エラー
病院の個室は、消毒液の匂いと、静けさに満ちていた。
左肩の銃創は、深かったが致命傷ではなかった。弾丸は鎖骨の下をかすめ、筋肉と血管を傷つけたが、骨や主要な神経は避けていた。手術は三時間。輸血も必要だった。目を覚ましたのは、手術から十二時間後のことだ。
ベッドの横では、点滴のポンプが規則的な音を立てている。窓の外は、相変わらず灰色の昼下がり。私の頭は、鎮痛剤のせいでぼんやりしているが、襲撃の光景——もんろが必死に私の傷を押さえる手、彼女の震える声、そして最後の『ごめんね』という口元の動き——が、鮮明に蘇る。
ドアが開く音。伊達課長が、一人で入ってきた。白衣の医者ではなく、いつもの詰まったスーツ姿だ。手には、果物籠のような慰問品ではなく、薄いタブレット端末。
「意識が戻ったようだな、尚」
課長は、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。タブレットを膝の上に置く。
「医者の話では、命に別状はない。回復には数週間かかるが、後遺症は残らないそうだ。幸運だったな」
その言葉には、心からの安堵も、慰労の気持ちもない。単なる事実確認だ。
「…もんろは?」
「無事だ。より強固な施設へ移送された。襲撃者側の損害は、死者三名、負傷者五名。我々の側は、貴様を含む負傷者二名のみ。目的(対象の確保)は達成した」
課長の目が、冷たく私を見つめる。
「で、だ。質問がある。なぜ貴様は、襲撃者の銃弾から、対象を守るために身を挺した?」
予想通りの質問だ。私は、ゆっくりと呼吸を整え、用意していた答えを口にする。
「彼女は、国家の重要資産です。襲撃者に奪われ、あるいは殺されれば、CPDS治療の唯一の手段を失います。監視官として、資産を保護するのは当然の義務です」
「ふむ」 課長は、わずかに口元を歪めた。「確かに、それも一理ある。だが、監視官の『義務』は、あくまで『観察・評価』だ。身を挺してまで『保護』する必要はない。特に、貴様の任務は、あと数週間で彼女を『処理』することだったはずだ」
「任務が完了するまで、資産の完全性を保証するのも、監視官の職務です」
「お前は、上手いことを言うな」 課長の声が、低く、危険な響きを帯びる。「だが、お前の行動は、『監視官』としてのそれを超えている。お前は、彼女を『人間』として見始めている。いや、正確には、お前の亡き妻の『代わり』として、感情を移入している」
私は、無言で課長を見つめた。否定すれば嘘になる。肯定すれば、それこそが彼の思うつぼだ。
「それは、危険だ、尚。特に、お前のような立場の者にとってはな。感情は判断を鈍らせる。お前が屋上で彼女を連れ出した時も、今回身を挺した時も、全ては『感情』に基づく判断だった。『任務』や『論理』ではない」
課長は、タブレットを手に取り、操作を始める。
「そこで、決定だ。貴様の復帰は、一週間後に許可する。ただし、任務内容を変更する」
画面を私に向ける。『最終適応性テスト』と題された計画書だ。
「対象・もんろの『精神的安定性』と『能面化への適応性』を、最終的に評価するテストだ。内容は、彼女に一連の『選択』をさせ、その反応を詳細に記録・分析する」
「…どんな選択を?」
「簡単なものだ。例えば、二人の患者がいる。一人は子供、もう一人は老人。どちらかを優先的に『癒やす』権利があるとしたら、どちらを選ぶか。あるいは、自分の『苦痛』を軽減する選択と、他人の『利益』を優先する選択、どちらを取るか。そういった、基本的な『道徳的・感情的判断』をさせ、その際の生体データ、特に『面容混沌度』の変動を記録する」
私は、その計画の裏の意図を、直感で察した。もんろが、これまでに何度か見せた「非効率的だが、より優しい選択」を、計画的に引き出し、分析しようとしている。
「このテストで、彼女が『安定的に、人間らしい感情的反応』を示し、かつ、それに伴う混沌度の変動が『管理可能な範囲』であることが確認されれば、予定通り、ライブ後の能面化を実行する」
課長の目が、鋭く光る。
「しかし、もしテストの結果、彼女の反応が『不安定』か、あるいは、人間らしい選択に伴う混沌度の変動が『危険域』に達するようなら——」
間を置く。
「——ライブを前倒し、あるいは中止し、直ちに『能面化プロセス』を開始する。彼女が、完全に『器』として機能できる内に、固化する必要があるからだ」
