7 交易自由都市サルタン
ジノツキ王国を出発する朝、ドナ様は私の手をぎゅっと握り、「ホリーちゃん、頑張るのよ!」と満面の笑みでウィンクをして送り出してくれました。
(頑張るって……何をどう頑張ればいいの~!)
ドナ様のあの猛烈なアピール談を聞かされた後では、その言葉の意味するところが想像できてしまい、私は馬車の中でも一人で赤面して困惑するばかりでした。
そうしてジノツキを離れ、次に向かったのは三つ目の国、交易自由都市サルタンです。
潮の香りが漂い始めた頃に到着したその街は、活気あふれる大きな港町でした。
ここの聖教国教会に配属されているのは、私たちがドゥシヨモネ王国へ赴任した後に着任したという、まだ年若い聖女プリシラ様です。
「ようこそ、ホリー様。お待ちしておりましたわ」
教会に到着すると、14歳のプリシラ様が凛とした様子で型通りの挨拶をしてくれました。
ですが、宿泊の手続きが済むと、ここの教会の空気はこれまでの場所とは少し違っていました。
「聖女様、騎士の方々の宿舎はあちらの別棟です。建物が完全に分かれておりますので、夜間のお出入りは固く禁じられております」
聖女付きの年配のシスターが、鋭い視線でセイドリックたちを牽制します。「年若い聖女様に何かあっては大変」と、まるで見張るように目を光らせているのです。
セイドリックと離ればなれで過ごす夜に、私は少しだけ心細さを感じていました。
すると、シスターが離れた隙に、プリシラ様が私の袖をチョイチョイと引いて囁きました。
「もう、シスターたちは本当にお固くて嫌になっちゃう。ねえ、ホリー様!」
彼女はくるりと私の方を向くと、パッと表情を明るくして声を弾ませました。
「そんなことより、あちらのセイドリック様って、とっても素敵ね! まるでお物語に出てくる騎士様みたい。あんなに素敵な方に守られているなんて、お姉様が羨ましいわ!」
無邪気に、そして真っ直ぐな瞳でそう言われ、私は返事に詰まってしまいました。
今までは「私の護衛騎士だから」と当たり前のように思っていましたが、他の街の、それも年下の聖女様から見てもセイドリックは「素敵」に見えるのだと、急に胸の奥がざわつくのを感じた。
「ねえ、セイドリック様。聖教国に戻ったら、貴方は一旦ホリーお姉様の護衛を離れて、フリーの身になるのでしょう?」
プリシラ様は、キラキラと輝く瞳でセイドリックを見上げ、あどけない仕草で首を傾げました。
「でしたら、次は私の聖騎士になっていただけるよう、私から教皇様にお願いしちゃおうっと! セイドリック様のような素敵な騎士様がいてくれたら、私、もっと頑張れる気がするもの!」
その無邪気な、けれど残酷なほど真っ直ぐな言葉が、中庭に響き渡りました。
私はその様子を少し離れた場所から眺めながら、顔には「まぁ、プリシラ様ったらお元気ね」とでも言いたげな、完璧に穏やかな微笑みを貼り付けていました。
ですが、内心はとても笑えるような状態ではありません。
(……教皇様にお願いする?)
もし、本当にそんなことになったら。
聖女が「この騎士を」と望み、教皇様がそれを認めてしまったら、騎士に拒否権などありません。
セイドリックが昨日、あんなに優しく「離れるつもりはない」と言ってくれたけれど、それはあくまで彼の気持ちであって、国の命令には逆らえないはず。
丁寧に、けれどどこか事務的にプリシラ様の相手をするセイドリックの横顔を見つめながら、私の胸の中は、冷たい氷を押し当てられたような不安と、自分でも驚くほどの激しい独占欲でぐちゃぐちゃにかき乱されていました。
(嫌よ。セイドリックを、誰にも渡したくない……)
ニコニコと笑っている私の手の中で、持っていたハンカチがギリリと音を立てて握りしめられていることに、私自身もまだ気づいていませんでした。
セイドリックが、他の誰かの聖騎士になってしまうかもしれない。
その可能性を想像しただけで、胸の奥が張り裂けそうなほど痛くなり、私はたまらずその場から逃げ出してしまいました。
向かったのは、静まり返った教会の礼拝堂。ステンドグラスから差し込む冷ややかな光の中、私は震える手で女神像の前へ膝をつきました。
(女神様……。こんな汚い心を持った私が、このまま聖女として貴女様にお仕えして良いのでしょうか?)
今まで、聖女として無私無欲に尽くしてきたつもりでした。けれど今、私の心はプリシラ様への醜い嫉妬と、セイドリックを独占したいという浅ましい執着で塗り潰されています。
生まれて初めて知る「嫉妬」という感情の毒に、私はただただ、涙をこらえて懺悔を捧げることしかできませんでした。
その時、背後で重厚な扉が開く音がし、聞き慣れた足音がゆっくりと近づいてきました。
「……ホリー様。お一人で行動なさっては、心配いたします」
セイドリックの声でした。彼は私の隣に静かに膝をつき、いつものように私を護る騎士の顔をしていました。
私は俯いたまま、絞り出すような声で、ずっと胸を占めていた問いをぶつけてしまいました。
「セイドリック……もし、聖教国に戻って、あなたが教皇様から『他の聖女様の聖騎士になれ』と命じられたら、あなたはどうしますか……?」
プリシラ様の、あの言葉が耳にこびりついて離れません。もしそうなったら、あなたは騎士として、誇りを持って命令に従ってしまうのではないか。
不安で震える私の視線の先で、セイドリックはふっと表情を和らげました。
そして、驚くほど晴れやかな、それでいて少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて、断言したのです。
「辞めます」
「……は?」
あまりに即答だったので、私は涙も止まり、間抜けな声を上げて彼を見上げました。
聖教国の誇りである「聖騎士」という地位を、そんな、今日のおやつを断るような軽さで辞めると言うのでしょうか。
「辞めて、貴女を攫って出奔します」
「しゅっ……!? ちょ、ちょっと、何を言っているの!?」
私の混乱を余所に、セイドリックは私の手を取り、その甲に誓いの接吻を落としました。
「私は聖女に仕える聖騎士ですが、仕えるべきは女神様でも国でもない。私の魂が忠誠を誓っているのは、目の前にいるホリー、貴女だけです。貴女の傍にいられない命令など、私には紙屑同然。……その時は二人で、またどこか遠くへ逃げましょうか」
「セイドリック……」
彼のどこまでも本気で、どこまでも狂おしいほどの忠誠――いえ、愛の告白に、私の心から不安が消え去り、代わりに爆発しそうなほどの熱が全身を駆け巡ったのでした。




