最後の願い
ジープは、ついに燃料切れを起こした。
谷間の、ほとんど道と呼べないような獣道の終点で、エンジンがうなりを上げて止まった。結衣がハンドルを叩くが、もう動かない。後方、数百メートル彼方では、黒い車両のヘッドライトが、木立の間を縫うようにこちらに近づいてくる。逃げ場はない。
私たちはジープを降りた。ここは、小川のほとりの小さな開けた場所だ。背後には切り立った崖。行き止まりだ。
「…ここで終わりか」 結衣が、拳を握りしめた。
もんろは、ジープのボンネットにもたれかかり、深く息をしていた。彼女の鼻血は止まっていたが、顔色は青白い。混沌度は90%近くまで上昇している。彼女の顔の「蠢き」は、もはや「波打ち」というより、沸騰に近い。皮膚の下で、無数のパーツが激しく衝突し、押し合い、時折、皮膚の表面を押し上げて、小さな「隆起」を作っては消える。見ているだけで痛々しい。
「もんろ、大丈夫か?」 私は、彼女の腕を支えた。
彼女は、かすかにうなずく。しかし、その目は、既に焦点が合いにくくなっている。彼女の内側で、無数の「声」が、彼女自身の意識を押しのけようとしている。
黒い車両が、開けた場所に入ってきた。四台。特殊部隊の隊員たちが、素早く車両から飛び降り、たちまち私たちを包囲した。十数名。全員、防弾装備と自動小銃。銃口が、私たち三人に向けられる。
隊員たちの中央から、一人の男が前へ出る。今日は戦闘服姿の伊達課長だ。顔は疲れているが、目は冷たい。
「終わりだ、尚」 課長の声は、乾いている。「もう逃げ場はない。対象を引き渡せ」
私は、もんろの前に立ちはだかる。拳を握りしめる。結衣も、私の横に立つ。
「彼女は、モノじゃない」 私は、歯を食いしばって言った。「生贄でも、装置でもない。彼女は――」
「彼女は『108番』だ」 課長の声が、鋭く切り込む。「国の資産だ。千年の負の遺産を処理するためにのみ存在する『器』だ。お前の個人的な感情が、どれだけの混乱を招いたか、わかっているのか?」
課長は、もんろをまっすぐ見る。
「赫映もんろ。命令に従い、帰還せよ。さもなければ、ここで『処理』する。生きたまま連れ帰るか、死体で連れ帰るかの違いだけだ」
隊員たちの銃口が、一斉にもんろに向けられる。安全装置を外す音が、複数、冷たく響く。
その時、私の背後で、もんろが動いた。
彼女は、私の腕を、そっと押しのける。そして、一歩、前に出る。彼女の体は、よろめいていた。しかし、その歩みは確かだった。彼女は、包囲網の中心、課長の前に、かろうじて立つ。
「…はい」
もんろの声は、かすれていた。しかし、それは、彼女自身の声だ。無数の他人の声に押しつぶされながらも、何とか保っている、かすかな「自分」の声。
課長の目が、わずかに見開かれる。もんろが抵抗せず、従順に従うとは思っていなかったのだろう。
「でも…」 もんろは、かすかに息を吸い込んだ。「一つだけ…聞いてくれますか?」
課長は、眉をひそめた。「何だ?」
「私の…顔を。今の、ありのままの顔を…見てほしいんです」
隊員たちの間に、かすかな動揺が走る。彼らは、もんろの「事故」の映像を見ている。あの0.8秒の、恐ろしい変化を。
もんろは、ゆっくりと、顔にしていた簡易的な布マスク(走る途中で結衣が渡したもの)に手をかけた。彼女の指は、震えていた。
「…やめろ、もんろ」 私は、思わず声を上げた。彼女の顔を、これ以上の者に見せる必要はない。
でも、もんろは、私を振り返り、かすかに、ほんのわずかに、微笑んだ。それは、崩壊しつつある顔で作るには、あまりにも優しい笑みだった。
「大丈夫です、尚さん。…見せなければ、わかってもらえないから」
彼女は、マスクを外した。
時間が止まった。
開けた場所に立つ全員――特殊部隊の隊員たち、課長、私、結衣――の息が、一瞬で凍りついた。
もんろの顔は、もはや「人間の顔」という範疇を完全に超えていた。
左目は、八十歳の老女のように、深く窪み、白濁している。瞳孔はかすかで、何も見えていないようだ。しかし、右目は、生まれたばかりの嬰児のように、つるりと丸く、深い漆黒で、無垢そのものだ。その二つの目が、同じ顔に、同じ方向(課長)を見つめている。
口は、笑っている。口角が、無理矢理に、耳まで裂けそうに引きつらせている。しかし、その笑みは、喜びでも楽しみでもない。苦痛の極致で、筋肉が痙攣して固定された、絶叫の化石のような笑みだ。しかし、眉は、深い悲しみに曇り、八の字にひきつっている。
頬の皮膚は、所々で薄く透け、その下を、無数の小さな「顔の影」が、せわしなく動き回っているのが、かすかに見える。老人の皺、若者の傷痕、子どものふっくらとした頬、女性のほくろ…それらが、皮膚の下を、流れるように、あるいは押し合いへし合いしながら、絶え間なく循環している。
