追手
山道を駆け下りる足音と、荒い息遣いだけが、闇の中に響いていた。
神社を出てから、私たちは予め結衣が用意していた獣道を伝って山を下り続けていた。もんろの白い着物は、枝に引っかかり、泥で汚れていた。彼女の息は苦しそうだが、一言も弱音を吐かず、必死についてくる。
後方、山頂の社殿の方から、複数のヘッドライトの光が乱反射し、拡声器による威嚇的な警告がかすかに聞こえる。
「…結界は、あとどれくらい持つ?」 私は、先頭を走る結衣に叫んだ。
「三十分! せいぜい!」 結衣の声は切迫している。「神社の結界は、物理的な侵入を防ぐだけで、熱感知やドローンには効果が薄い! こっちの存在は、もう筒抜けだ!」
もんろが、私の後ろで、つまずきそうになる。私は咄嗟に腕を伸ばし、彼女の肘を支えた。触れた肌は、冷や汗で濡れている。
「大丈夫か?」
「…ええ。ただ、少し…足が」 もんろの声は、息切れしている。彼女の生体データ(私のグラスがかすかに捉えている)では、混沌度は85%に達し、心拍も異常に速い。山道を走るのは、彼女の限界を超えている。
「ここだ!」 結衣が、急に道から外れ、蔦に覆われた岩の割れ目に飛び込んだ。中は、かろうじて人が這って通れるほどの、自然の洞穴だった。中は真っ暗で、湿った土の匂いがする。
「この洞窟は、昔、村人が戦乱を逃れるために使った隠れ道。先は、山の反対側の谷につながっている。出口近くに、廃屋がある。そこで一息つこう」
私たちは、暗闇の中を、手探りで進む。洞窟は所々で低く、頭をぶつけそうになる。水の滴る音が、不気味に響く。もんろの呼吸が、暗闇の中でもひときわ苦しそうだ。
「…ごめん…なさい…」 彼女が、かすかに呟く。「私のせいで…」
「そんなこと言うな」 私は、短く言い放った。「お前が悪いわけじゃない」
「でも…尚さんも、結衣さんも…普通の人生を、捨てて…」
「俺の『普通の人生』は、とっくに終わっていた」 私は、自分の声の冷たさに自分で驚いた。「お前と出会う前からな」
もんろは、それ以上何も言わなかった。ただ、私のシャツの裾を、わずかに握りしめる力が、少し強くなった。
洞窟を抜けるのに、一時間近くかかったろうか。ようやく前方に、かすかな明かりが見える。出口だ。
外は、夜明け前の、一番深い闇だった。私たちが出たのは、切り立った崖の中腹にある、ほとんど見えないほどの岩陰だった。眼下には、深い谷と、その向こうに、ぼんやりとした山々のシルエットが見える。
結衣が、谷を指さす。
「あの松林の影に、小さな猟師小屋がある。十年ほど使われていないが、屋根はまだある。まずは、あそこへ」
谷へ下る道は、さらに険しかった。もんろは、何度もよろめき、私と結衣に支えられながらようやくたどり着いた。小屋は、確かにぼろぼろだった。窓ガラスは割れ、ドアは斜めに傾いている。中には、ほこりくさい空気と、動物の糞の匂いが充満していた。
「ここなら、しばらくは大丈夫だろう」 結衣が、懐中電灯で内部を照らす。簡素な木のベッドと、壊れた椅子、暖炉があるだけだ。「まずは休もう。追手がここを見つけるまで、あと数時間はある」
もんろは、ベッドの端に崩れ落ちるようにして座った。彼女は、深く息を吸い込み、吐き出した。顔を上げ、薄暗い室内で、彼女の顔がはっきりと見えた。
私は、息をのんだ。
面容干渉器は、神社での過負荷ですでに焼き切れていた。何の制御もない。彼女の顔は、今、肉眼で見てわかるほどに「蠢いていた」。
皮膚の下を、無数の小さな「盛り上がり」が、絶え間なく流れている。まるで、皮膚の下に無数の小さな虫が入っているかのようだ。時折、頬の一部が、老人のように深くこける。次の瞬間、額が少女のように滑らかになる。左目が切れ長に細まり、右目が丸く見開かれる。それらの変化は、以前の「変動」よりも、より物理的で、不気味だった。混沌度85%というのは、こういう状態なのか。
