最後の珠
鎮魂の香の三日間、私たちは狂ったように動いた。
結衣の純心会ネットワークは、残りの記憶の珠のほぼ全ての場所を特定していた。私たちは、北から南へ、日本列島を縦断するように駆け抜けた。車、列車、時には船。隠れ家から隠れ家へ。もんろは、香の効果で深い眠りにあり、時折、うめき声を上げたり、涙を流したりするが、人格の暴走は抑えられていた。
その間、私たちは、無数の珠と出会った。
東北の津波被災地に封じられた、津波巫女・波の記憶。彼女は、引き波に飲まれていく人々の、最後の安堵と絶望の表情を、自らも冷たい水に浸かりながら収集した。
関西の大火跡に眠る、火災巫女・焔。町全体を焼く炎の中で、逃げ遅れた者たちの、炎に照らされ、歪む最期の顔を、自身の肌に焼き付けていった。
九州の疫病流行地の、疫病巫女・瘴。原因不明の熱病に倒れる人々の、苦悶と諦念の表情を、自らも感染の危険に晒されながら「借り」続けた。
それぞれの珠が、もんろの意識(深層で)と共鳴するたび、彼女の顔に新たな「裂け目」と、かすかな特徴が加わっていく。津波巫女の、冷たく青ざめた頬の質感。火災巫女の、ほんのり焦げたようなくすんだ茶色の染み。疫病巫女の、微かな熱の斑。
彼女の顔は、無数のパーツが、無理矢理に、しかしある種の秩序をもって貼り合わされ、まるで、千の破片から修復された、しかし接着跡がくっきりと見える古代の陶器のようになっていった。裂け目は深く、所々で色や質感が不連続だが、それらが一つの「顔」としての輪郭を、かろうじて保っている。
奇妙なことに、彼女の生体データ(混沌度)は、珠を集めるごとに下降していった。85% → 80% → 75%。そして、ついに70% で安定した。無数の「借り」が、珠という「整理済みアーカイブ」によって分類、統合され、彼女の中の無秩序な渦が、一時的に鎮まったからだ。彼女は、もはや「混沌」ではなく、秩序立った、しかし過密な図書館と化していた。
だが、それは健康の証ではなかった。医師の診断では、彼女の身体的な「漏出」はむしろ加速しており、体中の皮膚の下で、無数の異物(記憶の結晶)が、互いに押し合い、微小な出血や炎症を引き起こしているという。彼女は、文字通り、記憶で満たされすぎて、肉体が耐えきれなくなっている状態だった。
そして、ついに、最後の珠——第107代・百合の記憶の珠(空白の能面とは別の、彼女が能面化前に自ら作成したバックアップ)が、東京のとある研究所の地下から、純心会の手で奪還された。
全ての珠が揃った。
私たちが戻ったのは、すべての始まりの場所——あの深山の、107枚の能面が祀られる神社だった。
夜だった。満月の光が、杉の木立を抜け、社殿の前に白く冷たい光の筋を落としていた。社殿の中は、灯明もなく暗い。しかし、そこに持ち込まれた107個の記憶の珠——勾玉、水晶、氷の結晶、金属片、木の実…様々な形状のそれらが、それぞれに微かな、固有の色の光を放っていた。青、白、紫、金、緑…。それらの光が、暗い社殿に無数の星を散りばめたようだった。
もんろは、香の効果が切れる直前、目を覚ましていた。結衣と私に支えられ、社殿の中央に立つ。彼女の顔は、無数の裂け目に満ち、月光に照らされて、それはもう「人間の顔」とは呼べない、歩く芸術作品、あるいは生ける遺物のように見えた。しかし、その目だけは、驚くほど澄んでいた。107の珠の光を反射し、それら全ての色を含んだ、深く静かな瞳。
「…さあ」 結衣の声が震える。「全てを、元の場所に戻します」
彼女の合図で、純心会の者たち(十名ほどが集まっていた)が、107個の珠を、社殿の内陣に、特定の配置で並べ始めた。円形に。中心にもんろが立つ。
珠の配置が完了する。一瞬、静寂。
そして、一つ、また一つと、珠がより強く輝き始める。それらの光が、空中に細い糸を伸ばし、もんろと、そして互いに結びついていく。光のネットワークが社殿を覆う。
