8 リンドール王国の聖女カーリン
セイドリックの「辞めて貴女を攫って出奔します」という、あまりにも熱烈で過激な宣言。その衝撃に、私の脳は一晩中オーバーヒートしっぱなしでした。
翌朝、サルタンの街を出発する際も、私の頭の中は昨夜の彼の声が何度もリフレインして、まともに顔を見ることすらできません。
だというのに、当の本人はといえば、馬車の扉を開けて私をエスコートする際も、朝の挨拶を交わす際も、昨夜のことなど何一つなかったかのように涼しい顔をして、いつも通りの「完璧な騎士」を演じています。
(……ずるいわ。私だけがこんなに、あわあわしているなんて!)
悔しくて、彼に差し出された手を少しだけ強く握り返してみましたが、彼はただ「お疲れですか?」と優しく微笑むだけ。その余裕たっぷりな態度が、今の私には何とももどかしくてなりませんでした。
馬車はサルタンの潮風を背に受け、北へと進みます。
ついに、聖教国まで残すところあと一つの国となりました。
その最後の中継地点、リンデール王国へと到着しました。
リンデールは緑豊かな山々に囲まれた国で、ここの聖教国教会には、私とセイドリックにとって忘れられない大切な人がいます。
「懐かしいわね、セイドリック。カーリンに会うのは、私たちがドゥシヨモネ王国へ行く時のお見送り以来かしら」
「そうですね。彼女もリンデールの地で立派に聖女を務めていると聞いています」
カーリン。彼女は私やセイドリックと同じ、聖教国のあの小さな孤児院で共に育った幼なじみです。
姉妹のように支え合ってきた彼女なら、きっと今の私のこのぐちゃぐちゃな心の内も、笑って受け止めてくれるはず。
馬車が教会の重厚な門をくぐると、そこには見覚えのある、勝気で明るい笑顔が待っていました。
馬車から降りるなり、カーリンは「久しぶりね、ホリー!」と元気な声を上げて、私をぎゅっと抱きしめてくれました。懐かしい向日葵のような笑顔に、私の心もパッと明るくなります。
けれど、私を放したカーリンが、背後に控えるセイドリックにチラリと視線を向けると、その表情が少しだけ呆れたようなものに変わりました。
「……ふん。貴方の『忠犬』っぷりも、相変わらずのようね」
「忠犬?」
聞き慣れない言葉に、私は思わず首を傾げました。すると、それまで穏やかに控えていたセイドリックが、スッと温度の低い声を返します。
「カーリン様。再会の挨拶としては少々不適切かと。余計なことは仰らない方がよろしいかと思いますが」
「あら、怖い。相変わらず私には牙を剥くのね」
カーリンが肩をすくめ、セイドリックは冷ややかな沈黙を守る。
孤児院時代はもっと賑やかだった気がするけれど、この二人、実はあまり仲が良くなかったのかしら……? 私は不思議に思いながらも、その場は苦笑いで済ませるしかありませんでした。
その日の夜。
教会の客室でくつろいでいると、カーリンがワインの小瓶を持って訪ねてきました。
「ホリー、お疲れ様。……それにしても貴女、よくあのアブナイ『凶犬』を制御してるわよねぇ。感心しちゃうわ」
「凶犬? さっきの忠犬とか、一体何のこと? 私は犬なんて連れていないわよ、カーリン」
私が本気で首を傾げて答えると、カーリンは持っていたグラスを止めて、目をぱちくりとさせました。
そして、信じられないものを見るような目で私を見つめ、ぽつりと呟いたのです。
「……ホリー。貴女、本気で言ってるの?」
「えっ、何が?」
「あのね、あいつ……セイドリックが、貴女以外の人間に対してどれだけ冷酷で、容赦がなくて、手が付けられない凶犬か、本当に気づいてないのね? 孤児院の頃からずっと、貴女が笑っていれば大人しいけれど、貴女を泣かせる奴がいれば、相手が誰だろうと食い殺さんばかりの勢いだったじゃない」
カーリンの言葉に、私は昔の記憶を辿りました。確かにセイドリックは昔から強かったけれど、私にとってはいつだって、優しくて穏やかな「騎士様」でしかありませんでした。
「あいつの『忠誠心』という名の執着は、もう信仰に近いわよ。……あー、怖っ。もし今、私が貴女をいじめてるなんて勘違いされたら、この部屋の扉、一瞬で叩き斬られるわね」
大袈裟に身震いしてみせるカーリンを前に、私はセイドリックの、あの礼拝堂での「辞めて貴女を攫って出奔します」という言葉を思い出していました。
(あれは……冗談じゃなくて、本当に本心だったのかしら……?)
私の知らないセイドリックの一面に触れたようで、夜の静寂の中、また少しだけ心拍数が上がるのを感じていました。
「そういえば、わたしたちが孤児院で過ごしていた頃もこうして夜のお茶会したわね」
私はハーブティーの湯気越しに、遠い昔を思い出していました。カーリンはワインを飲んでいるが。
「わたしとカーリンが同い年で、セイドリックは少し年上で……。あの頃のわたし、本当にトロくていつもみんなの足手まといだったけれど、セイドリックだけは文句も言わずに待っていてくれた。段差があれば手を引いて、歩幅を合わせて。彼は昔から、本当に優しくて穏やかなお兄さんだったわ」
私の記憶の中にある幼少期のセイドリックは、いつも陽だまりのような温かさを纏っていました。
けれど、私の言葉を聞いたカーリンは、呆れたように天を仰ぎました。
「……ホリー、やっぱり貴女、何も分かってないのね。いい? 貴女が孤児院に来る前のあいつはね、それはもう手の付けられない『問題児』だったのよ」
「え……? セイドリックが?」
「そうよ。口は悪いし、喧嘩は日常茶飯事。目つきなんて今よりずっと鋭くて、他の子供たちはみんな、関わらないように遠巻きにしていたわ。大人たちだって匙を投げるくらいの、荒れ狂う野良犬だったんだから」
信じられない話に、私は持っていたカップを落としそうになりました。私の知っている彼とは、あまりにもかけ離れています。
「そんなあいつを変えたのは、後から入ってきた貴女よ。ある日、年上の男の子と喧嘩してボロボロになって座り込んでいたあいつに、貴女だけが恐れもせずにトコトコ近づいていったの。みんな『逃げろ、噛みつかれるぞ』ってハラハラしてたのに……貴女、あいつの傷だらけの手を握って、ニコニコ笑いながら癒しの魔法をかけたじゃない」
カーリンは懐かしむように、けれどどこか畏怖の混じったような目で私を見ました。
「あの瞬間、あいつの瞳から毒気が抜けて、代わりに狂気じみた『執着』が宿るのを私は見たわ。あの日からよ、セイドリックが『騎士様』の仮面を被るようになったのは。ホリーという女神を守るために、牙を隠したのよ。……全く、一人の男をそこまで作り変えちゃうなんて、天然って怖いわね」
カーリンの話を聞けば聞くほど、今、扉の向こうで私を護っているはずの彼の存在が、重く、深く、私の心に沈み込んできました。




