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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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選択

夜の社殿は、107枚の能面に囲まれ、異様に静かだった。

かすかな灯明の光が、古びた木製の面々にゆらゆらと影を落とす。その中央、畳の上に、私たち三人——もんろ、私、結衣——が三角形に座っていた。外は深い闇。山の冷気が、隙間から忍び込む。もんろの顔は、鏡石の真実を見て以来、ある種の静かな諦念に満ちている。波打つような動きは相変わらずだが、激しさはない。深い海の底流のように、ゆっくりと、重く、循環している。

結衣が、小さな鉄瓶で焙じ茶を淹れ、三つの欠けた茶碗に注いだ。湯気がかすかに揺れる。

「私の家系、純心会は、千年以上、この神社と能面を守り続けてきました」 結衣は、茶碗を両手で包みながら、静かに語り始めた。「初代から、107代目まで。巫女たちの『終わり』を見届け、その能面が暴走しないよう、情感の『奉納』を続けるのが、私たちの役目でした」

彼女は、茶を一口すすり、目を閉じた。

「でも、それは、単なる『維持管理』に過ぎなかった。呪いの連鎖を、次の世代に先送りしているだけだ、と祖父は嘆いていました。そして、父は、107代目・百合さんの事故の後、こう言いました。『次が最後だ。108代目が現れたら、全てを終わらせる時が来る』と」

結衣の目が、もんろを見つめる。

「もんろさん。あなたは、選べます」

もんろは、うつむいたまま、茶碗の縁に触れている。指先が、かすかに震えている。

「…選べる、と?」 彼女の声は、かすれている。

「ええ。三つの道が、あなたの前にあります」

結衣は、人差し指を立てる。

「一つ。107人の先達と同じ道。能面となる。あなたの中に集約された全ての情感を、能面という器に封じ、この神社に永遠に納める。そうすれば、少なくとも、次の『借り』の連鎖は、当分は起こりません。政府が望む道です。美しく、『国宝』として祀り上げられるでしょう」

中指を立てる。

「二つ。107代目・百合さんが選ぼうとした道。全ての『借り』を、この世に『返還』する。一気に、無差別に。それにより、あなたという『器』は空になり、おそらくは、何も残らずに消える。百合さんは失敗しましたが、あなたには、もっと強力な『器』としての力があります。成功する可能性は…ゼロではありません。しかし、その時、かつて百合さんの事故の時のように、あるいはそれ以上に、敏感な人々——あなたの歌声に癒やされてきた人々や、既にCPDSに苦しむ人々——に、計り知れない情感の津波が押し寄せるでしょう。結果は、予測不能です」

もんろの顔が、かすかにこわばる。彼女は、百合の記憶——制御不能な逆流、無惨な結果——を、鮮明に覚えている。

結衣は、薬指を立てる。しかし、それを完全に伸ばす前に、少し間を置いた。

「そして、三つ目の道」

彼女の声が、わずかに深くなる。

「全ての『借り』を、一気に、しかし、制御しながら返す。107人の巫女たちの記憶、あなたがこれまで集めた無数の人々の記憶、そして、あなた自身という『器』を構成する、107人分のパーツさえも…全てを、この世に、丁寧に、そして意図的に解放する。あなたの歌を使って」

もんろの目が、見開かれる。

「歌…で?」

「ええ。あなたの歌声は、情感を『吸収』するだけでなく、逆に、情感を『拡散』させることもできるはずです。ただ、今まで、あなたは『吸収』しか教えられてこなかった。だが、もし、そのプロセスを逆転させ、あなたの中にある全ての記憶、全ての色、全ての感情を、歌に乗せて、世界へと解き放つことができたら——」

結衣の目が、熱を帯びる。

「それこそが、この千年の呪いの、真の『決済』です。無数の人々から『借り』、そして能面に封じ込められてきた情感の債務を、一度に、しかし秩序立てて『返済』する。それにより、情感の循環は断ち切られ、能面に閉じ込められた107人の魂も、ようやく解放されるかもしれません。そして、新たな『借り』の発生そのものが、止まる可能性があります」

