現代のパラドックス
神社の社殿の中は、上古の巻物が明かした真実の重みで、鉛のように沈んでいた。
もんろは巻物の前から少し離れ、社殿の縁側に腰を下ろしていた。彼女の背中は、薄明かりの中、無数の裂け目が走る、かろうじて人の形を保った彫像のように見えた。結衣と私は、少し離れた柱の傍らに立っていた。純心会の他の者たちは、社殿の外で警戒に当たっている。
長い沈黙を破ったのは、結衣だった。
「…システムは、完璧でした」
彼女の声は、乾いていた。熱意も怒りもない、ただ事実を述べるような調子。
「少なくとも、設計当時は。大規模な物理的災害──戦争、飢饉、疫病、自然災害。それらは、人々の命だけでなく、その人たちが生きた『証』である顔や記憶も、文字通り物理的に消し去ります。それを防ぐために、巫女という『生ける記録媒体』を用意し、能面という永久保存の形に転写する。情感の『還流』まで考慮した、自己完結型の文明保存システム」
結衣は、もんろの背中を見つめる。
「でも、想定外の事態が起きました」
彼女の声に、かすかな苦い響きが混じる。
「現代の『色衰病』…CPDSは、物理的災害ではありません。人々が、内側から、『自分らしさ』を失っていく、心の病です。外傷はない。物理的な顔はそのまま。でも、その顔に宿るべき『色』や『感情』や『記憶』が、砂のようにこぼれ落ちていく」
私は、拳を握りしめた。早織の苦しみを思い出した。彼女の顔は、確かにそこにあった。しかし、だんだんと、彼女自身の「色」を失い、薄汚れたモノクロ写真のようになっていった。
「そして、あなた、もんろさん」 結衣の目が、もんろの背中に釘付けになる。「あなたの『癒し』は、人々から一時的に『顔』を借りる──いや、彼らが失いかけている自分自身の『顔』の断片を、あなたが預かる行為です。それにより、彼らは一時的に『自分』を取り戻す。安心する」
結衣の言葉は、冷たい分析のようだったが、その端々に、深い哀れみがにじんでいる。
「だが、その代償に、あなたは、彼らの『顔』の断片を、文字通り自分の肉体に刻み込みます。あなたという『器』に、他人のアイデンティティの欠片を、一つまた一つと蓄積していく。あなたが人を癒せば癒すほど、あなたの中の『借り』は増え、あなた自身の『器』としての容量を圧迫し、あなたという存在の輪郭を、曇らせ、歪ませていく」
結衣は、一歩前に出る。
「そして、その増え続ける『借り』の重みに耐えきれなくなった時、システムは、あなたに選択を迫ります。能面となって永遠に記憶を封じ込めるか、あるいは、崩壊して全てを失うか」
彼女の声が、さらに低く、重くなる。
「しかし、現代において、その選択は、根本的な矛盾を抱えています。あなたが人を癒やせば、新たな『借り』が生まれる。その『借り』は、システムの想定通り『還流』されません。なぜなら、現代には、情感を浄化し、解放する大規模な『祭儀』や『社会的循環』が存在しないからです。あなたが能面になれば、その『借り』は永久に凍結されます。人々は、あなたから癒やしを得られなくなります。あなたが能面にならなければ、あなたは崩壊し、中に封じられた無数の『借り』が一気に拡散する。それは、第107代・百合さんの事故の、より大規模な再現です」
結衣は、深く息を吐いた。
「これは…無限ループです。いや、むしろ、自滅へのスパイラル。あなたが存在する限り、人々はあなたに救いを求める。あなたは救う。そのたびに、あなたは自分を削り、いずれ限界が来る。そして、あなたが消えた時、これまであなたが背負ってきた全ての『借り』が、重しとなってこの世にのしかかる。CPDSはさらに悪化するかもしれない」
その分析は、冷酷で、しかし的を射ていた。もんろの存在そのものが、現代という病んだ時代において、毒にも薬にもなる、矛盾した存在だった。彼女は、人々の苦しみを吸い取り、同時に、その苦しみを増幅する種をも内包している。
私の胸の中で、怒りが沸き上がった。
「そんなシステム…間違ってる!」
声が、社殿に響いた。私は、結衣に向かって一歩踏み出した。
「人を救うために、別の人間を犠牲にする? それも、最初から『器』として設計された人間を? そんなの、ただの人身御供じゃないか! こんなシステム、壊すべきだ!」
結衣は、私の怒りを、静かに、しかし悲しげな目で受け止めた。
「壊せば、どうなりますか?」
その問いに、私は一瞬言葉に詰まった。
「もんろさんは、消えます」
結衣の声は、冷たく響いた。
「彼女は、システムの最終端です。107枚の能面のデータから合成され、全ての負債を集約するために生み出された、システムそのもののような存在。システムを壊すということは、彼女という『器』の存在意義そのものを否定し、彼女を…物理的にも、存在的にも、無に帰すことかもしれません」
「…でも、それで彼女は苦しまなくて済む!」
「苦しまずに、消えるのですか?」 結衣の目が、鋭く光る。「そして、それだけではありません。これまで、彼女が『借り』、彼女の中に蓄積してきた全ての記憶──漁師の妻の笑顔、画家の妻の瞳の色、戦場の兵士の未練、飢えた人々の最期の表情、凍える者の悲しみ、隠れ切支丹の青年の祈り…それら全てが、彼女と共に消えます。彼らがこの世に生きた、最後の『証』が、永遠に失われます」
結衣の言葉が、私の胸を刺した。彼女が背負ってきた、無数の人々の記憶。確かに、それは重く、彼女を苦しめている。しかし、それらは、確かにあった生の証だ。それを、彼女ごと「消去」していいのだろうか?