「…水を」 もんろが、かすれた声で言う。
結衣が、水筒を渡す。もんろは、両手で抱えるようにして飲む。その手も、震えている。
彼女が水を飲み終え、顔を上げた時、突然、表情が変わった。
無表情だった顔が、急に、いたずらっぽい子どものような笑みを浮かべる。しかし、目は虚ろだ。
「ねえ、お姉ちゃん、あの鳥、なんで灰色なの?」
声は、もんろの声ではない。幼い女の子の、高い声だ。
結衣と私は、凍りついた。
もんろは、私たちを見ていない。虚空を見つめ、独り言のように続ける。
「パパが言ってた。昔は、鳥も、木も、空も、色があったって。ほんと?」
一瞬、間がある。そして、表情がぱっと変わる。今度は、中年男性のような、荒々しい顔つきになる。眉をひそめ、口元を歪める。
「ちっ、うるせえガキだ。色がなきゃなきゃで、いいんだよ。あるからややこしくなる」
声も、低く、濁っている。
もんろ自身の目が、一瞬、かすかに見開かれる。混乱の色。彼女は、首を振る。必死に、自分に戻ろうとしている。
「…だめ…今は…私が…」
彼女の自分の声で、そう呟くと、先程までの他人の表情と声は消えた。彼女は、うつむき、肩を震わせる。
「…『記憶の溢れ』だ」 結衣が、低く言った。「彼女の中の『借り』が、器からあふれ出て、時折、表面化する。本人の意志とは関係なく。この状態が進めば、やがて、彼女自身の意識が、無数の他人の記憶の中に埋もれて消えてしまう」
もんろは、その言葉を聞いて、かすかにうなずいた。彼女は、自分に起こっていることを、理解している。
「…少し、休みます」 もんろは、ベッドにもたれかかり、目を閉じた。「目を覚ましたら…私ですから。呼びかけてください。『もんろ』って」
彼女は、すぐに、浅く、不安定な眠りについた。寝息の中に、時折、他人の呟きが混じる。
結衣と私は、暖炉の傍らに座った。外は、まだ暗い。闇が深い。
「彼女は、もう限界に近い」 結衣が、小声で言う。「明日の夜…いや、今日の夜までに、何とかしなければ。あの野外音楽堂で、『歌』を歌わせなければ。さもなければ、彼女はここで、無数の他人の亡霊に食い破られるだけだ」
私は、拳を握りしめた。無力感が、骨の髄まで浸透する。
夜が明け、灰色の朝が訪れた。
もんろは、まだ眠っている。時折、体をびくつかせ、意味のない言葉を囁く。彼女の顔の「蠢き」は、眠りの中でも止まらない。
私は、外の様子をうかがうため、壊れた窓の隙間から外を見た。谷は、深い霧に包まれている。何も見えない。しかし、どこか遠くで、ヘリコプターのプロペラ音がかすかに聞こえる。
戻ると、もんろが目を覚ましていた。彼女は、ベッドに座り、ぼんやりと自分の手のひらを見つめている。私が近づくと、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、かすかに焦点が合っている。一晩眠って、少し落ち着いたのか。
「…尚さん」 彼女の声は、かすれているが、彼女自身の声だ。
「ああ。調子はどうだ?」
「…少し、落ち着きました」 彼女は、かすかに微笑んだ。その笑みは、まだどこか不安定で、ほんの一瞬、別人の笑い方になりかけたが、すぐに彼女らしい柔らかな形に戻った。「たくさん、『借り』が動いています。でも、今は、私が、主導権を握っています」
その時、彼女の目が、私の顔をじっと見つめた。その視線は、突然、深く、どこか哀しげなものに変わった。
「…尚さん」
「ん?」
「あなたの奥様の顔…」 もんろは、そっと言った。「美しかったですね」
私は、その場に釘付けになった。血の気が引く。
「…どうして」
「借りましたから」 もんろは、淡々と、しかしどこか罪悪感に満ちた口調で言う。「あなたの記憶から。あの夜、神社へ向かうバスの中で…あなたが眠っている間、ほんの少しだけ…」