「でも…それで、私は?」 もんろの声が震える。「全てを返したら…私は、どうなる?」

結衣は、深くため息をついた。

「…わからない。器が空になる。あなたを形作っていた、107人分のパーツ、無数の他人の記憶の断片が全てなくなる。あなたという『意識』が、何もない『空白』の状態に戻る…かもしれない。あるいは、何か別の、ほんのわずかな、『あなただけの何か』が残る…かもしれない。だが、それは、誰にも約束できません」

選択は、あまりにも重すぎた。

能面になる——永遠の、意識ある幽閉。

全てを無差別に拡散する——百合の二の舞、無辜の人々を巻き添えに。

全てを制御して返還する——自我の消滅、または、未知の結末。

もんろは、長い間、無言で茶碗を見つめていた。茶の湯気が、次第に細くなり、消える。

「…考えさせてください」 彼女は、かすかに言った。

「もちろんです」 結衣がうなずく。「夜明けまで、時間があります。ゆっくりと考えてください。私たちは、外で見張っています」

結衣と私は、社殿を出た。もんろを一人、107枚の能面と、彼女自身の思いとに委ねる。

夜の山は、深い。月は雲に隠れ、星もほとんど見えない。社殿の前の小さな広場で、結衣と私は、火の気のない焚き火を囲むように座った。

「彼女は、どうすると思う?」 結衣が、低い声で尋ねた。

「…わからない」 私は、正直に答えた。「だが、彼女は、能面にはなりたくない。それは、確かだ」

「…ええ。彼女の目には、百合さんと同じ、『囚われたくない』という意志が見える」

私たちは、長い間、沈黙した。遠くで、梟の声がする。風が木々を揺らす。

そして、社殿の中から、かすかな声が聞こえてきた。

歌ではない。ただの、鼻歌のような、息漏れのような、旋律の欠片だ。

時には、古い子守唄の一節。時には、軍歌の断片。時には、ポップスのサビ。時には、何の言語かわからない、異国の詠唱。

それらが、でたらめに、しかしどこか哀切を帯びて、混ざり合い、途切れ途切れに流れてくる。107人の巫女が、それぞれの時代で口ずさんだかもしれない、無数の歌の残響。それらが、もんろの喉を通して、無意識に、あるいは意図的に、紡ぎ出されている。

彼女は、能面たちと『対話』しているのか。それとも、自分の中の無数の声に耳を傾けているのか。

その声を聞きながら、私は、眠ることができなかった。もんろの顔——鏡石に映った、哀しみに満ちた覚悟の笑みが、脳裏から離れない。


夜明け前、一番暗い時間。

社殿の扉が、ゆっくりと開いた。

もんろが、外へ出てきた。白い着物姿は、そのままだ。髪は少し乱れている。顔は、相変わらず微かに波打っているが、その表情には、驚くべき平静さが漂っていた。混乱も、苦悩も、絶望もない。深く静かな湖のような、すべてを内に納めたような静寂。

彼女は、私たちの前に立つ。東の山肌が、かすかに紫がかってきた。夜明けが近い。

「決めました」 もんろの声は、低く、しかし確かに響いた。

結衣と私は、息をのんで彼女を見つめた。

「私は…」 もんろは、一呼吸置く。「能面には、なりたくない」

当然の選択のように聞こえる。しかし、その言葉には、揺るぎない意志が込められていた。

「散るのも…嫌です。百合先輩のように、制御不能に広がって、誰かを…尚さんの奥様のように、苦しめるのは、絶対に嫌」

彼女の目が、私の方を一瞬見る。その目には、深い哀悼と、決意があった。

「だって…」 もんろの声が、ほんのわずか、柔らかくなる。「私はまだ…本当の空の色を、見ていないから」

彼女は、ゆっくりと顔を上げ、東の、まだ暗いがほんのり明るみ始めた空を見た。

そして、私の方へ、ゆっくりと振り返る。その目は、澄んでいた。

「約束、覚えていますか? 尚さん」

その呼び方。監視官さんではない。尚さん。

私は、胸が熱くなる。うなずく。

「ああ。覚えている。本当の空の色を見せると」

「ええ」 もんろは、かすかに微笑んだ。それは、鏡石の前の哀しみの笑みとは違う。どこか、希望に満ちた、温かい笑みだった。「あなたが、私に、『本当の色を見せてあげたい』と思ってくれた。それは、『借り』じゃない、あなた自身の気持ち。それを、私は、ほんの少し、『借り』てしまった。でも…返したくない。最後まで、持ち続けたい」