鼻の形さえ、定まらない。見ている瞬間に、だんご鼻から鷲鼻へ、そしてまた別の形へと、ゆがんで変化する。
最も恐ろしかったのは、その顔全体から放たれる「気配」だった。無数の感情――悲嘆、怒り、恐怖、諦念、微かな希望、深い愛おしさ――が、混ざり合い、腐敗し、狂暴化したような、圧倒的な情感の瘴気が、もんろを中心に渦巻いている。隊員の一人が、思わずうつむき、吐き気をこらえる仕草をした。
もんろは、その地獄絵図のような顔で、じっと課長を見つめていた。彼女の声が、震えながら、しかしはっきりと響いた。
「これが…今の私です」
彼女は、そっと、自分の頬に触れた。触れた皮膚の部分が、ぽっかりと窪み、老婆の頬になる。手を離すと、また元の(いや、元などない)「蠢き」に戻る。
「107人の先輩方の顔…無数の人々から預かった記憶…全部…」
彼女は、両手で、自分の顔の輪郭を、かすかに包むような仕草をした。まるで、壊れそうな器を抱えているように。
「…ここに、詰まっています。もう…入りきらない。溢れそうで…」
彼女の声が、突然、割れた。一つの声でなくなる。
『かえ…したい…』(老女の嗄れ声)
『いた…い…』(幼子の泣き声)
『だれか…たすけ…て…』(若い女性のすすり泣き)
『わたし…わたし…』(もんろ自身の、かすかな声)
それらの声が、一つの喉から、同時に、あるいは重なり合って、漏れ出る。もんろの体が、激しく震える。彼女は、両手で顔を覆おうとする。しかし、指の隙間から、無数の表情の影が、狂ったように駆け抜けていく。
「うう…ああ…!」
彼女は、その場に崩れ落ちる。膝をつき、うつむく。背中を丸め、小さくなる。まるで、自分という存在の重さに、押し潰されようとしている。
「もんろ!」
私は、飛び出すようにして彼女の傍らに駆け寄り、彼女を抱きしめた。彼女の体は、火のように熱い。震えが、私の体にまで伝わってくる。
彼女は、私の胸に顔を埋める。涙が、私のシャツを熱く濡らす。その涙は、ただの透明な水滴ではなかった。かすかに、ほんのりと、虹色にきらめいているように見えた。彼女の体が、無理矢理に「色」を生成し、涙と共に排出しているかのようだ。
「…尚…さん…」
彼女が、かすかに、私の名前を呼ぶ。声は、かすれているが、今は他人の声が混じっていない。彼女自身の、苦しみに満ちた声だ。
「…お願い…が…ある…」
「言え。なんでも言え」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの、地獄のような顔。しかし、その混沌のど真ん中で、無数のパーツが、一瞬、ぴたりと動きを止めたような瞬間があった。それらのパーツが、偶然か必然か、ある一つの「まとまり」――優しい目元、かすかに笑う口、哀しみを含んだ眉――を、ほんの一瞬だけ形作った。
それは、借り物のパーツではあるが、それらの配置、バランス、表情…それらが、今までにない、調和を持っていた。それが、誰の顔でもない、しかし、確かに「赫映もんろ」という一個の存在を暗示する、かすかな「輪郭」のように見えた。
その顔で、彼女は私を見つめ、涙を流しながら、言葉を紡いだ。
「完全に…『他人』になる前に…」
彼女の声が、かすかに強くなる。
「…一日だけ…『私』で…いさせて…」
彼女の目が、真っ直ぐに私を見つめる。その瞳の奥に、かすかな、しかし確かな光がある。自分を見失う前の、最後の、切実な願いの光。
「たった一日で…いい…」
彼女は、そっと、私の手を握った。その手は、冷たいが、力強く握り返してくる。
「本当の…空の色を…見たい…」
彼女の目が、曇った空を見上げる。
「自分の顔で…笑ってみたい…」
彼女の口元が、かすかに、無理矢理に、笑みを作ろうとする。それは、まだ借り物のパーツの動きだが、そこに、彼女自身の「笑いたい」という意志が込められている。
「誰の記憶でもない…『私』の声で…歌ってみたい…」
その言葉が、開けた場所に立ち尽くす全員の胸に、沈黙の衝撃として響き渡った。
もんろは、再び私を見つめ、最後の力を振り絞るように言った。
「…約束…果たして…私に…一日…『赫映もんろ』として…生きさせて…ください…」
彼女の体の力が、すうっと抜ける。彼女は、私の腕の中で、深い昏睡状態に陥った。顔の「蠢き」は、相変わらず激しい。しかし、彼女の生体データ(私のグラスがかすかに捉えている)が、驚くべきことを示していた。
混沌度:90% → 88%
急降下ではなく、ある一点で、かすかに、しかし確実に安定している
彼女の最後の「願い」が、彼女の中の無数の亡霊たちを、ほんの一時的にでも鎮め、彼女自身の「核」を、かすかな光として保たせているのか?