つまり、テストに「合格」しなければ、すぐに能面化される。テストそのものが、早期能面化の口実になり得る。
「…了解しました」 私は、それ以上反論せず、従順にうなずいた。
「よろしい」 課長は立ち上がる。「では、しっかり療養し、一週間後に戻って来い。その時までに、お前の『感情』も、整理しておけ。監視官としての冷静さを取り戻さないなら、お前をこの任務から外す。それだけは、理解しておけ」
課長は、何の未練もなく部屋を出ていった。
ドアが閉まる。独りになった。
私は、ベッドの上でじっとしていた。左肩の傷が、鈍く疼く。鎮痛剤の効きが切れてきたようだ。
課長の言葉が頭の中で渦巻く。感情。移入。妻の代わり。
確かに、もんろを見ていると、早織のことが思い出される。苦しんでいる姿。無力さ。それでも、最後まで他人を思いやる優しさ。
しかし、もんろは早織ではない。早織は、呪いの巻き添えだった。もんろは、呪いそのものの化身であり、同時に、その最大の犠牲者だ。
私は、枕元の私用タブレット(入院中も、こっそり持ち込んでいた)を手に取る。早織のツールを使って、施設のシステムに、細心の注意を払いながら侵入する。目標は、襲撃後のもんろの医療記録だ。
パスワードと生体認証の多重防御を、時間をかけて突破する。記録にアクセスする。
《対象108・襲撃事件後精密検査記録》
膨大なデータが並ぶ。生体スキャン、血液分析、神経伝達物質測定、脳波記録…。ほとんどは専門用語の羅列で、理解できない。
しかし、一つ、私の目を引く記録があった。
《事象:対象による第三者(監視官尚)外傷処置》
《処置内容:銃創(左肩)に対する応急処置》
《処置中対象の生体反応:詳細分析》
そこには、もんろが私の傷を処置していた間の、彼女の内部状態の詳細な記録が記されていた。
《感情シミュレーションモジュール活性度:異常上昇 (基準値+380%)》
《判断プロセス:プロトコル逸脱》
《推奨処置案:高速止血剤「クイッククロット」筋注 (疼痛強度:高、止血時間:短)》
《対象の実際の選択:温和止血ゲル「ソフトセル」局所投与 (疼痛強度:低、止血時間:長)》
《選択理由 (対象による自己申告):『対象の苦痛を最小化するため』》
《システム評価:この選択は論理的ではない。最適化選択を放棄し、副次的情感指標(他者の苦痛軽減)に基づく非効率な選択を実施。プロトコル逸脱コード:E-497。》
《事後対象自己診断レポート》
《診断:エラーコード不明。選択理由を説明できない。》
《追加所見:本選択実施中及び直後、面容混沌度が一時的に5%下降 (78%→73%)。下降持続時間:約17分。因果関係は不明。》
読んでいるうちに、私の手が震えてきた。
プロトコル逸脱。論理的ではない選択。エラーコード不明。
しかし、その「エラー」選択の最中、彼女の混沌度が下がっていた。
私は、もんろに関する過去の全ての記録を、遡って検索し始めた。公式記録、私の監視ログ、あらゆるデータの中で、「彼女が、効率性や合理性ではなく、何らかの『優しさ』『思いやり』に基づいて行動した」と思われる瞬間を探す。
時間をかけて、三ヶ月分のデータを精査する。
事例1: 二ヶ月前、楽屋スタッフ(体調不良)に対し、予定外に温かい飲み物を用意。
その際の混沌度: 微減 (-0.3%)
事例2: 一ヶ月半前、公演中、客席で泣き出す子供に対し、曲の合間に即興の子守唄を数小節加えた。
混沌度: 微減 (-0.5%)
事例3: 一ヶ月前、楽屋の掃除係の老人が転びそうになった際、咄嗟に支え、その後、自らすすんで床の水拭きを手伝った。
混沌度: 微減 (-0.2%)
事例4-17: 類似の小さな「気遣い」「親切」「余計な一声」…。
合計17回。いずれも、彼女の「役割」や「プロトコル」からは外れた、小さな、人間らしい行動だった。そして、そのほぼ全てにおいて、行動前後で、混沌度がわずかながら下降していた。下降幅は0.1%から0.8%まで様々だが、傾向は明らかだった。
仮説:
もんろが、与えられた「役割」や「効率性」から外れ、自発的に(あるいは、内側から湧き上がる何かに導かれて)「他者への優しさ」に基づく選択や行動を取ると、その瞬間、彼女の中の「借り」の渦が一時的に鎮まり、混沌度が下がる。
それはなぜか?
