6 ジノツキ王国の聖女ドナ
ジノツキ王国の王都へ向かう馬車の中、私は窓の外を流れる景色を見つめながら、今朝のセイドリックの言葉を反芻していました。
『一人の男として申し出たいことがある』
その時の彼の、少し低くて熱を帯びた声が耳の奥で何度も再生されます。思い出すたびに、頬が火照って心臓の音がうるさく跳ね上がりました。
幼なじみとして、ずっと近くにいたはずの彼が、今はなんだか別の誰かのように感じられて、ドキドキが止まりません。
そうして落ち着かない時間を過ごしているうちに、馬車はジノツキ王国の聖教国教会へと到着しました。
門をくぐると、そこには懐かしい笑顔が待っていました。
「まぁまぁまぁ! ホリーちゃんもセイドリック君も、すっかり大きくなって! ドゥショモネへ行くのを見送ったのは、ついこの前だった気がするのにねぇ!」
弾んだ声と共に現れたのは、聖女ドナ様。45歳になる彼女は、豊かなそのお体と同じくらい、温かくて大きな包容力を持つ女性です。
「ドナ様、お久しぶりです……っ」
私が馬車から降りるなり、ドナ様は「おいで!」と両腕を広げて私をぎゅーっと抱きしめてくれました。
ふかふかとした彼女の体からは、聖教国のハーブのような落ち着く香りがして、私は子供に戻ったような気持ちでその腕の中に身を預けました。
「大変だったわね。でも、もう大丈夫。ここはジノツキだもの、美味しいものをたくさん食べて、ゆっくりしていくのよ」
彼女の温かな抱擁と力強い言葉に、私の心の強張りがまた一つ、優しく解けていくのを感じました。
ドナ様に導かれ、私たちは教会の奥にある広々とした食堂へと案内されました。テーブルの上には、ジノツキ王国の豊かな実りを象徴するような、乳製品たっぷりの料理が所狭しと並べられています。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ! ホリーちゃん、少し痩せたんじゃないかしら? 今日はしっかり栄養をつけなさいね」
ドナ様が手際よく取り分けてくれたのは、表面にこんがりと黄金色の焦げ目がついた、熱々のグラタンでした。スプーンを入れると、濃厚なホワイトソースとたっぷりのチーズがとろりと溢れ出します。
「……おいしい! こんなに濃厚なミルクの味、久しぶりです」
私が頬張っていると、隣に座るセイドリックが、ごく自然な動作でチーズフォンデュの串を差し出してきました。
「ホリー、このパンもよく焼けていて美味しいですよ。チーズをたっぷり絡めましたから、火傷しないように気をつけて」
「あ、ありがとう、セイドリック」
彼は、私が次に何を欲しているか分かっているかのように、次々と世話を焼いてくれます。
食べやすい大きさにカットした温野菜や、口直しの冷たいヨーグルトソースのサラダ。まるでお姫様を扱うようなその手つきに、私は少し気恥ずかしくなりながらも、差し出されるままに口を運んでしまいました。
「あらあら、セイドリック君。相変わらずホリーちゃんには甘いわねぇ。騎士様というより、まるで過保護な旦那様みたいだわ」
ドナ様が口元を隠してクスクスと笑うと、向かいの席で山盛りの料理を食べていたフリオたちも「いつものことですよ!」「僕らの入る隙なんてないんですから」と賑やかに囃し立てます。
「……ドナ様、からかわないでください。私はただ、彼女に最高の休息を味わってほしいだけですから」
セイドリックは平然と答えながらも、私を見る目はどこまでも優しく、熱を帯びていました。
チーズの香りと皆の笑い声に包まれて、私の胸もお腹も、温かな幸せでいっぱいになっていくのでした。
夕食後、セイドリックたちがアシャンと共に明日の馬の体調を確認しに行っている間、私はドナ様に誘われて二人きりでハーブティーをいただくことになりました。
薪のはぜる音だけが響く静かな部屋で、私はずっと胸の中にあった疑問を、思い切って口にしてみました。
「あの、ドナ様……。ドナ様はご結婚なされていますよね? 聖女が結婚するのって、やっぱり大変でしたか?」
私の問いかけに、ドナ様は意外そうに目を丸くした後、すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべました。
「あら、ホリーちゃんもそんなことを考えるようになったのね。そうねぇ……大変と言えば大変だったかしら。でも、それ以上に楽しかったわよ。私の旦那様、昔は本当に堅物な騎士様だったから、私の方からそれはもう猛烈にアピールしたんだから!」
「ドナ様から……ですか?」
驚く私をよそに、ドナ様の独壇場が始まりました。
「そうなのよ! 毎日お弁当を作って届けたり、遠征から帰ってきたら真っ先に駆け寄ってハグしたり。最初は真っ赤になって逃げ回っていた彼も、最後には根負けしたみたい。今でも時々、私が好きだと言うと、昔みたいに顔を赤くしてくれるの。あの照れた顔がまた可愛くてねぇ……」
ドナ様の口から次々と飛び出す惚気話は止まることを知りません。
『初めて手を繋いだ時の彼の反応』から『今の幸せな朝のひととき』まで、熱っぽく語るドナ様は、まるで恋する少女のようにキラキラとしていました。
「……そ、そうなんですね」
当初の「聖女としての立場的な大変さ」を聞きたかったはずが、気づけばすっかりドナ様の恋物語に圧倒されてしまいました。
けれど、好きな人を真っ直ぐに想い、それを幸せそうに語るドナ様の姿を見て、私の心は少しだけ軽くなったような気がしました。
聖女であっても、一人の女性として誰かを愛し、愛されることは、こんなにも素敵なことなのだと。
「ホリーちゃん、あなたも自分の心に素直になっていいのよ。あんなに素敵な騎士様が、ずっと隣で見守ってくれているんだもの」
ドナ様に優しく背中を押されるように言われ、私は赤くなった顔を隠すように、冷めかけたお茶を一気に飲み干したのでした。