彼女の言葉に、私は言葉を失った。彼女は、私の感情を、『借り』として認識している。しかし、それを『返したくない』と言う。それは、もはや『借り』という範疇を超えている。彼女自身の、能面のパーツでもない、新たに芽生した『感情』なのだ。

「だから、私は、三つ目の道を行きます」 もんろの声が、強くなる。「全ての『借り』を、歌で、丁寧に返します。107人の先輩たちの想いも、無数の人々から預かった記憶も、そして…私という器を形作っている、全てのパーツさえも。全てを、この世に、『色』として、『記憶』として、返したい」

彼女の目が、結衣を見る。

「それで、輪廻を終わらせたい。もう、誰も、『借り』を背負わなくていい世界に。誰も、能面に閉じ込められなくていい世界に」

結衣は、深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりとうなずき、立ち上がる。彼女のもんろの前に、ひざまずくようにして座り、深々と頭を下げた。

「…ならば、私たち純心会は、あなたと共に戦います。千年の使命を、ここで終わらせるために」

もんろは、驚いたように目を見開いたが、すぐに、優しく微笑み、結衣の肩に手を置いた。

「ありがとうございます」

そして、彼女は再び私を見た。その目は、真っ直ぐで、どこか頼りなげで、しかし確かな光を宿している。

「尚さんは…?」

私は、立ち上がり、一歩前に出る。もんろの、冷たい両手を、私の掌で包み込む。

「俺もだ」 私の声は、思った以上に力強かった。「約束を果たすまで、ついていく。たとえ、その先に何があろうと」

もんろの目に、涙が光った。彼女は、大きくうなずいた。

その時、顔に、ほんのわずかな変化が起こった。

今までずっと、無数の他人のパーツがうごめき、混ざり合っていた彼女の顔。その「波打ち」が、一瞬、ぴたりと止まったように見えた。そして、その中心——眉間のあたりから、かすかながら、一本の筋のように、ある確固たる意志の線が浮かび上がり、すぐにまた、波の中に消えていった。

それは、借り物ではない。107枚の能面のデータにもない。AIが提案するどんな「モード」でもない。

彼女自身の、内側から湧き上がった、初めての、『決意』の表情だった。

遠くの山並みの向こう、かすかに、しかし確実に、サイレンの音が風に乗って聞こえてきた。

複数だ。車両のエンジン音も混じっている。

結衣が、鋭く顔を上げる。

「…来たわ。早い。予想より」

もんろの手が、私の手の中で、かすかに震えた。しかし、彼女の表情は崩れない。むしろ、より一層、引き締まる。

「場所は?」 もんろが尋ねる。

「ここから車で一時間ほどの、旧野外音楽堂」 結衣が素早く答える。「かつて大規模な祭りが行われた場所。地脈的に、情感の拡散に適している。私たちは、既に準備を進めていた。音響設備、中継装置…」

「では、急ぎましょう」 もんろは、私たちの手を離し、くるりと背を向ける。白い着物の裾が翻る。「私の、最後の歌を、届けに」

私たちは、社殿の裏手の細道を駆け下り始めた。もんろを先頭に、結衣、私の順だ。背後では、サイレンの音が、確実に、大きく、近づいてくる。

山道を下りながら、もんろが、振り返らずに言った。

「尚さん」

「ああ」

「…あの後、空は、どんな色でしたか? 朝焼けの後」

私は、一瞬、言葉に詰まった。彼女は、崖の上で、木立の間から一瞬見えた朝焼けを覚えている。あれは、彼女が初めて見た「本物の色」だったかもしれない。

「…オレンジから、金色に変わっていった。そして、空全体が、薄い水色になった。雲は、ほんのりピンクに染まっていた」

もんろは、軽くうなずいた。

「…きれいでしょうね」

その声には、深い憧れが込められていた。

走りながら、私は心に誓った。

たとえこれが最後の朝だとしても、彼女に、あの色を、全身で感じさせてやると。

サイレンが、もう、すぐそこまで迫っている。


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