彼女は、そっと自分の頬に、人差し指を当てた。そして、ゆっくりと、口元を、優しく、どこか物悲しく、引き上げる。
その表情——。
それは、紛れもなく、早織の笑顔だった。
私の記憶の、一番奥底にしまい込んだ、あの桜の下の、何の憂いもない、純粋な幸せに満ちた笑顔。早織が、私に向けてくれた、最後の、本当の意味での笑顔。
それが今、無数の他人の顔の断片が蠢く、混沌としたもんろの顔の上に、鮮明に、しかし不自然に浮かび上がっている。
「ごめんなさい」 もんろの声が震える。早織の笑顔を浮かべたまま、目に涙がにじむ。「今、この中に…あなたの奥様の微笑みが、混ざっています。彼女の、幸せな記憶の一片が…私の『借り』になって…離れない…」
私は、言葉を失った。胸が、刃物でかき回されるような痛みだ。最も愛した者の顔が、最も守りたいはずの者の、崩壊しつつある顔の上に、亡霊のように貼り付いている。
「…取ってくれ」 もんろは、泣きそうな声で言う。「この笑顔だけは…返したくない。でも、持っていていいものじゃない。あなたのものだから…」
私は、ゆっくりと、もんろの前にひざまずいた。彼女の、早織の笑顔を浮かべた顔を、じっと見つめた。その笑顔は、もんろの顔の「蠢き」によって、微かに歪み、揺らいでいる。不気味で、痛ましい。
そして、私は、そっともんろの頬に触れた。冷たい。皮膚の下で、無数のものがうごめいている。
「…彼女は」 私は、かすれた声で言った。「お前のように、強くなかった」
もんろの目が、見開かれる。早織の笑顔が、かすかに曇る。
「彼女は、『借り』に押しつぶされた。お前のように、それと戦い、自分を見失わずにいようとはしなかった。ただ、苦しんで、そして…逃げ出した」
私の目頭が熱くなる。
「お前の顔に、彼女の笑顔がある…それは、悪いことじゃない。彼女の、ほんの少しの幸せの記憶が、お前の中にあるなら…それでいい」
もんろの涙が、ぽたりと落ちた。早織の笑顔が、ゆっくりと、もんろ自身の、深い哀しみの表情に変わっていく。彼女は、首を振る。
「…でも、それは、『借り』です。私のものじゃない。あなたの思い出を、汚しているだけです…」
その時、外で、バサッという大きな音がした。
私たちは、はっと外を見る。霧の中から、無数の人影が、静かに、しかし確実に、小屋を取り囲んでいた。迷彩服を着た特殊部隊だ。十名、いや、それ以上。銃を構え、完璧に包囲網を敷いている。
そして、部隊の中央から、一人の男が前へ出る。スーツ姿。伊達課長だ。
拡声器のスイッチが入る音。
『尚羅夢。赫映もんろを返せ。今すぐに。』
課長の声は、冷たい谷間に反響する。
『お前の行動は、国家反逆罪に問われる。しかし、今、対象を無傷で引き渡せば、お前の罪は酌量する。これが最後のチャンスだ。』
『さもなければ——』
彼は、拳銃を取り出し、ゆっくりと、小屋のドアを狙う。
『——お前ごと、『処理』する。』
結衣が、私の袖を引っ張る。彼女の目は、「裏口はある、今なら逃げられる」と言っている。
しかし、もんろが、ゆっくりと立ち上がった。彼女の顔は、もはや早織の笑顔でも、深い哀しみでもない。ある種の、静かな覚悟に満ちていた。混沌は相変わらずだが、その中心に、確固たる意志の光が灯っている。
彼女は、私の手に触れた。私が、無意識にホルスター(結衣がこっそり渡してくれた拳銃)に手をかけているのに気づいたのだ。
「…私が、話します」 もんろは、静かに、しかし力強く言った。
「だめだ。外へ出れば、すぐに捕まる」
「出ません」 もんろは、かすかに笑った。「ここから、話します。彼らに、聞かせたいことがあるから」
彼女は、壊れた窓のそばに立ち、深く息を吸い込んだ。そして、口を開いた。
声は、最初はかすかだった。しかし、すぐに、力強く、澄んだ、あの「歌姫」の声へと変わった。拡声器などなくても、谷間に響き渡るような、不思議な力を持った声で。
