38 影に潜む者 5
王都に戻っても、空気は軽くならなかった。
むしろ、街の音があるぶんだけ、重さがはっきりする。
笑い声。
荷車の軋む音。
店先の呼び声。
――これが壊されたら嫌だ、という気持ちが、前より鮮明になる。
りんは城壁を見上げて、唇を噛んだ。
(守りたい)
理由はそれだけで足りるのに、相手は見えない。
◇ ◇ ◇
ギルドの応接用の部屋。
テーブルの上には、布切れと、写し取った印と、小さな笛。
それから、油布の欠片がひとつ。
フィオがそれらを並べながら言った。
「相手は柔らかい。道具が潰れたら、合図を変える。道が切れたら、別の道を作る」
淡々とした声なのに、内容が嫌に冷たい。
ライラが椅子にもたれた。
「つまり、末端が一つじゃない」
ガルドが鼻を鳴らす。
「図に乗った末端が何人もいるってことか」
ネネが静かに頷いた。
「末端の魔族だけなら、ここまで揃いません。指示がある。……その上がいます」
蓮は地図を広げた。
村。
村。
宿。
森の中継点。
補給穴。
点が増え、線が重なっている。
「次は、火役を追うんじゃない」
蓮が言う。
「補給と指示の接点を探す。……根を辿る」
りんはその言葉を胸の中で転がした。
根。
見えないけど、そこにあるもの。
ネネが小さく言う。
「お嬢、今日は森へ入ります。動きやすい服で」
「うん」
りんは頷いた。
怖い。
でも、足は止まらない。
◇ ◇ ◇
森は、今日も同じ匂いをしていた。
湿った土。
落ち葉。
木の皮。
けれど、そこに混ざる匂いが増えている。
油。
焦げ。
そして――人ではない、魔族の匂い。
「……こっち」
フィオが足を止め、杖の先を地面に当てる。
「残り香がある。薄いけど、続いてる」
ライラが枝の折れ方を見て、舌打ちした。
「また目印。分かりやすいの、逆に嫌」
蓮が短く返す。
「誘ってる」
ネネの耳がぴくりと動く。
「誘いでも、道は道です。辿れます」
ガルドが盾を背負い直した。
「じゃあ、辿るしかねぇな」
りんは、みんなの背中を見ながら歩いた。
(誘われてる)
分かってるのに、行く。
怖いけど、行く。
◇ ◇ ◇
途中で、痕跡が変わった。
折れ枝じゃない。
小石が三つ、きっちり並べられている。
その横に、土が浅く掘られた跡。
フィオがしゃがみ込む。
「……道標の高度が上がってる」
ライラが顔をしかめた。
「調子に乗り始めた?」
ネネが静かに言う。
「いえ。管理する側が変わったのです。……末端ではありません」
蓮が目を細める。
「上が近い」
りんの喉が乾く。
(近い)
その言葉が、息を詰まらせる。
◇
さらに進むと、足跡が混ざった。
ゴブリンの小さな足跡だけじゃない。
靴跡。
人間のものに近い、けれど少し違う歩幅。
ライラが眉を寄せる。
「……これ、ゴブリンじゃない」
フィオが頷く。
「魔族の足跡。人型の」
ネネの尻尾が小さく揺れた。
「やはり」
蓮は何も言わず、歩を早める。
りんも、自然と足が早くなる。
◇ ◇ ◇
風が止んだ。
森が静かになる。
その静けさの中で、かすかな音がした。
ちん、と金属が触れる音。
合図。
笛じゃない。
「……鳴子」
フィオが呟く。
次の瞬間、木陰から影が飛び出した。
ゴブリン――ではない。
人の形。
フードを被っていて顔は見えない。
身軽な装備。
手には短い刃。
動きは速い。
でも、威圧感はない。
強い相手じゃない。
それが、余計に嫌だった。
「止まれ」
蓮の声。
相手は止まらない。
走り抜けるように、横へ抜ける。
目的は戦うことじゃない。
時間を稼ぐ。
逃げる。