私は、もんろを抱きしめたまま、課長を見上げた。私の目には、おそらく、彼女と同じか、それ以上の必死さが宿っていただろう。
「課長…!」
課長は、無言でもんろの顔、そして彼女の昏睡した姿を見つめていた。彼の表情は、複雑だった。任務を遂行する冷酷さと、人間としての何かが、彼の中でせめぎ合っているように見える。
彼は、ゆっくりと、腰の無線機に手をやった。そして、沈黙のまま、長い間、何かを聞いている。おそらく、上層部との通信だ。
時間が、重苦しく流れる。隊員たちの銃口は、まだ下ろされていない。しかし、誰も指を引くものはいない。
そして、課長が、無線機から顔を上げた。彼の表情は、再び、冷徹な任務執行者のそれに戻っている。しかし、その目には、わずかな、理解しがたい諦念のようなものが光っていた。
「…了解した」
課長の声は、無感情だった。
「最終公演を許可する。条件がある」
彼は、もんろの昏睡する姿を見下ろす。
「全世界への生放送。全てのCPDS患者、関係者に、確実に届けること。彼女の『歌』を、記録し、分析すること」
彼は、一呼吸置く。
「その後…能面化プロセスを、確実に実行せよ。これが、最後の妥協だ」
彼は、隊員たちにうなずいた。隊員たちは、銃を下ろし、包囲網を解いた。
私は、息をのんだ。認められた。彼女の願いが、ほんの一時的にではあれ、認められた。
課長が、一歩近づく。彼は、私の腕の中のもんろを見下ろし、低い声で言った。
「24時間だ。明日の今頃までに、全てを終わらせろ。場所は、あの野外音楽堂でいい。我々が準備する。だが、一つ警告しておく。もし、彼女が百合のように暴走し、制御不能の情感拡散を起こそうものなら…」
彼の目が、鋭く光る。
「…その瞬間、我々は、彼女を『処理』する。お前ごとだ。わかったな?」
私は、うなずくしかなかった。
課長は、背を向け、隊員たちに指示を出し始めた。車両の手配、音楽堂の確保、世界中への放送手配…。
私は、もんろの体を、そっと地面に横たえた。彼女は、まだ深く眠っている。しかし、その口元に、かすかな、しかし確かな微笑みが浮かんでいる。
それは、先程の絶叫の化石のような笑みでも、AIが提案する慈悲の笑みでもない。苦しみに満ち、しかしどこか安らぎを含んだ、彼女自身の、初めての、純粋な感情の表れのように見えた。
彼女の唇が、微かに動く。
『やくそく…ね…』
声にはならない。かすかな息づかいだけだ。
私は、彼女の手を握りしめた。冷たい手が、少しずつ、私の掌の温もりで温まっていく。
結衣が、私の横にひざまずいた。彼女も、もんろの微笑みを見つめ、目頭を押さえている。
「…一日だけ、か」 結衣が、かすかに呟く。
「ああ。たった一日だけだ」 私は、空を見上げた。曇り空の雲の切れ間から、ほんの一筋、朝日の光が差し込んできていた。「でも、彼女にとっては、永遠かもしれない」
遠くの山で、鳥の鳴き声が響いた。朝だ。
倒計時は、再び始まった。だが、今回は、終わりの時計ではなく――。
一人の少女が、生まれて初めて「自分」として生きる、たった一日のための、誕生の時計だ。