そして、驚くべきことが起こった。
それぞれの珠から、かすかな、透明な女性の姿が浮かび上がった。107人の巫女たちの、生前の姿の投影だ。年齢も服装も時代もバラバラ。白拍子の装いの桜。戦国甲冑の楓。墨染めの衣の萩。雪のように白い装いの雪。彼女たちは、皆、目を閉じ、静かに立っている。
そして、一斉に、口を開く。
歌う。それぞれの時代の、それぞれの言葉で。祝詞、詠唱、子守唄、聖歌、民謡…。107の声、107の旋律が、一瞬、不協和音のようにぶつかり合う。
しかし、すぐに、それらの声が、一つの巨大なハーモニーへと収斂していく。それは、この国に流れる、あらゆる時代の、あらゆる人々の情感が、千年の時をかけて紡いだ、壮大な記憶の交響曲だった。
その歌声と共に、社殿の床に、複雑な幾何学模様が浮かび上がった。光の線が走り、古代文字が刻まれ、巨大な魔法陣が完成する。その中心、もんろの足元で、地面が微かに震え、石の台座がゆっくりと隆起してきた。
台座の上には、一卷の古びた巻物が置かれていた。それは、紙でも絹でもなく、何かの皮のような質感で、年月によるひび割れが無数に入っている。しかし、封印は完全だった。
107の巫女の歌声が、頂点に達し、そして、ぱたりと止まる。彼女たちの幻影が、ゆらめき、次第に薄れ、珠の中へと戻っていく。
光のネットワークが消える。社殿は再び暗くなるが、巻物だけが、ほのかな白銀の光を放っている。
結衣が、深く息を吸い込む。彼女の目には、畏敬と恐怖が入り混じっている。
「…上古の巻物。純心会の伝承では、『原典』と呼ばれます。全ての始まりと、全ての終わりが記されている、と」
もんろは、揺るがない足取りで、台座に近づく。彼女の顔の裂け目が、巻物の光を受けて、かすかに虹色にきらめく。
彼女は、巻物に手を伸ばす。触れる。
その瞬間、巻物が自動的に開き、中から、強烈な光がほとばしる。その光は、空中に、古代文字の列を浮かび上がらせる。しかし、それらの文字が、私たちの目の前で、次々と現代の日本語へと変化していく。
『顔の巫女システム設計書・全』
『作成:延喜元年(901年) 預言者集団「緋の瞳」』
文章が、流れるように現れる。
設計目的:
近き未来(約千年後)、此の国に「大色衰時代」到来す。人々、自らの顔を失い、文明の連鎖断絶の危機あり。是を防ぐ為、顔の記憶を保存する「生ける図書館」システムを構築す。
原理:
1.
特殊体質の女子(巫女)を選出。彼女らは、他人の「顔の記憶」及び背後にある情感を吸収・一時保存可能なり。
2.
3.
巫女、定められた期間、災害、戦乱、疫病等の惨事に際し、消えゆく人々の顔を収集。
4.
5.
収集飽和に至りし巫女は、「能面化」の儀式にて、其の身に蓄積された全記憶を、永久記録媒体(能面)へ転写。巫女の自我は、記録の索引として能面内に封じ込む。
6.
7.
能面は、全国各地の神社に納め、結界にて保護。情感の漏出を防ぐ。
8.
補足:記憶の珠
能面の劣化、或いは特別な記憶に限り、補助的記録媒体として「記憶の珠」を併用可。珠は、能面よりも長期の保存に適す。
注意事項:
本システムは、大規模物理的災害を想定せり。情感の均衡は、災害収束後、能面より情感を徐々に解放(「還流」)することで保たる。
巫女の自我は、記録の完整性を保つ為、能面化後も完全消去せず、管理者としての意識を残すこと。然れども、其は苦痛なり。慈悲の為、可能な限り、自我の活動を低減すべし。
文章はそこで切れ、新しい章が始まる。
『警告:システム誤作動・現代』
観測:
予定されし「大規模物理的災害」は起こらず。代わりに、約100年前より、人々の内面より徐々に「色」と「顔」が失われる新型疾病(CPDS)が蔓延。是は、想定外の「情感災害」なり。
結果:
1.
