。でも、それで十分」
ガルドが笑う。
「十分だ。殴る相手がはっきりしてきた」
りんは空を見上げた。
夕焼けが、王都の壁をやわらかく染めている。
守りたい。
止めたい。
増やしたくない。
その気持ちは、前よりも少しだけ、形になっていた。
⸻