「追う!」
ライラが矢を放つ。
足元を狙った矢が地面に刺さり、相手の動きが一瞬だけ鈍る。
その瞬間、ガルドが盾で道を塞ぐ。
「逃がすかよ!」
フィオの術が走る。
淡い鎖が伸び、相手の足を絡め取ろうとする。
けれど――
相手はそれを、ぎり、と刃で切った。
切れる。
「……術式の理解がある」
フィオの声が、わずかに低くなる。
ネネが一歩踏み込み、猫のように距離を詰める。
「待ちなさい」
フードの相手は、ネネの爪を避け、木の陰へ滑り込む。
その動きが、妙に軽い。
(末端の魔族なのに、上手い)
りんは息を呑んだ。
戦いは見えない。
でも、逃げる方向だけは分かる。
◇
その瞬間、ライラが小さく声を上げた。
「落とした!」
地面に、小さな金具が転がっている。
鳴子。
フィオが拾い上げる。
「……合図の本体」
蓮が短く言った。
「追う。近い」
相手は逃げた。
でも、痕跡が残った。
りんは、自分の指先を握った。
怖い。
でも、ここまで来た。
◇ ◇ ◇
逃げた方向へ進むと、森の奥に小さな建物が見えた。
炭焼き小屋ではない。
もっと古い。
石が積まれ、木の扉がついている。
「……ここ」
ネネが呟く。
扉は半分開いていて、中は暗い。
蓮が合図して、全員が身を隠す。
静かに近づき、扉の前で止まる。
フィオが杖を立て、探知する。
「……いない。逃げたあと」
ガルドが舌打ちする。
「ちっ……間に合わなかったか」
蓮が中へ入る。
りんも、ネネの後ろについて入った。
◇
中は、予想より整っていた。
油布がまとめて置かれていた痕。
笛の予備。
鳴子の小さな箱。
印が刻まれた木板。
「テンプレ……」
フィオが低く呟く。
「印をここで作って、配ってる」
ネネが木板を見て、目を細める。
「末端の魔族が勝手に描けるものではありません。……これは“型”です」
蓮が黙って頷く。
ライラが壁を指さした。
「ほら、これ」
壁に、細い線で書かれた記号がいくつか並んでいる。
文字じゃない。
でも、順番がある。
りんはそれを見て、胸の奥がざわついた。
(命令の言葉)
声じゃなくても、命令は届く。
それが怖い。
◇
フィオが息を吐いた。
「ここは根元じゃない。……根元の枝」
蓮が地図を取り出し、場所に印を付ける。
「幹は別にある」
ネネが静かに言った。
「それでも、ここを空にしたのは――焦っているからです」
ガルドが唇を噛む。
「追い詰めてんのか」
ライラが肩をすくめた。
「でも、まだ見えないね。顔も、名前も」
りんは、そっと手を握りしめた。
助けたい。
その気持ちは変わらない。
でも、助けたい人が増える前に――止めたい。
りんは小さく呟いた。
「……もう、増やしたくない」
ネネが、りんの肩に手を置く。
「はい。お嬢はそれでいいのです」
◇ ◇ ◇
帰り道、森の匂いが少しだけ軽く感じた。
錯覚かもしれない。
でも、線の一本に手が届いた感じはする。
フィオが鳴子を布で包みながら言った。
「次はまた合図を変える。……でも、変えられるのは“ある”からよ」
蓮が頷く。
「ある場所を潰す。次は幹だ」
ライラがふっと笑う。
「見えてきたね」
ガルドが盾を叩く。
「ぶん殴る場所が増えるのはいいことだ」
ネネは森の奥を振り返った。
「……近いですね」
りんは空を見上げた。
木々の隙間の青。
綺麗なのに、胸の奥はまだ冷たい。
それでも。
助けたい。
止めたい。
そのために歩く。
りんは、もう一歩だけ踏み出した。
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