25話 数百年後の『悪くない』
「すまない、ちょっといいかな?」
不意に上から降ってきた声に顔を上げると、そこには一人の若い青年が立っていた。
端正な顔立ちに、金髪。わずかに尖った耳。深いフォレスト・グリーンのゆったりとしたチュニックを纏い、質感の良い革ベルトで無造作に腰を絞っている。背負った黒檀の長弓と矢筒、そのベルトに提げた使い込まれた細身の剣。
エルフ特有のしなやかな雰囲気を纏っているが、ミーヴェルにはこの男に見覚えがあった。
『(……ミーヴェル。朝ノ騒動ノ際、遠巻キニ観測シテイタエルフダ)』
「(わかってる)……で? なんだ?」
脳内でのアイの報告を短く受け流し、ミーヴェルは男を正面から見据えた。
男はミーヴェルの視線を逸らさず、穏やかだがどこか探るような笑みを浮かべる。
「いきなりすまない。私はロキという。……君は魔人、ミーヴェル。――名前に間違いはなかったかな?」
「名前は合ってる。……俺に何か用か?」
膝の上の毛玉が、ロキの声を聞いた瞬間に「ぴ……っ!?」とさらに硬直したのを、ミーヴェルは見逃さなかった。
「正確には、君自身に用があるというより……その、膝の上のウサギというか」
頬を搔きながら苦笑いを浮かべるロキという青年に、ミーヴェルは怪訝な表情を浮かべた。
「えーっと。ルナ?」
「ぴっ!?」
「ああ、やっぱりだよね……。にしても、ええー? なんで君がこんな所にいるんだい?里からどれだけ離れていると……」
目を丸くして驚くロキと、硬直するルナを交互に見比べ、ミーヴェルも目を瞬かせた。
「えっ。お前、もしかしてこいつの飼い主か?」
「うん。家で飼っているというか……妹がある日、どこかから拾ってきてね。まさかと思ったけど、その銀晶草みたいに透き通った特徴的な耳は、他にいないから」
「なんだ。瞬殺で飼い主が見つかったな」
ミーヴェルが呆れたように息を吐くと、ロキは不思議そうに首を傾げた。
「でも、なんでルナが君の膝の上に?」
「ああ、それは――」
ミーヴェルは、ギルドで依頼を受注してから銀晶草の群生地に向かったこと、そこでブレードウルフに追われているこのウサギを見つけたことなど、一連の出来事を目の前の青年にかいつまんで話した。
「……なるほど。ルナ?」
全てを聞き終えたロキは、ジト目で膝の上の毛玉を見下ろした。
「どうせ君が、そのブレードウルフをからかって、本気で追い回されていたんじゃないのかい?」
「………ぴ」
図星を突かれたのか、ルナは気まずそうにスッと目を逸らした。
窓から差し込む夕刻の斜光が、その銀色の耳を透かし、ギルドの床に淡い影を落としている。
「はぁー、まったく……」
ロキは呆れたように目頭を押さえてうつむいた。深く吐き出された溜息には、身内(?)の不始末に対する心底からの疲労が滲んでいる。
しばらくして彼が顔を上げると、その瞳には透き通るような真摯さが宿っていた。
「すまない、そしてありがとう、ミーヴェル。……この子を助けてくれたこと、感謝するよ」
「結果的に、たまたま助けたことになっただけだ。別に気にしなくていいさ」
ミーヴェルはぶっきらぼうに返し視線を外した。慣れない感謝の言葉は、今の彼には少々座りが悪い。
「いや、そうもいかない。是非お礼をさせてくれ」
「いや、別にいいよ」
「エルフ族は、受けた恩は返さないと気が済まない性分なんだ。放っておけば、私の誇りが夜も眠らせてくれないだろう」
ロキの言葉は穏やかだが、そこには譲れない意固地さが芯のように通っている。
「いやいや、大したことじゃないし。俺も仕事のついでだ」
「いやいや、恩人に対して、そんな素っ気ない態度は許されない」