『伊達課長。聞こえていますか』
外の部隊が、一瞬、動きを止める。課長の目が、鋭く小屋を見つめる。
『私は、赫映もんろです。あなたがたが、108番と呼ぶ存在です』
もんろの声には、震えがない。ただ、深い哀しみと、確かな意思が込められている。
『私は、能面にはなりません。記憶を無差別に散らすこともありません』
彼女は、一呼吸置く。
『私は、今夜、約束の場所で、『歌』を歌います。最後の歌を』
『ですが、それは、あなたがたが計画している『能面化』のための歌ではありません』
もんろの目が、私を一瞥する。優しい、感謝に満ちた眼差しだ。
『全ての『借り』を、丁寧に、この世にお返しするための歌です』
『千年の呪いを、私の代で、終わらせるための歌を』
外から、課長の怒声が聞こえる。『バカな! 制御不能になる! お前は百合の二の舞だ!』
『違います』 もんろの声は、さらに力強くなる。『私は、百合先輩でも、他の107人の先輩でもありません。私は、赫映もんろです。そして、私は、『借り』だけの存在ではないことを、知りました』
彼女は、そっと自分の胸に手を当てる。
『私の中には、『借り』たもの以外にも、ほんの少し、『私』というものが、芽生えています。それを信じて、歌います』
『ですから、どうか…今夜まで、待っていてください。私に、最後の役目を、果たさせてください』
沈黙が流れる。特殊部隊の銃口が、まだこちらを向いている。課長の表情は、鉄のように硬い。
そして、課長が、ゆっくりとうなずいた。しかし、その目は、何も信じていない、実行する時をうかがっている捕食者の目だ。
『…よかろう。だが、条件がある。お前は、今ここから、我々の車両に乗り、我々の管理下で、会場へ向かう。一切の自由行動は認めない。それが受け入れられないなら、ここで決着だ』
もんろは、私と結衣を見た。彼女の目が尋ねる。「どうする?」
結衣が、かすかに首を振る。彼らの管理下に入れば、すべては終わりだ。途中で「能面化」されるかもしれない。
もんろは、深く息を吸い込み、窓の外に向かって言った。
『…では、ここで、決着しましょう』
その言葉と同時に、結衣が、床のわずかに浮いた板を蹴った。下に、暗い穴が開いている。逃げ道だ。
『だが、その決着は、銃弾ではなく——』
もんろは、口を開き、一つの、短い、しかし耳をつんざくような高音を発した。
それは、歌ではない。衝撃波だった。
窓ガラスが、一斉に粉々に割れる。外の特殊部隊のメンバーが、思わずうずくまり、耳を押さえる。あの、「対抗周波数」に近い、だがもっと洗練された、情感そのものの圧力だ。
『行きます!』 結衣が叫ぶ。
私たちは、床の穴へと飛び込んだ。暗いトンネル。這って進む。後ろから、怒号と、銃声(天井を撃たれた音)が聞こえる。
もんろが最後に放った「声」が、ほんのわずかな時間を稼いでくれた。
トンネルを抜けると、それは谷川のほとりだった。そこには、結衣が用意していた、カモフラージュネットで覆われた一台のジープが待機していた。
「急げ! 彼らは、すぐに回り込んでくる!」
私たちはジープに飛び乗る。エンジンが唸る。未舗装の川原を、ジープは激しく跳ねながら走り出す。
後ろを見る。崖の上から、数台の黒い車両が、土煙を上げながら追ってくる。
もんろは、助手席で、深く息をしていた。彼女の鼻から、かすかに血がにじんでいる。あの「声」は、彼女にとっても大きな負担だった。
「大丈夫か?」 私は、彼女の手を握った。
「…ええ」 彼女は、かすかに笑い、私の手を握り返した。「約束の場所へ…行きましょう。尚さんと、本当の色を見に」
ジープは、山道を猛スピードで下っていく。後続車のヘッドライトが、ますます近づいてくる。
夜まで、あと数時間。約束の野外音楽堂まで、あと数十キロ。
すべては、今夜、決着がつく。