「借りたもの」は、他者の記憶、他者の顔、他者の感情だ。それらは、彼女の中で、常に「他人」のままである限り、統合されず、混沌として彼女を侵食する。
しかし、彼女が「自発的」に、しかも「他者への思いやり」という、ある種の「普遍的で無私の感情」に基づいて行動する時、その行動は、「借り」ではなく、彼女自身の内側から生まれた「何か」に近づく。その瞬間、無数の「他人」のパーツが、一時的に、一つの「意思」の下に統合される——かのように。
だから混沌度が下がる。
逆に、AIが提案する「最適な選択」や、与えられた「役割」を完璧に演じることは、彼女を「器」として固定し、「借り」の支配を強める。それでは、混沌度は上がるか、横ばいだ。
課長たちが計画する「最終適応性テスト」。あれは、彼女に「人間らしい選択」をさせ、その「良い副作用」(混沌度下降)を計測し、能面化の「素材」としての安定性を確認するためのものなのか?
結衣の言葉を思い出す。
『政府は完璧な生贄を求めている』
完璧な生贄とは、意識を保ったまま、安定して、永遠に機能する「装置」だ。そのためには、能面化の直前、彼女の混沌度が、可能な限り低く、かつ安定している必要がある。暴走してから能面化しても、制御できないからだ。
ならば、彼女が「人間らしい優しさ」を見せること自体が、政府の思惑通り——能面化を成功させるための「調整」になってしまうのか?
その時、ドアがノックされた。
「お薬です」
若い看護師が、薬のワゴンを押して入ってきた。彼女は、無造作にベッド脇のテーブルに薬と水を置く。そして、私の枕元にあるタブレットを、「整理する」ふりをして、ほんの一瞬、手に取った。
その時、彼女の袖口がずれ、手首に、かすかな能面の刺青が見えた。
結衣だ。
彼女は、タブレットを元に戻し、私にこっそりと、小さな紙切れを押し付けた。そして、何事もなかったように、「どうぞ、お薬をお忘れなく」と言い、ワゴンを押して去っていく。
紙切れを開く。小さな、慌ただしい走り書きだ。
《テストは罠》
《彼女が『人間らしい選択』をすればするほど、混沌度が下がる》
《下がった混沌度は、『生きたまま能面化』を可能にする》
《政府は、感情を制御された、完全な生贄を求めている》
《次の接触まで、動くな》
私の仮説を、完全に裏付けていた。そして、その先の、より恐ろしい真実を示していた。
テストで、もんろが「人間らしい選択」をし、混沌度が下がれば、政府は「成功」と判断し、能面化を実行する。逆に、もし彼女が「非人間的」な選択をし、混沌度が下がらなければ、それは「不安定」と見做され、やはり能面化(おそらくは、強制的で不完全な形での)が実行される。
どちらに転んでも、能面化へ向かう。テストとは、単に、その「方法」と「タイミング」を決めるための儀式に過ぎない。
私は、紙切れを細かく引き裂き、水の入ったコップに沈めた。紙がふやけて、文字が滲み、消える。
ベッドに深くもたれかかる。左肩の傷が、再び疼き始める。もんろが選んだ、あの温和な止血ゲルのせいで、治りは遅いかもしれない。しかし、痛みは確かに少なかった。傷跡も、きれいに治りそうだ。
ふと、私はベッドから起き上がり、洗面所の鏡の前に立った。病衣の左肩の部分を、そっと下ろす。包帯に覆われた傷の部分が現れる。
包帯を、ゆっくりと、慎重に解いていく。最後のガーゼが剥がれる。
そこには、まだ赤みを帯びた、しかし驚くほどきれいな、細い縫合痕があった。炎症も少なく、化膿の跡もない。もんろの選択したゲルは、確かに「効率」ではなかったが、「治癒の質」は高かったようだ。
私は、鏡の中の自分の傷跡を見つめ、そっと触れた。まだ若い皮膚の、柔らかな感触。
「…ありがとう…もんろ」
声に出さず、心の中で呟く。
彼女は、エラーを犯した。非効率な選択をした。しかし、その選択が、私の体に、この傷跡を残した。それは、彼女が、単なる「器」や「プログラム」ではなかったことの、小さな証だ。
彼女は、まだ、どこかに、「赫映もんろ」という存在の、かすかな芯を保っている。
それを、能面の中に閉じ込めてはいけない。
たとえ、それが「呪い」を終わらせる唯一の道だとしても。
いや、もし、彼女の中に、本当の「自分」が生まれつつあるなら——その「自分」が、別の道を見つける可能性は、ないのか?
鏡の中の私の目が、決意に輝いている。
一週間後。テスト。
そこで、何かが決まる。




