第36話 女神への怒り
帝国の人間には、当然人の心を持つものもいます。
ですが彼は……。
偽善への怒り
どうぞ。
浅い眠りから目覚めたマルク——。
傷ついては止血を繰り返す、見るも無残な体の痛みは、彼の眠りを決して許す事はなかった。
「……っ」
声を出すことすら惜しいほどに消耗し、ただ石畳を見つめていると——やがて、扉が泣くように軋んだ。
「——さぁさぁ起きてください。おしゃべりのお時間ですよ」
パンパンと手を叩き、部屋へと入ってきたのはシュダ。
その後には、退屈そうにあくびをするガンツの姿もあった。
「そろそろ女神様の事、お話しする気にはなりましたか? それともマルクさんは、拷問がお好きでしたか? フフフ——」
「……」
女神の騎士は、這いつくばったまま動かない。
眉を顰めたシュダは、なんとか興味を引こうと嘲るように語り始める。
「しかし、バルナでの戦いでは肝を冷やしましたよ。我々の作戦をことごとく破るのですから——しかもあんな、少年少女に……」
その言葉にピクリと動いたマルクは、ようやく口を開いた。
「ルミナとルキは……どうした?」
彼が最も懸念するのは、二人の安否。
それにピンときたシュダは、口角をグッと吊り上げた。
「ほぉ……ルミナさんとルキ君と言うのですね、あなたの大切なお仲間の名は。まだお若いのに、お気の毒に——」
心にもない同情の眼差しを、マルクは睨み止める。
「まさか……二人に何をした?」
——次の瞬間、彼の口からあまりにも残酷な事実が語られた。
「少年ルキ君は、妖魔の実験材料に。そして、ルミナさんは、今頃帝国兵の男達に——フフフ」
嘲りを含んだその声が、心を抉る。
言葉にならない感情が、胸の奥で静かに燃え上がっていく。
それでもマルクは、かすれた声を無理やり絞り出した。
「二人を——解放しろ」
それは——静かな怒り。
だが、そのかすかな炎に、さらに油が注がれる。
「安心してください——お二人とも、まだ生きていますよ。それにルミナさんは、案外楽しんでらっしゃるかもしれませんねぇ?」
——その瞬間、帝都全体を包むほどの怒号が鳴り響いた。
「やめろぉぉぉ‼︎ ルミナに手を出すなぁぁぁ‼︎」
怒り狂うマルクの姿は、まさに理性を失った猛獣そのもの。
しかし、伸びきった鎖がその体の自由を奪う。
小さな男の目の前で、彼の動きはぴたりと止まった。
「——ひっ!」
死に瀕した者とは思えない覇気に呑まれ、シュダは思わず尻餅をついてしまった。
「おいおい。動けねぇ相手に——何びびってんだ……」
隣にいたガンツが、その様子を呆れたように見下ろしていると——我を取り戻したシュダの顔が、怒りでみるみる赤く染まっていく。
「貴様ぁ……黙りなさい!」
そして——目にも止まらぬ速さで、何かが振り抜かれた。
「——ぐっ!」
脳へと走る激痛に、マルクの体が大きく揺らぐ。
だが——その程度で収まる怒りではなかった。
「二人を……離せぇ……」
絞り出されたその言葉に宿るのは、確かな反抗の意思。
しかし、その意思を無視するかのように——苦痛の雨が容赦なく降り注いだ。
「アハハハ! ほらほら! 痛いですか? 悔しいですかぁ⁉︎」
楽しげな声と共に、彼の手に握られていた鞭がしなる。
「仲間のために——もっと耐えなさい! 苦しみなさい! 嘆きなさい!」
打ち据えられるたび、体の自由が確実に削られていくマルク。
やがて抗う力すら失い——その意識は、ゆっくりと暗闇へと沈んでいった。
「——ル……ミナ」
* * *
再び、決して長くは無い暗闇の時間が終わった。
「……ぐぅ」
すぐに襲いかかる激痛に引っぱられ、思考が遅れてやってくる。
「——んあ? 起きたか……ふぁーあ……」
目の前にいたのは、壁へと座り込み、伸びをするガンツ。
だが、痛みに目覚めてもなお、マルクの意思は変ることはなかった。
「——会わせろ……仲間に、会わせろぉ……!」
おとなしくしていた鎖が、彼の怒りによって再び轟く。
一体どこにこんな力が残っているのだろうか……。
「うるせえなぁ……そんな奴ら、ハナからここにはいねえよ——」
——彼の言葉に、マルクの怒りは静かに収まっていく。
「なん……だと?」
鎖の轟音が収まる中、ガンツはめんどくさそうにため息を吐いた。
「仲間が捕まってるなんて、あいつが勝手についた嘘だ。お前が悔しがんのが面白いんで、あることないこと言ったんだろ——」
溶けるように、地面へと倒れ込むマルク。
二人が無事だったこの事実が、何よりも彼の心を癒していた。
「そう……だったのか——」
「勘違いするなよ? お前があんまりうるせえから、黙らせてやっただけだ。——全く……眠れやしねぇ」
ガンツはそう言って、再び瞼を閉じる。
——まるで敵意を見せないその態度は、目覚めるたびに苦痛を繰り返していたマルクにとって、あまりにも異様な光景。
やがて彼には、疑問を抱く余裕さえ生まれていた。
「君は……僕に何もしないのか?」
「あ?」
地面から這い上がるような声に、ガンツは目を覚ます。
「あいつらと一緒にするんじゃねぇ——大体、無抵抗のやつをいたぶって、何が楽しいんだか……」
彼の中には、確固たる“人の心”が垣間見えていた。
悪魔に魂を売ったと言われる帝国に、そんな一面を持つ者がいると知ったマルクは、思わず小さく息を漏らした。
「……ふっ、そうか。それなら構わないが」
——しかし、彼の安堵する姿を見たガンツに、何かが引っ掛かる。
「お前、仲間の無事がそんなに嬉しいかよ?」
「当然だ——だから、仲間と呼ぶんだろう?」
「——っ!」
躊躇わず飛んでくる返答に、彼は一瞬言葉を失い、何かを言いたそうに口をつぐんだ。
「……ふん」
何かの思いを押し殺し、立ち上がって一言だけ言い残す。
「——女神の居場所なんか、さっさと吐いちまえよ」
「……帝国に話すことなど何もないさ。だけど、気を遣ってくれて——感謝するよ」
その言葉を受け取り、再び笑みを見せるマルクだったが——。
「そうじゃねぇ!」
突然——声が荒げられる。
その顔は、先ほどまでの穏やかな顔とは違っていた。
やがて、強く握った拳を見つめながら——ある事を口走る。
「大陸の英雄である、女神の国? 笑わせんじゃねぇ! 血も涙もねぇ偽善者連中のくせによぉ——」
「偽善者……?」
それは、大きな肩を震わせるほどの強い怒りだった。
その片鱗に触れたマルクは、戸惑いの表情を浮かべる。
「教えてくれ、君の過去を——」
聞き捨てならない言葉に問いかけようと、ゆっくりと体を起こす。
だが——。
ガンツはその手を解き、牢を後にしながら、一言だけ言い捨てた。
「とっとと見捨てろよ、あの時みたいにな」
——彼の悲しげな背中は、扉の奥の闇へと消えていく。
以前、同郷だという言葉を口にしていたガンツだったが、彼が背負う過去の重さを、マルクはまだ理解できていなかった。
女神の国を偽善と語るガンツ。
一体彼には何が……。
お次は火曜日!




