第37話 母が見ていた世界(前編)
今度は彼の過去を掘り下げます。
これが、私の一部です。
母が見ていた世界(前編)
どうぞ。
それはまだ、彼が家族と共に暮らしていた頃の記憶。
「待て、鏡! ——話は終わっていない」
父の制止にも耳を貸さず、鏡はその場に背を向けた。
「お兄ちゃん……⁉︎」
箸も並んでいない食卓。
味噌汁の湯気が立ちのぼる台所からは、夕食の支度をしていた妹が顔を上げる。
しかし彼は、その声にも答えず玄関へ向かうと、乱暴に靴を履いた。
一瞬だけ、温かな夕食の匂いが鼻をかすめたが、それでも、その足が止まることはない。
玄関の扉が勢いよく閉まり——家の中には、その音だけが残っていた。
「一体、どこに……?」
「また——母さんのところだろう」
父は苛立ちを押し殺すように、深く息を吐く。
そんな家族を残し、夜道を歩いていく鏡。
その足が向かう先は——いつも決まっていた。
——たどり着いたのは、いつもと同じ匂いのする病院の廊下。
静かな病室の扉には、小さな白い札がかかっていた。
白銀幸。
その名前の前で、鏡は一度深呼吸をする。
さっきまでの苛立ちを胸の奥へ押し込むために。
——コンコン。
ノックをして扉を開けると、窓際のベッドに一人の女性が座るように寝転がっていた。
膝の上には読みかけの文庫本。
白縁の眼鏡を指で軽く押し上げ、こちらを見る。
彼女こそ、鏡の母——白銀幸だった。
「あら? 鏡じゃない——」
細く優しいその声に、鏡は自然と笑顔になっていた。
「来たよ……母さん」
母は本を閉じ、眼鏡越しにじっと彼の顔を見つめた。
そして、すぐに小さく笑う。
「お父さんと、喧嘩したんでしょう?」
「うっ……!」
図星だった。
鏡は視線を逸らし、椅子に腰を下ろす。
「別に……喧嘩ってほどじゃないよ——」
そう言いつつも彼の言葉は止まらなかった。
夢のこと。
自分のやりたいこと。
大学に進めだの、安定した道を選べだのと繰り返す——父への不満。
「俺の人生なのに……俺が決めて何が悪いんだ」
自分の考えが認めてもらえず、慰めの言葉を貰うためにここまで逃げてきた。
しかし母は、優しく微笑んだまま、静かに告げる。
「なるほど……お父さんが正しいわね」
言葉を詰まらせる鏡。
「夢が叶わなかったら、生活はどうするの? ダメでしたってなっても——人生は続くのよ」
白縁の眼鏡の奥から、真っ直ぐにこちらを見つめる母。
「お父さんはね、あなたを想って言っているの」
その言葉に、鏡はただ唇を噛んでいた。
そんなことは、彼にだって——。
「わかってるよ……」
父とは、これまで何度もぶつかってきた。
だからこそ、母なら少しは自分の気持ちをわかってくれる——そんな期待を抱いて、ここまで来たのだ。
だが、その母にまで父が正しいと言われ、鏡は俯いた。
すると——。
「でもね」
その一言に、鏡は顔を上げる。
「お父さんが正しいからって、ぶつかったくらいで逃げるのは違うわ。ちゃんと向き合わなきゃダメ」
柔らかいのに、芯のある声だった。
「私からも言ってあげるから、しっかりしなさい。じゃなきゃ母さん——化けて出るわよ?」
そこには、いつも優しく笑ってくれる母。
胸の奥にあった重さが、少しずつ溶けていく。
やがて。
「うん……わかったよ」
鏡は、小さく息を吐き、笑みを返した。
あの瞬間、母の言葉は確かに彼の背中を押してくれた。
——だが彼は、小説家になるという夢を叶えることもなく、その命さえ落としてしまう。
ロクでもない人生だったと。
やはり、父の言うことが正しかったのだと。
すべてが終わった後になって、ようやく自分の選択を悔やんでいた。
それでもカガミは——。
(母さん……化けてもいいから、出てきておくれよ)
今も根強く残る母の言葉に縋りながら、その答えを求めていた。
* * *
「カガミ? 聞いてるの?」
(ん? ああ……何だっけ?)
ルミナの声に、ようやく気づくカガミ。
そこは、いつも三人が体を休めている幕屋の中だった。
さらに彼女の中から周囲を見渡すと、訝しげにこちらを覗き込むニーテの顔が目に入る。
「いつまでルミナさんの中に閉じこもってるんですか?」
「あなたがエルリアさんに魔法を教えるよう、指示したらしいですね? カガミさん」
その隣からは、ジーンの視線も向けられていた。
「うぅ……」
二人の鋭い注目を浴びていたルミナ。
——やがてカガミは、彼女の体を離れ、その意識を外へと移した。
(その話なら——)
二人の視線が、声のする方へと向けられる。
(あの時は、なんというか……その)
言い訳を探すように言葉を濁すも、何も思いつかない。
掟を破り、ルミナから魔法を学んだエルリア。
責任の一端は、その背中を押した彼にこそあった。
「さらに族長にまで食ってかかるなんて——あれじゃ火に油を注ぐようなものですよ」
(すまん、つい……)
それでもニーテの追及は止まらない。
カームに見せたルミナの激昂が、すべてカガミの意思によるものだったことを、彼女も察していた。
——すると。
「まあまあ。待ってよニーテ」
一方的に責められていた彼に、救いの手が入る。
「カガミも、あの子のためにやったことなんだからさ」
「……そうですけど」
すべては、悩める少女エルリアのため。
それを理解するニーテも言葉を止めるが、その表情はどこか腑に落ちない様子だった。
「このままで、いいんでしょうか……」
——里の過去を聞いたあの時から、すっかりと口を閉ざしてしまったエルリア。
重い掟の理由を知った彼女は、再び自由を求めることはなくなった。
だが、このまま何者も寄せつけず、ひっそりと暮らし続けることは、この里のためにもなるのだろうか。
彼らと触れ合ってしまった彼女たちの胸には、そんな迷いばかりが渦巻いていた。
「その辺にしておきましょう」
やがてジーンが、静かに空気を締める。
「私たちは、クエストの依頼を受けてここにいるのですよ? 彼らの事情に、これ以上首を突っ込むべきではありません」
「そう、でしたね」
少し冷たくも聞こえる言葉。
それでもニーテは自分を納得させるように、そっと目を伏せた。
すると——。
「……っ!」
ルミナは突然立ち上がった。
「ルミナさん? 一体どこに——」
そのまま歩を進め、入り口の垂れ布をくぐったところで、彼女は振り返る。
「心配しないで——少し風に当たってくるだけ」
そして、その視線をカガミへと向けた。
「カガミも一緒にね」
(え? 俺も?)
突然の名指しに戸惑いながらも、彼は慌ててその背中を追う。
「……わかりました。では私たちは、先に休んでおきますね」
背後から聞こえたジーンの声に見送られながら、そのまま幕屋を後にする二人。
向かう先も告げないルミナに連れられ、カガミは夜の里へと出ていくのだった。
カガミの過去でした。
今になって思い出すのは、母の言葉……。
そして、カガミを連れ出したルミナの真意は?
お次は金曜日!