「そして、最も現実的な問題」 結衣が続ける。「システムを壊したとして、今、CPDSに苦しむ無数の人々は、どうなるのでしょう? 彼らを癒やす手段は、他にありますか? あなたの奥様のように、色を失い、苦しみながら消えていく人々を、ただ見ているだけですか?」
その問いに、私はぐらりとよろめきそうになった。早織を救えなかった無力感が、再び胸を締め付ける。もんろに出会い、彼女が人々を癒やすのを見て、ほんの少し、希望のようなものを見出していた。それが、もしもんろを「壊せ」ば、また何もできない自分に戻る。
「つまり…」 私の声は、かすれていた。「選べないのか? 彼女を苦しめ続けるか、彼女を消して全てを失うか…そのどちらかしかないのか?」
結衣は、うつむいた。彼女もまた、答えを持っていない。
「…純心会は、千年、このシステムを守り、巫女たちの最期を見届けてきました。でも、私たちも、答えは見つけられませんでした。ただ、『次の巫女』が現れるまで、システムを維持することを使命としてきました。でも、もんろさんが最後です。彼女の次は、もういません。ならば、彼女の選択に、全てを委ねるしかない。それが、私たちの、せめてもの…贖罪です」
社殿の中に、重い沈黙が流れる。外からは、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
その時、縁側に座っていたもんろが、ゆっくりと立ち上がった。彼女は、私たちの方には振り向かず、社殿の外、まだ暗い、しかし東の空がかすかに白み始めている方へ、一歩、また一歩と歩き出した。
私たちは、その後を追った。
もんろは、社殿の前の広場の端まで歩き、そこで立ち止まった。彼女は、顔を上げ、灰色の、まだ星がいくつかかすかに光る夜空を見つめている。彼女の横顔は、月光に照らされ、無数の裂け目がくっきりと浮かび上がっていた。それは、壊れた人形のようでもあり、しかし、どこか神々しい彫像のようでもあった。
「結衣さん、尚さん」
もんろの声が、静かな夜の空気に溶け込むように響いた。彼女は、まだ空を見上げたまま。
「私は…思うんです」
彼女の言葉は、ゆっくりで、一つ一つに深い思いが込められているようだった。
「このシステムは…間違っていません。ただ…時代が、変わっただけなんです」
彼女が、そっと自分の胸に手を当てる。
「千年前の人たちは…顔を失う恐怖と、戦っていました。戦争や災害で、大切な人の顔が、物理的に、そして記憶からも消えてしまう恐怖と。だから、彼らは、どんなことがあっても、『顔』だけは残そうとした。たとえ、一人の少女に全てを背負わせることになっても…」
彼女の目に、涙が光る。しかし、彼女は泣かない。
「でも、今の人たちは…違う恐怖と戦っています。『自分』の顔を、内側から失っていく恐怖。誰かに殺されるわけでも、焼かれるわけでもない。ただ、だんだんと、自分が誰だったか、わからなくなる。自分の笑顔が、どんな形をしていたか、忘れてしまう…」
彼女は、ゆっくりと私たちの方に振り向いた。その顔には、無数の裂け目があった。しかし、その表情は、驚くほど穏やかで、澄み切っていた。
月光と、東の空の薄明かりが、彼女の顔を照らす。その時、奇妙な現象が起こった。
彼女の顔の裂け目から、かすかな光が漏れ、その光の中に、無数の女性の面影が、次々と浮かび上がっては消えていく。最初の桜、戦国の楓、飢饉の萩、雪、津波の波、火の焔、疫病の瘴…107人の巫女たちの顔が、ほんの一瞬ずつ、もんろの顔の上に重なる。それは、彼女たちの記憶が、今、もんろの中で呼応しているかのようだった。
そして、最後に、それら全ての光が収束し、もんろ自身の顔──無数の裂け目に覆われながらも、確かにそこにある、一つの意志を持った顔──へと落ち着く。
「システムは、顔を『保存』するために作られました。でも、現代に必要なのは、顔を『取り戻す』こと。失われかけた『自分』を、呼び覚ますこと」
もんろの目が、結衣と私を、順番に見る。
「だから、私は…変わらなければならないと思います。このシステムを、この時代に合わせて」