賑やかなギルドの喧騒の中で、二人だけの妙に熱を帯びた押し問答が続く。隣のテーブルからは、酒の入った冒険者たちの笑い声が聞こえてくるが、それすら遠く感じるほどの密度だった。
そんな終わりの見えない恩のぶつけ合いを繰り広げていると――。
「ロキー! どこにいるの?ロキー!」
ギルドの入り口の方から、静寂を破るような快活な声が響いた。
ミーヴェルはその隙を見逃さず、獲物を狙う猟犬のような素早さで腰を浮かせた。
「ほら、じゃあな。返すよ」
言うが早いか、ミーヴェルは膝の上で丸まっていたルナを両手でひょいと掴み、戸惑うロキの胸元へと、まるで熱い石でも放り込むような勢いで押し付けた。
「っあ、ああ。おい、ミーヴェル……!」
「ほれ、呼ばれてるぞ。仲間を待たせるもんじゃない」
「待ってくれ、戻ってきたら必ず――」
「いいから早く行け。お礼なら、そいつを二度と迷子にさせないことだ」
ミーヴェルはパタパタと手を振って、背を向ける。
「おーい、ロキー!」
再び届いた呼び声に、ロキは困ったような笑みを浮かべ、抱えられたルナと共に人混みへと消えていった。
背後に残ったのは、少しだけ軽くなった膝の感覚と、ようやく静まり返った自分だけの時間。
ミーヴェルは一つ大きく息を吐き、改めて椅子の背もたれに深く体を預けた。
ふと、無意識のうちに口角が少しだけ上がっていることに気づく。
『(……ドウシタ、ミーヴェル。気味ノ悪イ笑ミヲ浮カベテイルゾ)』
「(ん? いや、別に……こういう所って、もっと荒くれものばかりだと思ってたけど。あんな奴もいるんだな)」
ミーヴェルは、ロキが消えていった人混みの余韻をなぞるように視線を漂わせ、ここ数日の出来事を静かに振り返っていた。
アークポッドという隔離された揺り籠を離れ、本格的に地上へと降り立ってから、実に多くのことがあった。
記録映像の中でしか知らなかった他種族。汚染と魔法の入り混じる歪な社会。アークポッドでの教育において、彼らは常に「潜在的な脅威」として定義されていた。
だが、ミーヴェルにとってはそれも数百年前の話だ。教科書の中の出来事のように現実味に欠けるのが、正直なところだった。
「……まあ、今のところは、悪くないな」
ぼそりと、誰に聞かせるでもなく独り言が漏れる。
『(…………)』
「(……アイ。お前はやっぱり、他種族のことは嫌いなのか?)」
脳内での問いかけに、アイは数秒の沈黙を置いた。
思考回路が駆動する微かなノイズが、心地よいリズムとなって耳の奥に響く。それはミーヴェルにとって、この世界で最も信頼できる鼓動だった。
『(……嫌イ、トイウ感情ハ、アイノ定義ニハ存在シナイ。シカシ、彼ラハ実ニ非合理的ダ。魔法ヲ使エバ環境ヲ汚染シ、ナノヘイズ病ノリスクヲ高メルト理解シテイナガラ、ソレヲ文化ト呼ビ、享受シテイル)』
アイの声は、いつものように淡々としていた。
だが、その言葉の端々には、非効率な生命体に対する、ある種の「呆れ」にも似たニュアンスが含まれているように感じられた。
『(タダ、今日ノ観測データニ一ツ、補足スベキ事項ガアル)』
「(なんだ?)」
『(アノウサギガ残シタ残留熱量ト、ミーヴェルノ心拍数ノ安定性ダ。……他種族トノ接触ガ、ミーヴェルノ精神維持ニ有効デアル可能性ハ、否定デキナイ)』
「(……あのウサギで俺の心拍数が安定してたのか? ……へいへい。結局、俺の管理に役立つかどうかってことかよ)」
ミーヴェルは苦笑し、閉じていた目を開けた。
ギルドの天井を見上げると、そこにはナノヘイズを含んだ空気の澱みが、鈍く光る霧のように滞留している。
かつての人間が遺した負の遺産。けれど、その澱みの下で、騙し合い、笑い合い、図々しくも逞しく生きる者たちがいるのもまた、一つの真実なのだ。