システムは作動を継続すれど、従来の「収集→能面化→情感還流」の循環崩壊す。情感の「収集」のみが継続、「還流」は殆ど行われず。
2.
3.
其の結果、社会全体の情感負債が蓄積。CPDSは更に悪化。
4.
5.
第107代巫女・百合、過剰な情感負荷に耐えかね、能面化前に暴走。未処理の記憶が拡散、CPDSを加速・変異せしむ。
6.
最終対策案:
第108代巫女に、全ての負債を集約せしむ。彼女は、従来の巫女とは異なり、最初から「空白」の器として設計さる。過去107代の能面データを基に最適化された、完全な収容能力を有す。
第108代巫女・もんろへの選択肢:
第一:永続の器
能面化を受け入れ、全ての記憶を其の身に封じ、永久の管理者となる。其により、情感の循環は停止。CPDSの進行は止まる(但し、既に失われし色は戻らず)。彼女の自我は、凍結された状態で、永遠に記憶の番人となる。
第二:儚い自我
能面化を拒み、此の儘、情感の「漏出」と共に生きる。或る日、器の限界を超え、全ての記憶と共に自我も霧散す。其の場合、情感の負債は再び社会に拡散。結果は予測不能。
巻物の最後の一行が、強く輝く。
『後継者よ、選べ。永続の器となるか、儚い自我を貫くか。いずれにせよ、汝は人の歴史を背負う。』
光が消える。巻物がぱたりと閉じる。社殿は、再び月明かりだけの薄暗がりに戻る。
沈黙が重くのしかかる。
全てが、説明がついた。千年の呪いの正体。それは、災害から文明を守るための、過剰なまでの保険システムだった。しかし、想定外の災害(内面からの崩壊)に直面し、システムは暴走。情感の淀みを生み、その淀みが、新たな病(CPDS)を生んだ。
そして、もんろ。彼女は、最後の「対策」。全てを処理するための、最終的な器。彼女の「空白」は、欠陥ではなく、設計だった。より多くの記憶を、より効率的に収容するために。
もんろは、長い間、巻物を見つめていた。彼女の顔は、無数の裂け目に覆われ、表情を読み取るのは難しかった。しかし、その目は、深く、深く考え込んでいるようだった。
そして、彼女が、ゆっくりと顔を上げた。月光が、彼女の割れた顔を照らす。その表情は、驚くほど平静だった。107人の先達の記憶を経て、あるいは、全ての真実を知った今、彼女の中に、深い諦念と受容が生まれているようだった。
彼女の口が、ほんの少し開く。声は、かすかだが、社殿にしっかりと響いた。
「…わかりました」
その一言に、千年の重みが込められていた。
彼女は、巻物から目を離し、私の方を見た。その目には、もう迷いはなかった。ただ、深い哀しみと、どこか優しい決意が浮かんでいる。
「尚さん」 彼女の声は、柔らかい。「ありがとう。ここまで、連れてきてくれて」
私は、胸が締め付けられるような思いだった。彼女は、決断を下した。その決断が、どちらであれ、彼女の「終わり」を意味する。
「もんろ…」
「大丈夫です」 彼女は、かすかに微笑んだ。その笑みは、裂けた顔の中で、不思議と美しく見えた。「私は…選びます。私の道を」
彼女は、再び巻物を見つめ、そっと手を置いた。
「でも、その前に…一つだけ、お願いがあります」
「何だ?」
彼女の目が、社殿の天井の向こう、暗い夜空を見上げる。
「…本当の…空の色を…見せてください。約束、してください」
その言葉に、私は、強くうなずいた。涙が、こぼれそうになるのを必死にこらえて。
「ああ。約束する。必ず、見せてやる」
もんろは、満足そうに目を閉じた。彼女の顔の裂け目から、ほんのかすかな、虹色の光が、ゆらゆらと漏れ出ているようだった。
夜明けは、まだ遠い。だが、彼女との約束を果たすための、時間は、もうあまり残されていない。




