10つめ
「聞いているのかい、リタ」
「申し訳ありません、耳が聞く事を拒否しておりました」
リタは猫の爪を磨き落としながら顔も上げずに言った。アーティレット王子がやれやれと肩をすくめているのが振り返らなくても手に取るように分かるようだ。
「何のために彼女を君に預けたと思っているんだい。少しくらいは僕に協力しようという気にならないのかい?」
「当の本人が嫌がっていますから」
「君の雇い主が誰か言ってごらん」
そこでリタは顔を上げて振り返った。良い笑顔を手の甲に乗せたアーティレット王子はその視線を受けて首をかしげて先を促す。
眉を顰める。
「大牛様の言葉を馬鹿正直に守っているアーティレット王子ですが?」
「雇い主の意向に沿おうと言う考えは」
「その雇い主から良きに計らうよう命じられたアヴェリア様の意向を尊重しております」
「ないみたいだね。残念」
話が一段落したとみてリタは猫の手入れに戻る。子猫もすっかり大きくなり、もう成猫になっている。アークもあっという間に成長してしまい、部屋で過ごすには窮屈になってしまったので、一日の大半は外で過ごしてもらっている。
爪が整えられていくのを当の本人である白い猫は興味深そうに眺めている。ブチ猫のほうは爪とぎもお風呂も嫌いなようで、今も次に自分の番が訪れることを察して隠れてしまっている。
部屋に沈黙が落ち、擦過音だけが潮騒のように流れていく。
ややあって、アーティレット王子は再び口を開いた。
「リタも良く見れば顔立ちが整っているな」
「良く見なければわからないほど平凡であれば、それ以上優れた美貌のお方など掃いて捨てるほどここにはいらっしゃるでしょうに」
白々しい目で睨まれたアーティレット王子は緩く笑ってみせる。
「性格がこれじゃな、大牛の気持ちも少しわかる」
その言葉に若干動揺して止まった手を再び動かしながらリタはそれとなしに続きを促す言葉を吐く。
「それ、というのは?」
「秘密だ。アイツが墓まで持っていったのだから、僕が言うべきことじゃない。ただ……」
アーティレット王子はそこで一拍おいて、
「リタも気づいていたんじゃないのか?」
と言った。
興味深そうなアーティレット王子の問いに、リタは反応しないという選択をした。
手入れが終わって白猫を開放すると、猫は「ありがと」とでも言いたげに尻尾をゆらゆらを振りながらお気に入りのクッションの元へ歩いていった。
後始末を済ませたリタはコートツリーによじ登って避難していたブチ猫を捕まえ、再び爪の手入れを始める。
その様子を目で追っていたアーティレット王子は話を再開させた。
「僕は自分の欲しいものは手に入れるよ」
「そのため行動が倒れてた浮浪児を拉致してくることなんですね」
「拉致とは穏やかじゃないね。招致と言って欲しい」
「それでアヴェリア様が納得されているなら問題は起きてないのでは?」
「だからリタに頼んでるんじゃないか」
リタは顔を上げる。長い廊下を反響する足音が二つ近づいてきている。
「ご自分で努力なさいませ」
そう言ってリタは猫をきつく抱いた。次の瞬間、
「お兄様っ」
「リタ!」
まるで扉を破壊するような勢いで話題のアヴェリアと王女殿下が部屋に転がり込んできた。最もそれに敏感な反応を見せたのはブチ猫で、扉が開いた瞬間に逃げ出そうと力を込めたのだが、事前に察知していたリタによってその行動を封じられていた。
リタが猫を押さえているうちに侵入者の二人はアーティレット王子に詰め寄っている。
「お兄様、また猫を拾ってきたと言うのは本当なのですか! あまりこの娘を甘やかさないように――」
「おいアティ! 今度はどんなのを拾ってきたんだ! そろそろ寒くなるからふかふかのがいいぞ!」
「ちょ、小娘! 私が今お兄様と話しているのです。引っ込んでなさい」
「こっちにくっついてくるな! 馴れ馴れしい!」
「あなたにくっつきたいわけじゃないですわ!」
どうやらここに来るまでにも相当鼻息荒くやりあっていたらしい二人。これが王族とその候補だというのだからこの国の将来の危うさが知れる。次期国王があのズエル殿下という辺りで既に不安だというのに。
「まぁ落ち着け、二人とも」
アーティレット王子は事も無げに二人を落ち着かせるとテーブルの脇に置いてある籠を指し示した。持ち込まれたときから嫌な予感がしていたが、ここまで来て確信する。厄介ごとの匂いだ。
先ほどまでの諍いっぷりが嘘のように二人は仲良さげにいそいそと籠を引き寄せた。掛け声と共に籠を開けようしている二人の少女を置いて、アーティレット王子がこちらに寄ってくる。
そしてぽつり。
「リタがそのつもりなら、僕は僕のやり方で彼女を手に入れて見せるよ」
大きく息を吸って、止める。
目の前の少女たちが歓声のような悲鳴を上げる。
「お兄様! これは一体何なのですか!!」
「羽生えてんじゃんこいつ! すげー!」
さすがの珍生物には食欲も起きないのか慄いている王女殿下と、反比例するように好奇心旺盛なアヴェリアがこちらを見てくる。
視線を受けたアーティレット王子は口角を吊り上げて言った。
「……リタ。世話を頼めるよな?」
リタは止めていた息を細く長く吐き出した。そこには色濃い諦観が滲んでいる。
もしかしたら協力を申し出ていたほうがよかったのかもしれない、と頭の隅で考えつつ、リタは狐目を伏せ、頭を下げた。
「……畏まりました」
腕の中のブチ猫が甘えるような声で「なぁご」と啼いた。