彼女の言葉に、結衣が息をのんだ。
「変わらなければならない…?」
「ええ」 もんろは、かすかに微笑んだ。その笑みは、裂けた顔の中で、深い慈愛に満ちていた。「私は、能面にはなりません。永遠の器にも、なりません」
彼女は、そっと自分の体に手を当てる。
「だって…私はもう、ただの『図書館』じゃないから。本を並べ、整理するだけの、静的な場所じゃない」
彼女の目が輝く。
「私は、人々から『借り』たものを、ただ貯め込むのではなく…それを、形を変えて、返したい。彼らが忘れた色を、そのまま返すのではなく…彼ら自身が、新たに色を作り出せるように、手助けをしたい」
その発想は、あまりに突飛だった。結衣も私も、理解できずにいた。
「どういう…ことですか?」 結衣が、かすれた声で尋ねる。
「よく、わかりません」 もんろは、率直にうなずく。「でも、感じます。私の中の、無数の先輩たちの記憶が、そう囁いているのを。『このまま終わるのは、もったいない』『私たちが守ってきたものは、過去の遺物じゃない。未来への種だ』と」
彼女は、東の空を見つめる。水平線が、かすかにオレンジ色に染まり始めている。夜明けが近い。
「私は、能面になることで、全てを凍結させ、終わらせたくない。でも、このまま崩壊して、全てを無駄にもしたくない。ならば…第三の道を、歩みたい。この体と、この中にある全ての記憶を使って、新しいことをしたい」
彼女は、私たちの方に、もう一度、深い眼差しを向ける。
「結衣さん、あなたの家系は、千年、システムを守り続けました。ならば、最後の巫女である私と共に、システムを…『アップデート』してみませんか? 過去の遺産を、未来への礎に変えることを」
結衣は、目を見開き、もんろを見つめていた。彼女の目に、驚き、疑念、そして、かすかな希望の光が混ざっている。千年の使命を、守ることから、変えることへ。その発想は、彼女の家系にとって、あまりに大きな転換だった。
「…どうやって?」 結衣の声は震えている。
「まずは、約束を果たします」 もんろは、私を見て、ほほえんだ。「本当の空の色を、見に。そして…」
彼女は、自分の胸の袋(107個の記憶の珠が入っている)に手を当てる。
「この中の全ての記憶と、私自身の声で、一曲、歌います。これまでとは、全く違う歌を。人々から『借り』るのではなく、人々に『返す』歌を。そして、その歌が、何を起こすのか…見てみたい」
彼女の目には、危険を承知の上での、純粋な好奇心と決意が輝いていた。実験だ。自分自身を実験台に、新しい可能性を試す。
私は、胸が熱くなった。彼女は、能面になることも、消えることも選ばない。苦しみながらも、前に進む。第三の道を、自ら切り開こうとする。
「危険すぎる」 結衣が、低く言った。「もし、百合さんの二の舞になったら…」
「でも、何もしなければ、確実に壊れます」 もんろの声は、柔らかいが揺るがない。「ならば、壊れる前に、私にできることを、全部やりたい。それが、私という存在が、たった一つだけ持っていたかもしれない、『自分』の意思です」
その言葉に、結衣は、長いため息をついた。そして、ゆっくりとうなずいた。
「…わかりました。千年、守り続けた者として、最後の巫女の意志を、尊重します。私たち純心会も、全てを賭けましょう。このシステムを、終わらせるのではなく、進化させるために」
もんろは、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、彼女は私の方を見た。その目は、朝焼けの光を受けて、黄金色に輝き始めている。
「尚さん、約束、覚えていますか?」
私は、大きくうなずいた。
「ああ。もうすぐだ。太陽が昇る」
私たちは、三人並んで、東の空を見つめた。灰色の雲の切れ間から、鋭い金色の光の刃が、ついに水平線を切り裂いた。
夜明けだ。もんろが、初めて本当の色を見る、最初の朝。
彼女の目には、涙が光っていた。しかし、その表情は、深い感動に満ち、そして、確かな覚悟に満ちていた。
彼女は、能面にはならない。図書館でもない。彼女は、これから、自分自身の物語を、歩み始める。




