4 バッチェリ公国を出発
バッチェリでの数日間は、これまでの緊張が嘘のように穏やかな時間でした。
リリエラが用意してくれた栄養たっぷりの食事と、ふかふかのベッド。そして何より、セイドリックたちが常に傍にいてくれるという安心感が、私の心と体を劇的に回復させてくれました。
そしてついに、聖教国へ向けて出発する日がやってきました。
教会の前には、アシャンたちが選んでくれた頑丈で乗り心地の良い馬車が停まり、補充された物資が積み込まれています。
「お姉様、本当に行ってしまわれるのですね……」
見送りに立ったリリエラは、今にも零れ落ちそうなほど瞳を潤ませて私の手を握りしめていました。
「ありがとう、リリエラ。あなたのおかげで、また前を向いて歩き出せそうよ」
「……っ、そんなの、お姉様のためなら当たり前です! 聖教国に着くまで、どうか、どうかお気をつけて。道中の教会には私からも厳重に連絡を入れてありますから!」
リリエラは溢れる涙を何度も拭いながら、最後に私の耳元で少しだけ声を低くして、力強く囁きました。
「それから……例のドゥシヨモネ王国から、さっそく『結界が弱まったから聖女を貸せ』だの『至急支援を求む』だの、厚かましい要請が届いていますわ」
「え……」
「安心してください。あんな国、私からの返事は決まっています。『あいにく多忙ですので、そちらの新しい聖女様とやらで解決なさってください』と、のらりくらりとかわしてやりますわ! お姉様をあんな目に遭わせた報い、たっぷりと痛い目を見せてやりますから!」
拳を握って宣言するリリエラの頼もしさに、私は思わず苦笑しながらも、心のどこかでスッと溜飲が下がるのを感じました。
「リリエラ様、ホリー様は私たちが責任を持って聖教国までお送りします」
馬車へエスコートしてくれたセイドリックが、リリエラに深く一礼しました。
「ええ、セイドリック様。お姉様を……ホリーお姉様の幸せを、よろしくお願いしますね!」
御者台に座ったアシャンが合図を出し、ゆっくりと馬車が動き出します。
遠ざかっていくバッチェリの街と、最後まで大きく手を振ってくれていたリリエラの姿。
私は馬車の窓からその景色を眺めながら、隣に座るセイドリックの温もりを感じていました。
「……セイドリック」
「はい、ホリー様。何があっても、ずっとお傍にいますよ」
馬車の心地よい揺れに身を任せながら、私たちはついに、本当の故郷である聖教国への帰路についたのです。
バッチェリ公国を後にして二日。馬車はガタゴトと心地よいリズムを刻みながら、次の国であるジノツキ王国の領内へと入っていました。
車窓から見える景色は、これまでの峻険な山道とは一変し、見渡す限りのなだらかな緑の丘が広がっています。
「見て、セイドリック! 羊たちがたくさん!」
私は思わず窓から身を乗り出さんばかりに声を上げました。
もこもことした雲のような塊が、青々とした草原のあちこちでのんびりと草を食んでいます。
「ふふ、あっちの子なんて、お昼寝しているみたい。とっても可愛いわ」
ドゥシヨモネ王国にいた頃は、朝から晩まで結界の維持や浄化に追われ、こうした長閑な風景をゆっくり眺める余裕なんて一度もありませんでした。
私の浮き立った声に、隣に座るセイドリックが目を細めて頷きます。
「ジノツキ王国は牧羊が盛んですからね。ホリー様がそんなに楽しそうにしてくださると、このルートを選んで正解でした」
そう言ってセイドリックは微笑んでくれている。
(これだけ質の良い羊がいるのなら、街に着いたら上質な毛織物を探すとしよう。ここからさらに北にある聖教国へ戻れば、あちらの冬は厳しい。ホリーが寒さに震えないよう、とびきり暖かくて彼女に似合うコートを新調してあげたいな……)
セイドリックそんな事を内心思っていた事にちっとも気づかなかった私は、「あの子、こっちを見たわ!」とはしゃぎながら、流れていく景色をいつまでも追いかけていた。
ジノツキ王国の活気ある街に到着し、宿に荷物を解くと、セイドリックが「少し街を散策しましょう」と私を誘い出しました。
向かった先は、この国でも指折りの仕立て屋。店内には、特産の羊毛をふんだんに使った色とりどりの毛織物や、暖かそうなコートがずらりと並んでいました。
「ホリー、聖教国の冬は厳しいですからね。ここで最高の一着を見つけましょう」
セイドリックのその言葉を合図に、なぜか護衛騎士たちまでもが「我こそがホリー様に似合う一着を!」と、血眼になって店中を探し始めたのです。
「ホリー様には、この元気な黄色が似合うと思いませんか!」
「いやいやフリオ、落ち着きのあるこの深い緑こそ、聖女様の気品を際立たせるはずだ」
「……この、空の色のような青も、捨てがたい」
アシャン、ビスタ、ディーノまでもが真剣な顔で次々に候補を持ってきます。私はあまりの熱量に圧倒され、
「どれも素敵で困ってしまうわ……」と、嬉しい悲鳴を上げていました。
最終的に、色が重ならないように選ばれた五着のコートが私の前に並べられました。誰がどの色を選んだかは伏せたまま、私が一番心に響いたものを選ぶことになったのです。
「……うーん、どれも本当に綺麗だけど」
私は並んだコートの前でじっくりと足を止め、一着のコートに手を触れました。それは、冬の柔らかな日差しのような、温かみのあるオフホワイトのコートでした。
「これにするわ。なんだか、一番心が温かくなる気がするの」
私がそう告げた瞬間、背後で「あちゃー!」「やっぱりか!」という声が上がりました。
「……さすが隊長。ホリー様の好みを完全に把握しているな」
「愛の重さが違いますね、これは」
ニヨニヨと意地悪な笑みを浮かべるフリオやアシャンを見て、私は首を傾げました。
「えっ、これは……?」
セイドリックは少しだけ照れくさそうに、でも誇らしげに微笑んで私の肩にそのコートを掛けました。
「それは、私が選んだものです。……よくお似合いですよ、ホリー」
鏡の中に映る自分は、彼の選んだ色に包まれて、見たこともないほど幸せそうな顔で真っ赤になっていました。




